01/05/2024

2024.5.1(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書30章11節
私があなたと共にいて救い出す――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙2章18節
(イエス)ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
皆さん、おはようございます。
4月に終わりを告げ、5月がやってまいりました。あっという間の1か月間だったことを思いながら、さらに季節が進んでいく感があふれてきます。初夏を思わせる日も少しずつあるなかで、この新しい一か月にも、神様が皆さんに守りと祝福を与えてくださいますように。お祈りいたします。
 
神が私たちを救うことができるのは、神が全知全能の御方であるというのもさることながら、私たちの負う痛みや苦しみというものを、神御自身が身をもって経験されるからこそできるものなのだ。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私たちに伝えようとしていることです。
 
自分自身が痛みの経験をすれば、人の痛みも知ることが出来るのだと人は言います。それは事実ですが、痛めば痛むほど卑屈になってしまうのも人間の偽らざる姿であるように私は思ったりもしています。人間が経験した痛みは、きちんと癒されることがなければトラウマにも発展することは、私たちの誰もが認めるところです。だからこそ、適切な時に適切なかたちで、私たちは癒される必要があるのだと思えてなりません。
 
個の癒しこそが「救い」という言葉で表現できるものなのだ。救われるとは癒されること。私たちの負ったさまざまな傷を癒されるのは、もちろん医療的なアプローチや周辺の温かい言葉もそうですが、究極的には主イエスがそのことのために、私たちに向かって臨んでくださるのだ。今日の新約聖書が伝えようとしているメッセージの肝なのだと私は思うのです。
 
人の痛みがわかることは、本当に大切なことだと私も心から思うことですが、そのモデルというものがどこにあるのかを、私は今日の聖書の言葉を通して、改めて考えさせられました。十字架の痛みをもって私たち一人ひとりに臨み、私たちとともに歩まれたイエスが、私が今負っている痛みというものを一緒に担ってくださっているのだ。そう思うだけで、今抱えている痛みというもの自体は何も変わらなかったとしても、少しでも心の癒しになればと願ってやまないのです。
 
今日もどのような痛みが私を襲うだろうか。しかし、その痛みに付き合ってくださるイエスをただただ見つめつつ、歩むことが出来ますように。祈りつつ、皆さんの一日のためにも、心から祈りたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿