07/11/2025

2025.11.7(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編17節
あなたを尋ね求める人すべてが
あなたによって喜び楽しみますように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章38節
主の名によって来られる王に
祝福があるように。
天には平和
いと高き所には栄光があるように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

今日も新しい一日がやって来ました。皆さんにとってのこの一日が、喜びにあふれたものとなりますように!
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったこと。それは「私たちの喜びはどこから来るのか?」というものでした。そのことについてつづってみたいと思います。
 
喜びと聞いて私たちはどのようなイメージを抱くでしょうか。今日の聖句が伝えようとしているメッセージは、「神である主を『探し求める』ことで得ることのできる喜び」です。つまり、私たちにとっての喜びの源は、神とともにあることと抜き差しならぬ関係にあることを、いにしえの信仰者たちは大切にしていたことがわかります。
 
神が私たちに与えてくださる喜びは、誰の目から見ても明らかな、外的な喜びも多くあるでしょう。しかし、たとえ見た目に分かる喜びだけを物語っているわけではありません。私たちが経験することが、たとえ素直に喜べないことがあったとしても、それを他者が認めないような出来事であったとしても、神が与えてくださる喜びは決して消え去るわけではありません。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが都エルサレムに入城した際に、イエスの到来を喜んだ人々による歓喜の声について描かれているものです。確かにその時はイエスに対する期待が素直に人々の喜びとして表れた瞬間でした。
 
しかし、その後にイエスに訪れたことは、決して喜べない状況でした。イエスが捕らえられ、人々のあざけりや憎しみを受けながら、十字架によって殺されてしまうからです。喜びとは対極にある「見た目」が、人々の心に突き刺さります。
 
ただ、それは神による深いご計画によれば、内からにじみ出る「喜びの源」となったことは間違いなかったのです。その後のイエスによる復活の出来事は、確かに人間の命を活かし、人々を後々喜びへと導く確かな根拠となったのです。神の与えてくださる喜びは、すぐに分からないことも多くあるでしょう。しかし、その喜びは必ずや私たちに確かに与えられるものであることを、今日のふたつの聖句は私たちに気付かせてくださるのだ。私はそのように受け止めたいと思ったのです。
 
外的なものだけではない。内的な喜びが今日も私たち一人ひとりを包み込んでくださる。そのことを私たちの希望の基とすることができますように。お祈りします。

06/11/2025

2025.11.6(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書48章9節
私は、自らの名のために、怒りを遅らせ
自らの誉れのために、これを抑えて
あなたを絶ち滅ぼさなかった。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書1章21節
天使はヨセフに言った。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

今日は朝から病院へ行ってまいりました。8月に受けた心臓カテーテル手術の事後検査の結果を聞くためでした。おかげさまで異常はまったく見られず、服薬も終了しました。これで、ひとつ抱えていたことから解放されて、大変嬉しい気持ちをもって自宅へ戻ってまいりました。皆さんのお祈りに、心から感謝します。ありがとうございました。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の忍耐と譲歩」というものでした。そのことについてもくそをつづってみたいと思います。
 
昨日、私はある牧師と夕食をともにしていたときに、こんなことが話題にのぼりました。人に向き合ってその人の課題に付き合うというのは、本当に悩み、また忍耐の要るものだと。牧師とて生身の人間ですし、こんな仕事をしていると、自分自身の欠けというものをなおのこと痛感させられますから、忍耐をもって人と向き合うということが、こんなにも難しいものなのだということもしばしば思わされます。牧師だから特別な存在などというのは、どこにもないのです。
 
しかし、それに開き直って傍若無人に振舞って良いわけもありません。神の言葉を通して与えられる神の御姿というものに自分自身が慰められ、励まされながらも、この神とともに生きるということへの喜びをかみしめながら、その喜びを出会う一人ひとりと共有したいと心から願わされるのも、また確かな話なのです。そう考えますと、忍耐というとても難しい課題に、自分自身が真摯に向き合うことの大切さを、試行錯誤しながらも日々学ばされているという具合なのです。
 
今日の聖句は、神が私たち人間に対して、いかに忍耐強く接しておられるかということへの深い思索を与える言葉となっています。「自らの名のために」「自らの誉れのために」私たち人間への忍耐を示されたというのが、今日の旧約聖書の言葉が物語らんとしていることです。神の名は「私たちとともにいてくださる」という意味がこめられています。見捨てることのない神、ときに厳しく接することもあるでしょう。しかし、あくまで私たち一人ひとりに忍耐強く接しておられる神は、決してあきらめることなく、私たちとともに歩んでくださるというのです。
 
私たち人間の自己努力ではいかんともしがたい状況があるなかで、神は最大限の譲歩をされたというのが、ご自分の大切な御子を私たちのために命の救い主として与えてくださったという事実に他なりません。これ以上の譲歩はないのです。では、この譲歩に私たちはいかに応えることができるのだろうか。それを十全になすことが無理であったとしても、だからこそ、忍耐と譲歩という生きる道を、少しでも私たちの思いと心にとどめ、それを反芻しながら私たちの生きる大切なこととして守り続け、私たちがそういう生き方を営みたいと願うことなのでしょう。少なくとも私は、そういう生き方をしたいと今日もあらためて願わされました。
 
これはだれか一方が、どちらかが犠牲を払ってでもしなければならないことではありません。神から忍耐と譲歩を受けた者同士が、互いにそのことを尊重し続けていくのであれば、人と人との間に平和が生み出されていくのでしょう。そのことを胸にして、今日の一日を歩んで行くことが出来ますように。お祈りします。

05/11/2025

2025.11.5(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章40節
私たちは自らの道を探し、調べて
主のもとへ帰ろう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙1章9~10節
私は、こう祈ります。あなたがたの愛が、深い知識とあらゆる洞察を身に着けて、ますます豊かになり、本当に重要なことを見分けることができますように。そして、キリストの日には純粋で責められるところのない者となりますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

黙想とは何の関係もないことなのですが、私にとって11月5日という日には特別な思いを抱かされるものがあって、それは1985年のことでしたから、あれから今日でちょうど「40年」が経ったのだなとつくづく感じさせられました。
 
聖書で40年と聞けば、多くの方は「出エジプトにおける荒野の40年」を思い出されるかもしれません。エジプトを脱出したイスラエル人にとって、神が指し示された約束の地にたどり着くまでの40年間は、まさに荒漠としたなかを苦しみのうちに歩まなければならないものでした。しかし、だからと言って神がこの民を見捨てたわけではありませんでした。つねに見守り、導き、その約束を必ず果たされる神が、民たちとともにいてくださいました。
 
私たちは、神が私たちのためにともにいてくださったという感覚になかなか気づけないことがあります。自分に都合の良い時だけ、調子よく神を賛美してしまうのです。ちょっとでも自分にとって不都合なことがあれば、不平をこぼし、恨み節を簡単に発してしまうのが私たちの現実です。苦しみの要素をつなぎ合わせて悲劇をつくりあげてしまうのです。
 
しかし、そうであってはならない。私は、今日与えられたふたつのローズンゲンに収められた聖句を通して、「識別する」ことの大切さをあらためて思わされました。物事を平板化して、思索することも「なぜ」も問うことなく、自分の身の上に起きた事柄を自らの欲求や感情にまかせて答えを出し、言動に表現してしまうことで、本当に大切なことを見失ってしまうのではないか。そのためにも、探し求めること、じっくりと調べること、心の底から感じとること、物事の奥深くにある本質を見い出すことを、いかに私たちが大切にできるかというところに、今日の聖句が与えようとしているメッセージの肝があるのだと、私は受け止めたのです。
 
そのためにも、神がイエス・キリストを通して惜しみなく与えてくださった「愛」は、絶対不可欠なものに他なりません。愛とはどんな時にも、決して消え去ることのないいつくしむ思いであり、神が出エジプトのときにも、私たちの生活のなかでも、私たちがたとえ苦難のただなかを歩んでいるときにも、私たちの命を大切にするがために、ときには優しく、ときには厳しく私たちに迫り来る源、それが「愛」なのだと私は受け取って歩みたいのです。
 
40年前の11月5日、私は「父がいなくなってしまった」環境のなかで、新しい生活が始まった日でした。まだこどもでした。眼に見えることでしか、物事を判断できないくらい、何も持ち合わせていませんでした。それだけに、自分に遭遇する数々の出来事に、思い、悩み、苦しみ、この苦しみからどのように解放され、抜け出せるのかが分からず、もがき苦しむことも多々ありました。
 
しかし、神の愛が迫り来ることで、物事の奥に秘められた「本当に大切なこと=本質」が何であるかを知ることで、神がともにおられることを身近に感じ、それを希望として生きていくことができる。そこに喜びを噛みしめつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神の愛がますます豊かにさせてくださいますように。お祈りします。

04/11/2025

2025.11.4(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編116編9節
主の前を私は歩む
生ける者の地で。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙6章11節
あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

世の中では3連休が終わり、通常通りの生活が戻ってまいりました。あっという間に秋も深まっていくのを感じるのは、東北だからなのでしょうか。随分寒い朝を迎えるようになりました。暖房をかけて、朝のひと時を迎えています。皆さんもお風邪をひかれることなく、今日の一日をお過ごしくださいますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「生きている者」という言葉でした。神によって命与えられてこの世界で生きる私たち。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
私たちがいただいている信仰は、私たちの命は父母を通して「神が授けてくださったもの」であるということへの深い認識から来ています。私たちの命は私のものであることに間違いありませんが、「私の独占物」ではありません。あくまで神が命の息吹を与え、その命が祝福に向かうようにと私たちのために生きて働いてくださる神がおられるからこそ生きていけるのだという認識です。だから、私の命は私のものですが、究極的に神のものなのです。
 
ですから、神とのつながりなしに、私たちは生きることはありえないのだというのが、私たちが大切にしたい信仰の中核にあるものなのです。それは私たちの生というものを決して束縛するものではありません。むしろ解放へと向かわせ、誰にも妨げられず、また侵し合うことのない、犠牲のともなわない自由が神によって与えられるのです。私たちは神によって与えられた命を、神の思いに自分の心を合わせて生きることで、そこには決して派手ではないけれど、じんわりと心の底からにじみ出るような祝福があふれてくるのを、心から感じることができるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には「罪にあっては死んだ者」という言葉が登場します。ここで言う罪とは一般的な悪事を指すのではなく、その前提にある「神との断絶という私たちの選択、関係性の破綻」という意味を指す言葉です。この手紙を書いたパウロはそのことを心から実感していました。神とつながらない日々の生活は、通常の生活は営めるかもしれない、それなりの満足感も得られるかもしれない。しかし、そこに命はないのだと。本当の意味での命の幸いがないのだと。パウロはそのことを言いたくて、手紙に書きしたためました。
 
神である「主」の御前にあって、私たちは神と歩調を合わせながら、イエス・キリストとともに歩む一日が、今日も与えられました。命の幸いを見い出すためにです。そんなところから生じてくる命の幸いと喜びが、私たちの生きる土台となることができますように。

03/11/2025

2025.11.3(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨブ記16章19節
今も天に私の証人がいる。
私のために証言してくれる方が高い所にいる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙4章14節
さて、私たちには、もろもろの天を通って来られた偉大な大祭司、神の子イエスがおられるのですから、信仰の告白をしっかり保とうではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

世の中では3連休の最終日として、今日の一日を過ごされる方々も多いかと思います。皆さんにとって、どうぞ良き休息の一日となりますようお祈りします。私はある研修会で講演をするために、故郷である福島市へ出かけます。車で1時間ほどの道のりですが、今から大変楽しみです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「神が分かっていてくださっているのだから」というものです。そのことについてつづってみたいと思います。
 
人に理解されないことがあります。どんなに誠意をつくしても、分かって欲しいと丁寧に説明をして理解を求めても、なかなかそうならないことがあります。そういうことが続くと、自分自身のなかで感じるのは「孤独」であり、「くやしさ」でもあり「悲しさ」でもある。そんな経験を誰もがしたことがあるのではないでしょうか?
 
私自身、数年前に起きて現在もなお続いている「ある出来事」を通して、そのような思いにさせられることがありました。その出来事について、断片的にインターネット、SNSなどを通して断片的に語られます。なかには、悪意をもってそれを拡散する人たちすらいる始末です。あらためて、インターネットが持つ「情報力」の怖さというものを痛感させられました。
 
そのような孤独感やくやしさ、苦しさというものを経験する一方で、私の思いに耳と心を傾けてくれる大勢の方々がおられたことも確かです。そういう存在にどれだけ慰められ、励まされてきたことでしょう。何も私のイエスマンを求めているわけでもない。ただ、それに同意できようができまいが、断片的な情報だけで判断をしないということを示してくれるだけで、本当にありがたい思いがしたのでした。
 
私は思うのです。眼に見える人たちがおられるという存在だけで、励まされたり慰められたりするのだから、ましてや私たちの神がそのような御方であったするならば、なおのこと心強いのだろうと。まさに、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、そのことの確証を私たちに与える言葉であると、私はアーメンと受け取りたいのです。
 
誰からも理解されなくても、隠れたところまで見ておられ、何が善であり悪であるかをすべてご存知である神がおられるのですから、決して私の人生を悪いようにはなさらないのだと。もちろん、そのような神の御前で、人に対してもただ誠実に生きることが大切なわけではありますが。。。
 
今日の新約聖書・ヘブライ人への手紙には「信仰の告白」をしっかり保とうではありませんかとありました。信仰の告白。そのような神が私とともにいてくださる。イエスが私とともにいてくださる。聖霊が私とともにいてくださる。三位一体の有機的な神の働きに包まれながら、生きていけるということを、私の心の支えとして生きること。まさに、それが「信仰の告白」に他ならないのです。
 
そのことが、今日生きる私たちの「希望」となることができますように。神に祈りつつ、神とともに歩んでまいりたいと思います。

02/11/2025

2025.11.2(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書2章15節
多くの国民が主に連なり
私の民となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録21章3節
神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。

本当に久しぶりに黙想をつづり、それをお届けし、神の御言葉の恵みを分かち合うことができる幸いを噛みしめつつ、神と皆さんに心から感謝いたします。
 
そして、今日は週のはじめの日。世界中で行われる主の日の礼拝が、大いに祝されたものでありますように祈ります。私たちの教会では、本日の礼拝は「永眠者記念礼拝」として、礼拝の時を過ごす予定です。
 
そんななかで、今日の新約聖書の言葉に選ばれたのは「ヨハネの黙示録」の終盤部分にある一節でした。神の国が「新しい天と新しい地」として訪れる際に、私たちの世界に何が実現されるのかについて描いています。
 
ひと言でいえば、私たちの主である神が「私たちとともにいてくださることで、本当に私たちの神となってくださる」ということの実現です。つまり、神が天地創造の時に意図された目的が完全に成し遂げられることを、この聖句は如実に物語っているのです。
 
「主」という神の名前には「私はある」という意味があることは、大昔に神がモーセをはじめとするイスラエルの民たちに告げたとおりでした。「私は神であり、私はあなたがたとともにいることで、私はあなたがたの神となる」。全存在を示すその名前の意味こそ、神が神であることの紛れもない存在意義だったのです。
 
その目的がいよいよ回復される。反抗者の挑戦、神との関係性を問われる人間の試行錯誤の歴史に終止符が打たれようとしている言葉が、まさに今日の聖書の言葉として、私たちひとりひとりに与えられているのです。
 
神は私たちに向かって、その両手を差し伸べてくださり、私たちに歩み寄られました。この時だけではありません。ずっとずっとです。大切なのは、私たちがそのことに気付いて、伸ばされた手に自らの手を置くべく、私たちが生きようとしているだろうか。という問いに、どれだけ真摯に私たちが向き合い続けているだろうか、ということにあるのだと私は受け止めたいのです。
 
神の伸ばされた手に自分自身の手を合わせて生きるというのは、まさに「神の価値観を自分の生き方とする」ことに他なりません。それは、否が応にもといった、私たちの意思が無視されてもそのようにしなければならないということでは決してありません。あくまで私たち個々人に与えられた判断と決断は、何ら妨げられることはないのです。
 
だからこそ、私たちが「本当にそうしたいのか?」と問われるのです。神が手を差し伸べられるその腕には、神が私たちひとりひとりの命を守るべく広げられた心がある。それこそ「神の示された愛」に他なりません。私たちを慈しまれる神の御心を、私たちはいつでも知る機会が与えられているし、それを理解し、自分自身のものとし、生きる大きな柱とすることができるのです。
 
ですから、「本当にそうしたいのか?」ということに十分に自分の答えをもって歩むことができるように、今日も神の御言葉に耳と心を傾けることが大いに許されています。神が与えてくださったごちそうを頂くように、それを心から味わいたい。今日の聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったことです。
 
皆さんにとっての一日が、神とともにある幸いに包まれますように。心からお祈りします。

01/11/2025

ローズンゲン黙想再開のお知らせ


皆さん、大変ご無沙汰しております。いつもローズンゲン黙想をご愛読くださり、まことにありがとうございます。

さて、しばらくの間黙想をお休みしておりましたが、明日より再開することにいたしました。

すでにご存知の方もおられるかと存じますが、私事、10月に両目の硝子体除去手術および白内障手術をおこないました。手術は医師の当初の予想以上にうまくいき、両眼ともはっきりくっきりと見えるようになりました。

これまでは、聖書の文字はもとより、ローズンゲンの文字や、パソコンの文字まで見ることのできない日々が続いておりましたので、大変不便と不安を抱きながら、この2年近いあいだを過ごしてまいりましたが、まさに「世界が変わった」がごとく、見るものすべてが新鮮に映るようになりました。イエスによって癒された盲人が、嬉しさのあまり躍り上がる気持ちも、今ならば理解できます。

ということで、これまで私のために祈り、支えてくださいました皆さまに心から感謝しつつ、今後とも神の御言葉を通じて、良きお交わりができることを楽しみにしております。どうぞ今後とも主にあってよろしくお願い申し上げます。

齋藤 篤