21/01/2026

2026.1.21(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編42編3節
神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章6~7節
それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
大寒波が日本を襲っています。そのことによって差しさわりがあると思います。そのようななかで皆さんの安全が守られますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「見えない神を見える神とする」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが人を見るように、神の姿かたち、その表情や声に触れることができたら、どれだけ安心できるだろうか。そのように思うのは私だけではないかもしれません。私たちは誰でも、与えられた五感を通して安心できる部分があるからです。
 
しかし、神をこの世で出会う物事のように、五感で感じ取ることは大変難しいと言えます。だからこそ、私たちには「第六感」、つまり霊的な感覚というものをもって、神を感じ取ることができるのです。これは聖霊の授与と導きによって、私たちはそのような感覚を神からいただき、それを感じ取ることができるのです。こうして、神が私たちとともにおられることを私たちが自分自身のものとすることができるとき、それが「信仰」であり、その信仰によって人生の旅路を神とともに歩むことができるのです。そのことを、使徒パウロは手紙に書きしたためました。
 
物理的に神を見ることができなくても、心配ないのです。安心してくださいとパウロは手紙の読み手に示しました。私たちが生きることに渇きを覚え、神と出会えないことに苦しみを覚えても、神は見えないところで私たちのために働いてくださるというのです。そのことを希望として、私たちはいただくことに何の妨げもないというのが、神がご自分の言葉を通して伝えようとするメッセージなのです。
 
神が見えない、自分の苦しみに応えてくださらない。心配でたまらないときにこそ、聖霊が私たちのために働いてくださいます。私たちの第六感に働きかけてくださいます。そのことを祈り、神に語りかけてみたいと思います。必ずなんらかの形で、神は応えてくださるでしょう。そのことを私たちの希望とすることができますように。私たち一人ひとりの安心が豊かにありますように。心からお祈りします。

20/01/2026

2026.1.20(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉5章6節
夢が多ければ、ますます空しくなり、言葉も多くなる。神を畏れよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二1章16節
私たちが、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、神が与えてくださったこの一日が、私たちにとって無くてはならないものとなりますように。新しいひとつひとつの出会いに、神が私たちに喜びを与えてくださるものとして、私たちを導いてくださいますように。祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちの想像を超えて」とおいうものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、コヘレトの言葉(伝道の書)でした。賢人によって書かれたこの書物には、私たち人間の現実と空虚さ、その空しさのなかで神が私たちのことをどのようにご覧になられ、私たちに祝福された人生を与えてくださるかについてつづられています。
 
夢が多ければとあります。夢を持つことそれ自体は、決して悪いものではありません。ここで言及されている夢とは、神が私たちの人生を支え、導き、祝福と幸福をお与えになられる方であるということへの深い信頼をそっちのけにし、ないがしろにして歩もうとする人間の空想や夢想のことを指しています。
 
そのような夢想や空想は、神が与えてくださる言葉を自らのなかから排除して、自分自身の野望を「神」になったかのように饒舌に語るのだという、賢者の観察がつづられているのです。賢者は、私たちの夢や希望というものは、神の指し示されるものを理解しようとする態度、それを胸にして歩もうとする態度があってこそ、はじめて夢や希望が明らかなものとされるのだということを、私たちに知らせているのです。
 
そのことをより明らかにしてくださったのは、神が救い主として与えてくださったイエス・キリストでした。イエスが私たちの生活のただなかに現れたとき、私たちの想像をはるかに超越する出来事を、また私たちの心を超えて多くの希望に満ちふれた言葉を語られました。それらは嘘いつわりなく、確かに私たちの心を平安なものに導いてくださいましたし、それは現在にいたっても、実際に何の変わりもない良いたよりとして、私たちが受け取ることのできるものなのだと、「ペトロの手紙」を記した著者は書き記したのでした。
 
空しくなるような作り話ではなく、主イエスが私たちと、そのお名前をもってともにいてくださる。そのことを胸に抱きつつ、今日も希望にあふれた一日でありますように。心からお祈りします。

19/01/2026

2026.1.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下18章4節
どうかまず主の言葉を伺ってみてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章63節
(イエスの言葉)私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週はとても寒くなるという、仙台の天気予報です。本格的に冬らしい冬を迎えるのは、決していやなことではありませんが、それでも何かと健康が損なわれやすい時でもありますので、健康に留意しつつ過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「神の御心に聴く」というものです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、歴代誌下18章の言葉ですが、イスラエル王国が南北に分裂してそんなに時が経ってない頃、南イスラエル(ユダ王国)の王であったヨシャファトによって語られたものです。彼は神に忠実な態度を示し、善政を実行した人物として知られています。
 
そのヨシャファトが物事を決める際に大切にしたことは、「私がどう思うか?」ではなく「神である主はどう思われるか?」ということでした。彼はよく知っていました。人間の願望よりも、神の願いのほうが必ず平和をもたらすということをです。人間の判断は時として状況を狂わせ、ゆがみを生じさせます。それによって犠牲を生むことすら往々にしてあるのです。「これこそ神の願いである」と思い違いしたり、場合によっては自分の願望を神の名を借りて、知らず知らずのうちに悪用してしまっていることすらあるのです。
 
だから、私がどう思うかではなく、神がどう思われるのかということに、自分自身の思いや考えを集中させることが必要なのです。そのために、神の言葉である聖書の言葉が私たちに与えられているわけですが、私たちに求められているのは、その本質を見極められるような読み方をすることです。神が送ってくださる聖霊の助けがどうしても必要です。しかし、その聖霊を盾にして、自分自身の願望を神の意思とすり替えてしまうことも往々にしてあるのです。気を付けなければならないことなのです。
 
イエスは言われました。「私の言葉」と。イエスが私たちに示してくださった言動のひとつひとつの本質というものを、私たちは是非大切にしていきたい。これが改めて私が思わされたことであり、黙想でした。
 
今日の一日が、皆さんにとって平和をもたらすものでありますように。心からお祈りします。

18/01/2026

2026.1.18(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章17節
(主の言葉)私は平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙二3節
父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平和が、真理と愛の内に、私たちと共にありますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。今日、世界中の教会や集会で行われる主の日の祝祭、礼拝のすべてに、神が私たちに臨んでくださいますように。それぞれの営みを祝福してくださる神に感謝しつつ、今日もローズンゲンに示された神のみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私にとって平和と正義とは?」です。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者イザヤによって語られた、神がもたらしてくださる新しい世界のおとずれについて描かれたシーンです。そのなかで神は、その世界に住む私たち人間に対して、「管理者」かつ「監督者」を私たちのために置くと仰せになりました。では、管理者とは誰でしょうか? 監督者とは誰のことでしょうか? それが「平和」と「正義」であるというのです。
 
私たちのなかで、平和を愛さない人はいないでしょう。正義を嫌う人もいないでしょう。しかし、自分が愛してやまない平和や正義がどのようなものかということを、私たちはじっくりと考える必要があるのだと思います。人を殺し犠牲を生むことで、平和や正義を実現しようと考えている人たちもいえるのです。これが、本当にイザヤ書で触れられている平和や正義のあり方なのでしょうか?
 
私は、人間の歴史が平和や正義というものを追求するなかで、多くの犠牲というものが確かに存在していたことを思わずにはいられません。平和を愛している、正義の正統性を振りかざしながら、結局のところ、人のことなどお構いもなく自分自身の欲求をまき散らしているだけなのです。そうではないのです。私たちを監督し、管理する平和や正義は、あくまで神由来のものであることを、私たちはどれほど自分自身のものとしているでしょうか?
 
神の平和、そして正義というのですから、それが何かを私たちは知り、そして私の生き方を神が願うような平和と正義があふれるようなものとすることこそ、私たちの健やかな日々へと神が導いてくださるということを受け入れたいのです。
 
そして、それは具体的に、神がイエス・キリストを通して示された「恵みと憐れみと平和、真理と愛」であるというのが、今日の新約聖書の言葉が指し示しているものであるということを、私たちは是非胸にして歩みたいのです。そんなことを黙想しました。
 
皆さんの新しい一週間のスタートが、神の平和と正義に支えられたものでありますように。心からお祈りします。

17/01/2026

2026.1.17(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編91編9節
主はあなたにとって確かな方。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章47節
(バルティマイは)ナザレのイエスと聞くと、「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と叫び始めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
一週間も最終日を迎えました。私たちはこの七日間の旅路をどのように過ごすことができたでしょうか? 私たちとともに歩んでくださる神である主が、私たちをどのように養い、導き、先導者として伴走者として歩んでくださったでしょうか? そんなことを思いのなかで巡らせながら、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に聴こうと思います。
 
今日の聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「憐れみをもって私たちを守られる神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編91編9節の言葉を歌った詩人は、神のことを「確かな方」と呼んでいます。何が確かなのでしょうか? 
 
『日々の聖句』では、原版である『ルター訳聖書2017年版』からの翻訳です。そのうえで、日本語訳聖書では、この部分を「逃れ場」「避け所」という日本語で翻訳しています。つまり、神が何において私たちにとっての確かさを感じさせるのかということを考えたときに、それは、私たちを徹底的にご自分の思いや願いで、その人生を守ってくださることに対して、その確かさを賛美していることがわかります。
 
私たちは神を信じて歩んでいても、自分自身の思いや願いが叶えられず、神が自分の苦悩に顔を向けて下さらないように感じることがあるでしょう。その時に、私たちは神に見捨てられたような感覚に陥るでしょうか? 神が私たちを守ってくれないと感じるのでしょうか? 神は私たちの「欲求」に必ずしも応えられるわけではありません。しかし、私たちが本当に「必要」とすることには、ご自分の意志とその価値観をもって私たちを安全な道へと導いてくださるのだ。これこそ、この詩編の一節を通して私たちが感じ取ることができるメッセージなのだと、私は受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、盲人であるバルティマイがイエスに対して、自分自身の眼が見えないという苦悩を憐れんでほしい。そのような願いが込められたバルティマイの懇願のひと言です。これはバルティマイの切なる「欲求」に他ならないでしょう。しかし、欲求だけではありませんでした。バルティマイが神とともに歩みたいという切なる願いが、彼の人生にとって必要なものであることを、バルティマイは心のどこかで感じていたのかもしれませんし、何よりもイエスが彼にとって、これは必要なことなのだと感じておられたのです。だからこそ、イエスはバルティマイの眼を癒やされました。バルティマイが神を賛美することができるように、その必要を現実のものとされたのでした。
 
私たちの「必要」とは何なのか? それは私たちにとって神は、確かに私たちの人生を大切に守り、それを導かれる方であるという、私たちの人生の「必要」である。そんなことを私自身胸にして、一週間の振り返りを行いたいと思わされました。
 
どうか私たちの必要をご存知である神が、私たちの欲求がどこにあるのかを識別し、私たちにとって本当に必要なことを指し示してくださいますように。その必要を大切に守り続ける心と思いを、神が与えてくださいますように。心からお祈りします。

16/01/2026

2026.1.16(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書8章23節
あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一12章13節
なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼(バプテスマ)を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も目覚めとともに、神から生きる命が与えられました。この一日をともに歩んでくださる神が、私たちの行く道を幸いなものへと導いてくださいますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに指し示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「どんな者でも」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ゼカリヤ書8章23節の後半部分でした。前半部分を読むと、さらに理解が深まると思います。このようにあります。
 
万軍の主はこう言われる。その日、あらゆる言語の諸国民の中から、十人の男たちが一人のユダの人の裾をつかんで言う。『あなたがたと一緒に行かせてほしい。神はあなたがたと共におられる、と我々は聞いたから。』」
 
一緒に行かせてほしいと願ったのは「あらゆる言語の諸国民」でした。そして願った先は「ユダの人」でした。裾をつかんだと聖書には記されています。十人の者が一人の人間の裾をつかんで願ったとあります。ユダ(ユダヤ)は、世界にあるひとつの国に過ぎませんでした。それも決して目立つことのない小さなところに、周囲の者たちが「一緒に歩ませてほしい」と懇願している姿を、私たちはイメージすることができます。
 
この言葉は、ユダという単一民族の宗教であったユダヤ教、そしてそこで崇拝されていた父なる神が、決して限定された神ではなく、大勢の諸国民のための神でもあることを私たちにイメージさせるものであると言えるでしょう。そのことは、後に私たちの前に与えられたイエスの生涯を通して明らかにされていくのです。万民のための命の救い主なのだと。
 
神は誰でも、その話を聴き、一緒に行かせてほしいと願うところには、私たちの神でいてくださいます。そもそも万民のための神なのです。大切なことは、私たちがそれに気づき、それを受容できるかどうかというところにあるのだと思います。そうなったときに、神の願いと人間の思いというものが「一つとさせられる」瞬間なのでしょう。
 
そのことを具体的に示した聖書の言葉が、今日選ばれた新約聖書の言葉なのです。どんな者でも、民族や立場にかかわりなく、私たちは神の霊の働きによって一つとされたのだと、この手紙を書いた使徒パウロは私たちにその思いをつづっています。
 
一つとなるとは、私たちの努力や意志、共通する趣味や好みによるのではありません。もちろん、ある程度一つとなることはできるでしょう。しかし、どうしても「無理をしてしまう」のです。無理がたたれば必ずゆがみが生じます。疲れます。究極的に、私たちの努力だけでは決して一つとなることはできない。これが聖書の語るメッセージなのです。
 
神がお与えになる言葉によって、その言葉に聖霊様のお働きが十分に込められ、私たち一人ひとりをご自分の価値観で一つとしてくださるのです。今日の新約聖書の言葉は「洗礼」を受けた根拠がパウロによって記されていますが、それは、私たちと神がひとつにされるのもさることながら、同じ価値観によって養われるところには、どんな者でもその価値観を共有し、そのうえで個々人に与えられている、きらりと光る個性を尊び合う社会というものが生み出されるのだと。これこそ、パウロの書いている「(キリストの)体」である教会の真髄なのだと私は受け止めました。
 
教会でも、家族でも、ひとつの価値観によって集められるところには平和が宿る。齟齬があったとしても、それをお互いに修正されようという力が必ず働きます。誰かが割を食ったり犠牲になったりする必要はどこにもないのです。それが神の願いなのですから。
 
今日も私たちの生活が、神の価値観によって整えられ、幸いな道をそれぞれが歩むことができますように。祈りつつ歩みたいと思います。神の大きな助けによって。

15/01/2026

2026.1.15(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編95編1節
さあ来て主に向かい、喜び歌おう。
私たちの救いの岩に喜びの声を上げよう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録15章4節
あらゆる国々の民が来て
あなたの前にひれ伏すでしょう。
あなたの正しい裁きが
明らかにされたからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
寒くなったり暖かくなったり乱高下を繰り返してる最近ですが、そんなときにこそ、私たちの健康が守られますようにと祈るばかりです。どうぞ今日の一日も、皆さんの生活を守り、導いてくださる神である主が、皆さんとともにありますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「『岩』としての神」ということについてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
岩とはなんでしょうか。私のイメージする岩はふたつです。ひとつ目に「強力である」こと、ふたつ目に「私たちの隠れ場である」ことです。その岩が私たちの神を比喩するものとして描かれているということに、私たちのイメージを寄せたいと思うのです。
 
実際にこの言葉の原語であるヘブライ語「ツール」も、同じような意味があります。岩の持つ頑丈で強いイメージ、その頑丈で強力なものをもって私たちを守るというイメージです。私たちの日々出会う出来事のなかで、神とともに歩みたいという思いを削ぎ、損なわせるようなさまざまな力から、しっかりと私たちをガードして、私たちに心に安らぎを与えるのが、岩である神御自身であるというのです。
 
だから、そうしてくださる主に向かって喜べるのだと。この喜びはいつも明るく快活で、元気そのものという姿を人に見せられるものというよりは、どんなに辛いことがあったとしても、神が必ずこの苦しみを分かっていてくださる。一緒にいてくださるのだという安心感ゆえに生み出される「内なる喜び」なのだと私は受け止めたいのです。こうした内なる喜びが、時に表出したときに、それが私たちが分かち合うことのできる、結果としての喜びなのでしょう。
 
そう考えると、私たちの喜びとか賛美といったものは、もちろんそういう姿が他者に良いものも与えることは間違いないのですが、それらの「雰囲気」というものが、結果として「そうしなければならない」という押し付けであったり、同調圧力を生むような要素となってしまうのであれば、その喜びは喜びでなくなってしまうのです。あくまで、神との深い関係性によって、私たちの心からにじみ出るように生み出されるもの。それが喜びなのだと受け止めたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、ヨハネ黙示録の一節でした。あらゆる国から集められた神の民が、どうして喜ぶことができたのでしょうか。「神の裁き」が明らかにされたからです。このときに、私たちは裁きという言葉を、悪を撲滅するという意味だけで用いていないことに注目したいのです。裁きとは「公正かつ公平な判断」のことであり、そのような神のご判断が明らかにされたときに、私たちが大いなる岩によって守られていることの実感がわいてくるのでしょう。その結果、喜びに満ちあふれるというのです。
 
こんな類の喜びが、今日も私たちの生活を豊かなものとしてくださいますように。その喜びを私たちに感じさせてくださる神に感謝しつつ。皆さんの平安を心からお祈りします。