14/01/2026

2026.1.14(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編34編6節
主の使いは主を恐れる者の周りに陣を張り彼らを助け出される。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録5章19~20節
夜の間に主の天使は牢の戸を開け、使徒たちを外に連れ出し、「行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」と言った。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
一週間も中日を迎えました。今日一日起きることが、皆さんにとって神の恵みと慈しみを感じ取れる場面が、ひとつでもありますように。そのことを心から願いつつ、お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神である主とともに歩むために」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、聖霊の力を受けた使徒たちが、神に仕え隣人に仕えることを自らの使命とした結果、多くの人たちの人生が幸いなものに変えられていった結果、それを見ていた時の宗教指導者たちの妬みを買うことになりました。そして、ペトロをはじめとする使徒たちが投獄されてしまったときに、神が天使を通して語りかけられたシーンの一節です。
 
神は彼らを牢のなかに閉じ込めておくことを許されませんでした。そして、一人でも多くの隣人たちの命が幸いなものに導かれるために、神殿の真ん中でご自分が授けた言葉を、その言葉をもって救いの道を与えられた救い主イエスを、余すところなく人々へ伝えて、ともに分かち合いなさいと告げられました。
 
そんなことをしたら再び宗教指導者たちの妬みを買うのではないか? そう思ってしまいます。実際に、使徒たちが再び神が与えられる恵みと慈しみの言葉を大胆に告げようとする使徒たちを、ひっ捕らえようとします。しかし、彼らはその話を聞きたいと心から願う人々の逆襲を恐れて、手荒なことをすることはもはやできませんでした。
 
宗教指導者たちの、使徒たちに対する妬みは最高潮に達します。殺そうとする思いすら、彼らのなかには芽ばえたくらいです。しかし、良心ある宗教指導者の対応に、彼らは使徒たちに対して最低限の脅しをすることしかできなかったのです。こうして、使徒たちが神の言葉を人々に伝え続けることを、誰もが阻んだり差し止めたりすることができなかったことが、今日の聖句の続く部分に記されています。
 
ここで、神の言葉が神の言葉として明らかにされることを良しと思わない、あくまでそれに抵抗し続けようとする人間の本心というものがあらわにされます。そのような抵抗は、人間の「嫉妬」によるものでした。しかし、そんな人間の妬みが神の思いを打ち砕けるはずなどない。神はそういう思いによって、神とともに歩みたいと願う人たちが押しつぶされてしまうことのないように、しっかりと支え、神とともに歩みたい願いを守られたのでした。
 
それはまさに、今日の旧約聖書の言葉にもある通り、神は、ご自分とともに歩むことを心から願う人たちに陣営を敷かれ、しっかりとその心と体を守られると歌った詩人の言葉に相通じるのです。
 
私たちは、さまざまな人間関係のなかで、感情のゆらぎというものを感じることがあります。その揺らぎは時として、神とともに歩む思いすら削いでしまうこともあるでしょう。そうすることが恐ろしくなってしまうのです。こればかりは、私たちの心からわき出る正直な思いですから、決して否定するものではありません。そう思っちゃうのだからしょうがないのです。
 
しかし、私たちが本当に神とともに歩みたい。神から良いものをいただいて日々をはつらつと幸いなうちに過ごしたいと心から願うのであれば、その願いを神が捨て置かれるはずがないのです。私たちの心をすべてご存知である神が、私たちの願いを幸いなものへと必ず導いてくださる。その神のなさることに、信頼をもって応えていくことは、まさに神の助けをいただかないと不可能なことだと私は思いたいし、信じたいのです。
 
今日も私たちに神の言葉が与えられました。この言葉によって慰められ、そして励まされながら、一日の旅路を踏みしめてまいりたいと思います。必ず神が助けてくださることを心から信じつつ。皆さんの主とともにある平安を、心からお祈りします。

13/01/2026

2026.1.13(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章30節
主の仰せ。私を重んじる者を私は重んじ、私を侮る者を私は軽んじる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書14章23節
イエスは答えて言われた。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。今朝も寒い朝を迎えました。昨日は、この春から同業の友となる若いおふたりの結婚式に参列しました。和私も自分たちのことを思い出しながら、思いを新たにすることができて本当に感謝でした。先ほどの夜行バスで仙台へ戻ってまいりました。夜中でも移動できるので、とても楽です。今日も神とtもに健やかに生きてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の言葉に聴くとは、結局なんなのか」ということでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神の言葉を「守る」と聞くと、法律の条文を守る、ルールを守る、約束を守るなど、さまざまな守るという言葉と重ね合わせながら考えることがあるかもしれません。しかし、私は思うのです。神の言葉を守るということを考えるときに、法律やルール、約束を守るという「行動」に重視するあまり、その根底にある「精神」のようなものが置き去りにされてしまうことはないだろうか? そんなことを思わされました。
 
守るとは「大切にする」という意味があります。たとえば「礼拝を守る」という、私にとっては不可思議な教会用語がありますが、「礼拝(すること)を大切にする」と聞けば、私たちはその意味というものを理解できるのではないだろうか。そう思うのです。つまり、神から与えられた言葉を「大切にする」と聞けば、大切だと受け止めた私たちが、ではどのように大切にしていることを表現できるか、ということを考えられるのだと思います。その表現方法は、まさに千差万別だと思います。ただ、「大切にしている」という点においては、それは「ひとつになれる」ことなのだと私は思うのです。
 
行動という事柄だけを重視する前に、その根底にある精神に心を配ることの大切さと幸いというものを、私はじっくりと考えていきたいと思ったのです。私たちは他者の心を見透かすことはできません。見た目で物事を判断して、評価する存在です。もちろんそういうことの良い面もあるでしょう。しかし、見た目だけで物事を判断し評価しようとすると、そこにはさまざまな歪みが生じるというのが、私が考えていることです。
 
だからこそ、私たちの心の内奥まですべてご存知であり、そのうえで私たちを大切に「守って」くださり、私たちにご自分の言葉を、私たちの必要のために与えてくださる神がおられるということを、私たちはどのように受け止められるだろうかということを、じっくりと考えたいのです。イエスは、その根底にあるものは「神の『愛』」であることを知らせました。ですから、神の愛をともなわないような神の言葉の守り方は、結局のところ、神の言葉を守っているとは言い難いのでしょう。私はそう受け止めたいと思いました。
 
神の言葉に指し示された精神を、神の私たちに対する愛のまなざしを大切にしつつ、今日という一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、愛の神の守りがともに、豊かにありますように。心からお祈りします。

12/01/2026

2026.1.12(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下14章10節
主よ、あなたには、弱き者を強き者に抗して助けることも難しいことではありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書9章42節
イエスは汚れた霊を叱り、子どもを癒やして父親にお返しになった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
三連休の最終日、それぞれの一日を楽しまれることと思います。皆さんが事故なく、おだやかに今日の日を過ごすことができますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンにしめされたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「弱いところに目を向けられる神」というものです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、南イスラエル王国(ユダ王国)の統治者であったアサ王の、神への告白と嘆願の言葉が選ばれました。遠くアフリカより、ユダヤを攻めようとする大軍を前に、アサ王は人間的な力ではどうすることもできません。王という立場にありながら、王として何ができるだろうか。無力を痛感するなかで、彼は神に嘆願しました。
 
アサ王にできることは、ただ神の助けを乞うことでした。アサ王は自分自身の弱さというものを知っていたからこそ、その弱さを隠すことなく、弱さに卑屈になることもなく、神の御前に自分自身の弱さというものをさらけ出して、神の助けを望み、そして神に全幅の信頼をもって告白したのでした。その結果、アサ王は神の助けによってこの困難を乗り越えることができたのでした。
 
私にとって難しいと思えることでも、神にとっては難しいことではないというアサ王の告白は、まさに私たちと神との関係にも相通じるメッセージであることを受け取りたいのです。もちろん、行動するのは私たちです。しかし、その行動をご自分の価値観で支え、導き、助けてくださるのは神なのです。私たちは、いかにそのことに心を寄せて生きることができるのか。今日の聖句はそんなことを私たちに問いかけているような気がしてなりません。
 
息子の奇病のために八方手を尽くしても、何ら改善を見ることがなかった父親の嘆願が、その場に遭遇したイエスに向けられます。まさに藁をもすがる気持ちであったに違いありません。父親は息子の弱さとともに、自分自身の弱さをも抱えて、イエスに向かって言ったのでした。そういう弱さの告白を、イエスはしっかりと受け取り、その弱さに報いられたのです。息子の病はしっかりと癒されて、父親に平安と喜びとともに息子との生活を回復させたというのが、今日の新約聖書の言葉です。
 
弱さとは何か。自分自身のうちにある弱さというものを、私自身が見つめるときに、その弱さをすべてご存知である神がともにいてくださる。ここに希望を抱きつつ、神に私たちのまなざしを向けることができますように。今日一日の歩みを、神がしっかりと導いてくださることに、私たちの心が素直になることができますように。お祈りします。

11/01/2026

2026.1.11(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編50編1節
全能者なる神、主は詔(みことのり)して、日の出るところから日の入るところまで、あまねく地に住む者を召し集められる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書16章15節
全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやって来ました。どうかこの七日間の旅路も、私たち一人ひとりが神である主が授けられる言葉によって、健やかに生かされますように。そのことを願いつつ、私たちひとりひとりも、神の言葉に耳と心を傾けることができますように。祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に聴きたいと思います。
 
今日の聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「誰が、神の国の良いたよりを伝え、教えるのか?」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書は詩編の一片の言葉でした。神が私たち一人ひとりを招き、集めてくださるということを、神御自身が私たちに宣言された(みことのりするというのは、神がお告げになられたという意味)。そのことを詩人は神への賛美の思いを込めて歌いました。
 
神が集めてくださるのです。ですから、神の世界を伝え、教えるのは、まさに神御自身による業に他ならないのです。そのために、神の言葉である聖書が私たちに与えられ、その言葉がより具体的に体現されるために、命の救い主イエスが私たちに与えられ、そのイエスが神のもとに帰られた後でさえも、私たちを守り、神の価値観へ導くために聖霊が与えられ、その価値観を知り、共有することができるように、父なる神・子なるキリスト・聖霊の有機的なお働きによる教会が誕生しました。
 
今日の新約聖書に示されたイエスの言葉にもありますように、教会はその神の働きをあまねく全世界へ伝えなさいというご命令を受け取り、それを果たす使命を教会の最も大切な務めとしています。こうして伝道の業が生まれ、神の価値観を受け取った人たちが、全生活においてその価値観を自分自身のものとすべく、神とともに生活を営むことで、神の国に向かってその旅路を歩んで行くことができるのだと。今日のふたつの聖書の言葉は、そのような関わり合いを持ちながら、私たちに語りかけているのだと私は受け止めました。
 
そこで、ひとつ考えたいと思います。神の国の良いたよりを告げられるのは神御自身のお働きなのだから、私たち人間は何もしなくて良いのか? 逆に、神の国を伝えることを委ねられた私たちが、神の価値観を問うこと無しに、勢力拡大のごとく、教会の規模拡大だけを目指して歩むべきなのか、という問いがあったとしたら、私たちはどのような態度を抱くべきなのでしょうか。
 
確かに、イエスは私たちに「全世界に行って宣べ伝えなさい」というご命令を与えられたのですから、それを受け取った私たちが、そのご命令を担うことは大変重要なことと言えます。ただ、それはあくまで、父・子・聖霊なる神が私たちを呼び集め、ご自身の価値観というものを明らかにされたことに基づいて、神の助けをいただきながら、神とともに、あくまで神が私たちの言動をも、ご自分の価値観で導かれることを受け入れて歩むことが大切なのです。だからこそ、神に責任をすべて押し付けることも、また神をないがしろにして宣教をすることも、私たちにとってはあり得ないことなのです。そのあたりのバランスというものを、じっくりと私たちは反芻しながら、今日も礼拝やその他のできごとを通して、神の国の喜びを味わい、それを分かち合っていきたいと願わされました。
 
今日、世界中で行われる主の日の礼拝が、神の国の先駆けとして、私たちの心に安らぎと潤いを与えるとともに、神とともに生きる原動力の機会となりますように。皆さんのために、そして私自身のためにも祈りたいと思います。

10/01/2026

2026.1.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記22章29節
今日、私たちが主に逆らって、主から離れ去ることなど、私たちがするはずがありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一4章16節
自分のことと教えとに気を配り、それをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。年明けの初週ということもあり、慌ただしくもあったかもしれません。寒い毎日も続きました。ここまで神が私たちを導いてくださったことを喜び、また感謝しつつ、今日も神の言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「主とともに生きるために」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、年若い伝道者であったテモテに対して、年長者であるパウロが大切なことを伝え、教えることを目的として書かれた手紙の一節です。これが本当にパウロによって書かれたものであるかどうかという議論もありますが、少なくともこれからの時代を担う、成長著しい者たちに対して、大切なことを教えようというコンセプトがあることは間違いありません。私たちもまた年若い者となったつもりで、この手紙が語ろうとしているメッセージに、耳と心を傾けることができるのです。
 
「自分自身」と「教え」とに気を配るとあります。神がイエス・キリストを通して私たちに授けられた「良い教え」は、私たちの知識欲を満たし、教養を高めることだけにあるのではありません。そうではなく、自分自身に気を配りつつ、己の生き方を整えることに大きな意味があると言えるのです。自分自身の生き方というものを、イエスが抱き、与えられた価値観によって整えられたときに、私たちはキリストの香りを放つ者として、主とともに生きる幸いを味わうことができるというのです。
 
ですから、この手紙のなかでは、自分自身と教えとに気を配った結果として、「自分自身」と「あなたの言葉を聞く人々」を救うことができるとつづられています。私たち自身が、イエス・キリストの価値観によって生きようとする思いを、神は必ず祝福し、そのように私たちを整えてくださり、私たちが出会う人々ひとりひとりにも良い感化を共有できるのだということを、私は信じたいし、そうであって欲しいと心から願うし、そのように生きる者でありたいという憧れを、現実のものにしたいと思うのです。
 
私のことだけでない、私と関わる人々も神によって平和になれる。そのために、私がまず、神の良いものをいっぱいに受け取って、その指し示された生き方というものを自分自身のものとする。そのために御言葉に聴き、そして祈るという営みの循環を大切にしたい。そうすることで、キリストの教えが形骸化せず、いつまでも活き活きしたものとして、私たちの心に響くのでしょう。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルのそれぞれの地にあった者たちが、この地に導かれた神のなさることに喜び、感謝しつつ、その神に対して自らの決意を述べた言葉です。神である主に背中を向け、離れ去ることなど決してないのだ。そんな彼らの確固たる意志というものを、この言葉から読み取ることができます。そのためには、彼らが神の語り掛ける声に耳と心を傾け、そこに真摯に向き合って自分自身の生き方としたときに、このような告白の言葉が実質的なものとなっていったのでしょう。
 
この一週間を振り返って、私たち自身の生き方がどのようなものであったか。私たちはそのことを誠実に向き合って、神とともに生きる幸いというものを確認しつつ、新しい一週間に軸足を向けることができますように。皆さんの一日が神によって良いものとなりますように。心からお祈りします。

09/01/2026

2026.1.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章13節
私は彼らを慰め、悲しみに変えて喜びを与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章7節
私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、皆さんの心と身体のすべてを神である主が守り、祝福してくださいますように。今日出会うさまざまな出来事、さまざまな人との関わりが、そのような神の守りと祝福によって支えられ、慰めを大いに受けることで、生きる力となりますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワード、それは「慰め」です。慰めとは何でしょうか。国語辞典では「不満な心をしずめ満足させる。心を楽しませる。相手の悲しみや苦しみをなだめる。いたわる」とあります。そのすべての意味が、今日の聖句における慰めという言葉に表れていると言ってもよいでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉である第二コリント書の一節は、このような慰めが「希望」へとつながるのだということを、この手紙の著者であるパウロが明らかにしています。慰められるからこそ勇気づけられ、元気づけられて、それが希望に結び付くということを、私たちはよく知っていると思います。実際に「慰め」と訳されているギリシア語は「弁護者」という言葉と同義で用いられています。
 
イエスが弟子たちに対して、たとえ見える形であなたがたの前からいなくなることがあっても、あなたがたの苦しみをともにし、あなたがたを弁護するための助け主を与えることを約束されました。それこそ「聖霊」なのであって、聖霊が「慰め主」と呼ばれるのも、よく理解できるのです。
 
だからこそ、今日の聖句を読み解き、それを自分自身への言葉として染み入るものとするために、無くてならないのは「聖霊の助け」に他ならないのです。聖霊は極めて未来志向的なものであるから、慰めと希望というものは切って離すことのできない大切なものなのだと私は受け止めました。パウロがコリント教会における数々の困難のなかにあっても、それでも決して希望を忘れ去ることをしなかった。なぜならば、そこには聖霊による慰めがあったからです。
 
これは、辛酸を舐め尽くしたユダヤの民とて同様でした。苦しみの極みに立たされたときに、彼らにとってただ必要なのは、慰めとともに希望を与えてくださる神御自身が民たちとともにいてくださることでした。こうして、彼らは再生の道を神とともに歩む思いが高められていったのでした。
 
この慰めが、今日も私たちの生活を支え、その慰めを聖霊によって神が与えてくださいます。その助けが希望を生むことができますように。祈ります。

08/01/2026

2026.1.8(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記3章24節
主よ、あなたはその栄光と力強い御手とを、あなたの僕に示し始められました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章24節
(イエスの祈り)父よ、あなたが私にお与えになった者たちが、私のいる場所に共にいられるようにしてください。あなたが私に与えてくださった栄光を、彼らが見るようになるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も寒い一日ですが、どうか私たちの身体と心が神によって守られますように。私たちの神とともにある一日が、私たちの出会うすべての方々にとっても、大きな喜びとなりますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「私のためだけでなく」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトから40年間にわたる苦難の旅路を終えようとしているイスラエルの民を率いた指導者モーセが、神へ願いをささげているその冒頭の一節です。モーセはこの長い流浪の旅のなかで、つねに神が民たちにご自分の力強い御腕をもって導かれたことを実際に経験しました。そして、今や神が示された約束の地を目前にして、その神に向かって40年間を振り返りつつ、神に向かって自分の告白をしています。
 
今日の聖書の言葉のあとに続く部分で、モーセは「自分は是非約束の地にたどり着きたい」という思いを神に告白しました。しかし、神はその願いをお許しにはなりませんでした。モーセの切なる願いを、決して聞かれることはなかったのです。しかし、神はご自分の40年間んの導きを決して無駄なものにはされませんでした。モーセの後継者としてヨシュアを指名し、そのヨシュアに約束の地を渡らせるための指導者としてお立てになられました。
 
自分はその夢を叶えることはできませんでしたが、民たちにはご自分の約束を果たされることによって、ご自分の栄光を示されました。モーセの40年間を、そして人生の歩みを、決して無駄にはされませんでした。ここにこそ、神が世代を経てもご自分が民たちの神であることを明らかにされたのでした。
 
そのことが、今日の新約聖書の言葉にもよく表れています。今日の新約聖書の言葉は、十字架に架けられる前夜、イエスが神に向かって祈った、その祈りの一節が選ばれています。今や十字架に架けられて死の極みに立とうとされておられるイエスは、まさに神の栄光からは一番遠いように見える姿でした。しかし、ご自分の死を通して、遺された弟子たちが引き続き、いやそれ以上に神の力強い御手によって守られるように祈ったのでした。まるでその祈りは、モーセに対して神が示された姿に重なると私は受け取ったのです。
 
私自身の願いは願いの通りに叶うことがないかもしれない。しかし、神が人に対してなされた約束は、必ず何らかの形で継承され、果たされていくのだ。そのことに喜ぶ者でありたい。私はそんなことを今日の御言葉から受け取りたいと思いました。
 
こうしてキリスト教の歴史は2000年にわたって継承されてきたことを思うと、私のためだけではなく、神が愛しておられるご自分の民たちのためにもその力を余すところなく働かせてくださることを、私たちの希望としていきたいのです。そのことを信じて、今日も歩むことができますように。お祈りします。