01/01/2026

2026.1.1(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書25章8節
主なる神は、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章9節
神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現わされました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。そして、新しい年2026年の幕開けを、心からお祝い申し上げます。この一年が、皆さんにとって、世界にとって、そして私自身にとっても、神とともにあるがゆえの平安と祝福が豊かにあることを、心からお祈りいたします。
 
そして、今年も『日々の聖句 LOSUNGEN(ローズンゲン)』を通して、皆さんとともに神の御言葉をいただき、味わい、分かち合うことのできる喜びを心から期待しつつ、私も黙想をつづってまいりたいと思います。引き続きのお付き合いのほど、なにとぞよろしくお願いいたします。
 
私事になってしまいますが、昨年をもって編集者の任を辞しましたので、これからは一読者として、ローズンゲン運動に関わってまいりたいと思います。それにともない、上記聖句の引用は『日々の聖句』からの引用といたします。出版元のベテスダ奉仕女母の家のご厚意により、転載することをご許可いただきました。心から感謝いたします。
 
前置きはこのくらいにして、新年最初のローズンゲンに示されたふたつの聖句を味わいたいと思います。新年とは言えど、まだクリスマスの余韻のなかにあって、これらの聖句が提示されています。そのなかで神が私たちに語りかけてくださる言葉は、「私たちの恥をぬぐい去ってくださる」というものです。この「恥」とはなんでしょうか?
 
この「恥」と日本語に訳されている原語は、「ケルパー」というヘブライ語が用いられています。言われもない非難を受けることによって、不名誉を被る様子、軽蔑されることによって経験する恥辱や屈辱のことを意味する言葉として知られています。これらのことゆえに、私たちが「恥」を抱えることがあるならば、神はそれを私たちからぬぐい去ってくださるというのです。
 
ただ、これは「神とともに生きる」ことを私の決断とするときに、それゆえに被る恥辱のことであって、あくまで神を主体としたものです。私個人に起因するものではありません。ですから、神が私たちのうちから取り除いてくださる恥というものが、神に由来するものか、それとも私に由来するものか、それらを識別する作業は大切であると言えるでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちが神とともに歩む者となれるように、地上に遣わされた主イエスのことについて触れられた聖句でした。このイエスは私たちが抱えたすべての恥辱のために十字架にかかられました。そして、多くの人々のあざけりを思い存分にわが身に浴びせて、その命を私たちに与えられました。神が私たちの恥をすべて取り除いてくださる根拠は、まさにイエスの存在そのものであると言って間違いないでしょう。
 
このイエスとともに歩む一年を、私たちは是非楽しみたいと心から願いますし、そのような願いの連鎖が、この世界に平和をもたらしますように。まずはその初めとなる一日のためにお祈りします。

31/12/2025

2025.12.31(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編147編14節
主はあなたの領土に平和をもたらす。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章9節
平和を造る人々は、幸いである
その人たちは神の子と呼ばれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
いよいよ2025年も最終日を迎えました。最後をしめくくる一日を振り返りつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思いますが、私自身も今年はいろいろと変化があるなかにあっても、こうして最終日まで信仰と健康が守られ続けてきたことに、ただ感謝する一年だったと思っています。もちろんやり残したこと、積み残したこともいろいろあるのですが、それらは来年へ持ち越しつつ、年越しを迎えたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「平和」という共通するキーワードについて考えてみたいと思いました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書である詩編147編の聖句に注目したいと思います。ここで「領土」と訳されている言葉ですが(ヘブライ語原語:ゲブール)、長く日本語聖書では「国境・地境」と訳されてきた言葉です。ドイツ語聖書でもそのように訳されています。つまり境界線を表す言葉が「領土」と訳されていることに、大きな興味を覚えました。
 
実際に辞書で調べてみると、もともとこのゲブールというヘブライ語は「よじれたひも」という意味の言葉なのだそうです。そこから境界線を表す言葉として用いられるようになり、その境界線を囲むエリア、つまり領土と解されるようにもなったようです。
 
つまり、境界線が平和であれば、その領土そのものも平和となるというひとつの示唆を、今日の詩編の言葉は私たちに教えてくれているのだと私は受け止めることができました。このことを踏まえて、領土を「私」という言葉に置き換えて考えてみるならば、こんな風にとらえることができるのではないかとも思えるのです。
 
つまり、「あなたと私のあいだにおける平和」は「私自身の平和」そのものであると。つまり、私が平和になるのであれば、私自身の平和だけでは駄目なのだと。他者と私との関係性が平和であるならば、私自身も、あなた自身も平和となる。ごくごく当たり前のことなのでしょうが、このことを改めて思うことの大切さというものを実感させられるのです。
 
私だけが平和であれば良いという考えは、究極的に平和では無いのでしょう。自分さえ良ければ良いという感覚は、かならず人間社会にゆがみを生む原因となります。2025年もなおも続く戦争をはじめとする私たち一人ひとりの人間関係にいたるまで、どれだけ私たちは平和を愛し、またそれを構築しようとしてきたか。こういうことをじっくりと振り返りたいのです。
 
だからこそ、境界線を見つめようではないか。今日の詩編の聖句はそのことを私たちに示すものなのだと思うのです。境界線における平和は、結果的に私たち自身の平和につながるのだと。そしてその平和は神である主ご自身のものであるということを心から信じて、お互いが神の与えられる平和を愛し、それを希求し、そのことを実践していく。だからこそ、イエスは「平和を『造る』人々は、幸いである」と、「造る」という私たちの責任を明らかにし、しかも造るための源として、そのような人々が「神の子」と呼ばれると告げられることによって、神を源とする私たちの平和という言葉を強調されたのでしょう。それが、今日の新約聖書の言葉が言わんとしていることなのだと、私は心から受け入れつつ、2026年へとつなぐ一日としたいと思わされたのでした。
 
皆さんの大晦日もまた、来年へ希望をつなぐにふさわしく、平和に満たされた一日となることができますように。神である主にある平和を心からお祈りします。今年一年も大変お世話になりました。また来年もどうぞよろしくお願いいたします。

30/12/2025

2025.12.30(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記33章17節
主はモーセに言われた。「あなたは私の目に適い、私は名指しであなたを選んだのだから。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章19節
神の堅固な土台は揺るぎません。そこには、こう刻まれています。「主はご自分の者たちを知っておられる。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今年も残すところあと2日となりました。年末への慌ただしいラストスパートの時を過ごしておられると思いますし、すでに大型連休のなかで長旅を楽しんでおられる方もおられるかと思います。私も今日と明日の2日間、妻の実家を訪ねて、ひと時の休暇を楽しみたいと思います。皆さんの今日の予定もまた、神が与えてくださる祝福のうちにありますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の堅固な土台」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
この言葉は、新約聖書・テモテへの手紙のなかに書かれた一節です。この手紙を書いたとされるパウロは、歳若い同労者であるテモテに対して「神の堅固な土台」が確かにあることを手紙にしたため、そして伝えました。では、その堅固な土台とはいったい何なのでしょうか。
 
私はこの土台を「神による人間への深い信頼」と受け止めました。この信頼が土台にあるからこそ、人間が有史以来いくたびも神を裏切り続けても、それでもなお神が私たち人間を深く愛し、命の救い主までお与えくださったのだというのが、聖書全体を通して語られる最も大切なメッセージなのだと私は受け止めたいのです。
 
信頼は「知る(理解する)」ということによって、さらに明らかにされます。私たちのことをその細かい部分まで理解してくださる方がおられる。これこそ私たちの神であるというのです。知られている、理解されているというのは、私たちに安心感を生みます。「私のことを分かってくださっている」ということは、親が子のことを想うように、深い信頼の土台の上にあって、私たち一人ひとりを生かす絶対不可欠なものとなります。私たちはこうして支えられているのです。
 
私たちは、神による私たちへの信頼がなければ、神を信じることはできません。神が信頼してくださっているからこそ、その神の信頼に心から応えたいという、きわめて自発的な思いを生むのです。何かに強制されるわけでもなく、あくまで自分自身の感謝の応答として、神とともに歩むという道を選び取っていく。ここにこそ幸いが存在するのです。
 
今日の旧約聖書は、神である主がモーセに語られたシーンです。まさに「神のモーセ、またモーセが率いるご自分の民への信頼」そのものです。しかし、この言葉が神によって語られた時、イスラエルの民にとっては長い長い、40年にわたる流浪の旅が待ち受けていました。そんななかでこの旅をやがて終えることができたのは、どんなことがあっても揺るがない「神による人間への信頼」だったのです。
 
2025年を振り返り、2026年へと歩む私たちが、信頼について今一度振り返り、考えることができますように。

28/12/2025

2025.12.28(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編133編1,3節
都に上る歌。ダビデの詩。
兄弟が共に住むことは
何という幸せ、何という麗しさ。
主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章14節
「いと高き所には栄光、神にあれ
地には平和、御心に適う人にあれ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は2025年最後の日曜日。世界中で行われる主の日の礼拝が、クリスマスの余韻のなかで祝福に満ちあふれたものでありますようお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「平和な世界」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、クリスマスを代表する聖句と言ってよいものです。あの闇夜に羊飼いたちに対して天使が告げたあの言葉です。「地には平和、御心に適う人にあれ」というものですが、神が私たちにどのような平和を望んでおられるのかということが明確に告げられています。
 
まず、神は「平和」をご自分のものとされ、その平和を愛しておられること。そして、ご自分が造られたこの世界に対して、ご自分の平和が満ちあふれるのを望んでおられること。そして、その平和は「御心に適う」、つまり、神である主の思いや願いを積極的に受け入れ、自分自身の生き方にしようとする人こそ「御心に適う人」であるのだ。そういう人たちにこそ、ご自身の平和が豊かに臨むことを、天使は救い主イエスの誕生とともに告げたのでした。
 
つまり、私たちが本当に平和を心から願い、それを望むのであれば、救い主イエスの生き方に示された平和への姿勢というものを、いかに自分自身の生き方とすることができるのかということにかかっているのだ思わされます。家庭だろうと、地域社会だろうと、教会であろうと、私たちは人と人が集まる共同体のなかで、そのことを誠実に希求し、実践する者でありたいのです。
 
神がどんなにそのことを望んだとしても、私たちがその願いに応えることがなければ、どんなに平和、平和と叫んでも平和が訪れてくることはないのです。そのことを私たちは自分自身の生活のなかでどのように自分自身への課題とすることができるか。クリスマスの晩に語られた言葉は、私たちへの深い示唆というものを与えるものだったのです。
 
私たちが他者と出会うとき、そこにそこはなとない平和を感じ取ることができるのであれば、そこには神が私たちの真ん中に立ち、私たち一人ひとりをご自身の御心をもって導いておられることを、私たちが受け入れているからなのでしょう。そんな思いを抱きつつ、2025年を締めくくりたいと願わされた次第です。
 
私たちの誰にも、神である主の平和が豊かに満ちあふれることを信じ、実践する者でありますように。心よりお祈りします。

27/12/2025

2025.12.27(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編71編16節
わが主よ、私はあなたの力によって進みます。
主よ、ひたすらあなたの正義だけをほめたたえます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章24節
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
2025年も残すところあと5日となりました。そして、明日は今年最後の日曜です。礼拝への良き備えができるよう、今日の一日を大切に過ごしてまいりたいと心から願います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「神の力」です。この言葉について黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書であるコリントの信徒への手紙一1章24節に記されている「神の力」ですが、 
原語であるギリシア語には「デュナミス」という言葉が用いられています。日本語で力と訳すことのできるものですが、この言葉には「潜在力」のような、目には見えないけれど秘められたものとしての力という意味も含まれているのはとても興味深いところです。
 
デュナミスは「ダイナマイト」の語源となった言葉でもあります。見た目には小さなダイナマイトでも、そこから爆発する力は想像を絶するものがあることを私たちはよく知っています。私は神の力というものは、時としてそういう姿を私たちに見せているのではないかと思うのです。神の助けとか力というものが、今の私には何の役に立たない脆弱なものに見えることが私たちにはないでしょうか。とても頼りないのです。神ならばもっと大きな力を見せてほしい。そんなことを私たちはたびたび思うのではないでしょうか。
 
しかし、たとえ目には見えなくても、実際にものすごい腕力を見せることが無かったとしても、私たちはしっかりと支えられているという安心感へと導かれることだってあるのです。コリントへの手紙を書いた使徒パウロは、この神の力こそキリストに現れたのだということを手紙につづっているのです。
 
私たちはクリスマスの時に、赤子のかたちでお生まれになったキリストを見ています。赤子には何の力もないかもしれません。しかし、新しい命の芽生えに私たちは癒され、慰められ、勇気づけられることだってあるのです。そしてこの赤子はやがて、私たちのために力となってくださいました。しかしその姿は、十字架という「弱さの象徴」のなかで見せつけられた神の力に他なりません。しかし、見た目の弱さこそ揺るぎない救いという力となったことは、言うまでもない事実となって私たちに継承されたのでした。
 
そこにこそ、神の力の用い方の正しさ(正義)があり、この正義に導かれて私たちもまた、神の力をいただいて、神とともに歩むことができるのです。今日の旧約聖書である詩編のことばが言わんとしていることです。
 
この神の力によって、今日の一日を過ごすことができますように。主が皆さんを平和へと導き祝してくださいますように。お祈りします。

25/12/2025

2025.12.25(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌5章21節
主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。
私たちは立ち帰りたいのです。
私たちの日々を新たにし
昔のようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章11節
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。そして、救い主イエス・キリストの御降誕を喜ぶクリスマスを迎えることができました。クリスマスおめでとうございます! 皆さんの一切に、クリスマスの喜びがともにあり、神が与えてくださる平安と祝福が豊かにありますように!
 
日本はこれから「正月」に向けて世の中があわただしく動きますが、私がドイツに住んでいた頃は、クリスマスイヴが大晦日の夜のような雰囲気であり、イヴ礼拝が初詣のようであり(いつも教会に行かない方々もこの礼拝には多くいらっしゃいます)、その後の2日間は世の中が休日モードになって、それはまさに「三が日」のような雰囲気でした。それだけクリスマスというのが大切な節目のときであり、「新たに更新される機会」なのだと思わされたのを思い出します。
 
そんなことを想いつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に触れますと、救い主イエスがお生まれになるというのは、この世界に対する神がなされた転換の機会であり、すべてのものを新しくする更新の時だったのだと思わされるのです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は「哀歌」の一節でした。その文字のとおり「哀しみの歌」なのです。なにゆえの哀しみだったのでしょうか。神との隔絶を味わったがゆえの孤独が、神の民を哀しみへと追いやったのでした。神は私たちとともにいてくださる。神がどんなときでも私たちを守ってくださる。間違いないことです。しかし、神の民たちはその安心感ゆえに、神とともに歩み、生きるという肝心なことを忘れてしまったのです。
 
ですから、彼らの安心感は彼らの気づかない間に「慢心」へと変化してしまいました。その慢心はやがて、自覚のないままに神から離れてしまう経験へと彼らを動かしました。神と隔絶する道を彼らは選び取ってしまいます。まさか自分たちがそうであろうと気づくことのないままにです。そして、そんな彼らに災いが臨みました。神はその時に守ってくださることはありませんでした。彼らの孤独はまさに自業自得の結果でした。
 
彼らの孤独が神のせいではなく、自分たちのこれまでの行いゆえであることを知った民たちは、隔絶された神との関係を回復したいと心から願うようになった。そんな民たちの思いが、今日の哀歌の一節によく表れています。神のもとに立ち帰り、新たな日々を歩みたい。彼らが臨んだのはまさに「自分自身が更新されること」でした。
 
あの闇夜に光輝く天使の大軍があり、そこから聞こえる歌声と宣告。羊飼いたちが見聞きしたその光景はまさに、哀歌に込められた切なる人間の願いに対する神が出された答えでした。あなたがたがそう望むのであれば、私はあなたがたを孤独には決してさせない。あなたがたの日々を更新されるように、世界の救い主をあなたがたに与える。私たちが「神とつながりたい」という思いに、神は間違いなく応えてくださっていることに私たちは改めて気づかされる。クリスマスとはそういう更新の機会なのだということを、私は今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのです。
 
どうか今日の一日が、年末の忙しいなかにあっても良き更新のひとときとなりますように。心からお祈りします。

24/12/2025

2025.12.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編89編15節
正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 いよいよ今晩からクリスマスが始まります。最近、クリスマスが「非聖書的だ」という方々のご意見がSNSで散見されることがあります。確かに非聖書的と言えば、そのように言える節も無いわけではありません。しかし、世界の救い主の御誕生を心から待ち望んでいた人たちによって、主イエスの誕生を祝い、クリスマスという「文化」が形成されたことは、たとえ非聖書的と言われようとも、極めて「福音的である」と言えるのだと私は思います。そんな思いをもって、クリスマスに臨みたいと思います。今晩7時より、私の働く仙台宮城野教会でもクリスマスイヴ礼拝をおこないます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに救い主イエスの誕生が私たちに何をもたらしたのかということについて、実にストレートに表現されていると私は受け止めることができました。では、その「何」とはなんでしょうか。それは、今日の旧約聖書の言葉にもありますように「正義」と「公正」、「慈しみ」と「まこと」に他なりません。
 
神が私たちにもたらした正義は、私たち人間を愛するがゆえに、最愛の我が子を私たちのために贈り、その贈り物を私たちのために犠牲にしてしまうほどの、きわめて独り善がりなものであったことは間違いありません。しかし、その独り善がりな態度で誰もが不幸になることはないのです!ここに神の正義というものが、私たちの考える正義というものとはまったく当てはまらないところで働くものであることが理解できるのです。
 
その正義は、誰か特別な者のためにあるのではありません。何の条件もなく、ご自身が造られた人間のすべてに当てはまることを、神は主イエスを通して、その後の歴史において明らかにされました。限定された民族宗教ではないのです!そのことを勘違いしてしまうと、極端な選民意識というものをゆがんだ形で私たち人間が受容し、神のもたらした「公正」とは程遠いかたちで、神の正義という御旗のもとに、私たちは傍若無人に振舞ってしまうのです。そうであってはならないのです。あくまで神は「公正」に私たち人間を取り扱われる方なのです。
 
そして、正義と公正はただ機械的に行われるのではありません。あくまで神が私たちに与えてくださる「慈愛」に基づいて行われます。それは甘えに満ちあふれたものでもなく、相手の幸福を考えない愛でもありません。あくまで私たちが与えられた命をもって健全に歩むことができるように与えてくださる慈しみをともなった愛であるということを、神はイエス・キリストの生涯を通して明らかにしてくださいました。
 
最後に「まこと(真実)」です。それが何のまやかしもごまかしもなく、神のストレートな表現としてイエスをこの世界に降してくださったのです。この真実にこそ、神がクリスマスを通して私たちひとりひとりを「生きる喜び」へと導いてくださる、紛れもない根拠であることを私たちはクリスマスメッセージとして受け取っていきたいのです。今日の新約聖書のことばは、「言(ことば)」である救い主イエスが、肉体のかたちをとって私たちのあいだに宿られたことが記されています。神がご自分の言葉を聖書の言葉にしたためて、私たち一人ひとりがそれを読み、聴くことができるように与えてくださった。まさに、神の言葉こそ救い主イエスなのだという実感へと私たちは導かれるのです。
 
どうか今晩、世界の各地でおこなわれるクリスマスイヴ礼拝、またイヴの祝いのすべてに、そして迎え来るクリスマスの喜びに、私たちひとりひとりの心が和やかなものとなりますように。心からお祈りいたします。