くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編17節
あなたを尋ね求める人すべてが
あなたによって喜び楽しみますように。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章38節
主の名によって来られる王に
祝福があるように。
天には平和
いと高き所には栄光があるように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。
今日も新しい一日がやって来ました。皆さんにとってのこの一日が、喜びにあふれたものとなりますように!
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったこと。それは「私たちの喜びはどこから来るのか?」というものでした。そのことについてつづってみたいと思います。
喜びと聞いて私たちはどのようなイメージを抱くでしょうか。今日の聖句が伝えようとしているメッセージは、「神である主を『探し求める』ことで得ることのできる喜び」です。つまり、私たちにとっての喜びの源は、神とともにあることと抜き差しならぬ関係にあることを、いにしえの信仰者たちは大切にしていたことがわかります。
神が私たちに与えてくださる喜びは、誰の目から見ても明らかな、外的な喜びも多くあるでしょう。しかし、たとえ見た目に分かる喜びだけを物語っているわけではありません。私たちが経験することが、たとえ素直に喜べないことがあったとしても、それを他者が認めないような出来事であったとしても、神が与えてくださる喜びは決して消え去るわけではありません。
今日の新約聖書の言葉は、イエスが都エルサレムに入城した際に、イエスの到来を喜んだ人々による歓喜の声について描かれているものです。確かにその時はイエスに対する期待が素直に人々の喜びとして表れた瞬間でした。
しかし、その後にイエスに訪れたことは、決して喜べない状況でした。イエスが捕らえられ、人々のあざけりや憎しみを受けながら、十字架によって殺されてしまうからです。喜びとは対極にある「見た目」が、人々の心に突き刺さります。
ただ、それは神による深いご計画によれば、内からにじみ出る「喜びの源」となったことは間違いなかったのです。その後のイエスによる復活の出来事は、確かに人間の命を活かし、人々を後々喜びへと導く確かな根拠となったのです。神の与えてくださる喜びは、すぐに分からないことも多くあるでしょう。しかし、その喜びは必ずや私たちに確かに与えられるものであることを、今日のふたつの聖句は私たちに気付かせてくださるのだ。私はそのように受け止めたいと思ったのです。
外的なものだけではない。内的な喜びが今日も私たち一人ひとりを包み込んでくださる。そのことを私たちの希望の基とすることができますように。お祈りします。