19/12/2025

2025.12.19(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章2節
私たちの神のような岩はほかにありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙6章1節
主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
私の頭痛のことで気にかけ、祈ってくださり心から感謝します。今朝は頭痛のない状態で朝を迎えることができました。痛みから解放されるのは本当に嬉しいことです。皆さんのお祈りがとても心強く感じています。重ねてありがとうございます。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「主にあって」という、新約聖書・エフェソの信徒への手紙6章10節の言葉からでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日のローズンゲン(原著)では、日本語聖書の「主にあって」の部分が「主の絆によって(私訳)」と訳されていたのが大変印象的でした。「主にあって」より、より具体的かつ連結・連帯の強さというものが窺える言葉です。
 
新約聖書原文では、この部分は「エン・キュリオー」というギリシア語が用いられています。ここで言う「エン」とは、英語の「in」に相当する言葉と言って良いと思いますが、実にいろいろな意味合いのある言葉です。「~のうちに」「~とともに」「~と一致して」などと日本語に訳すことも可能なのが、ギリシア語の「エン」です。
 
そう考えますと、「主にあって」という言葉には、「主が私の心のうちにいてくださり」とか、「主が私とともにいてくださる」、「主が私とひとつになってくださって」などというニュアンスを、私たちに想像させてくれるものであると私は受け止めました。であるからして、私は神の力によって、この世界を地に足をしっかりとつけて歩み出すことができるのだ!こんな風に、エフェソのこの聖句を聴き取りたいと思ったのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの指導者サムエルの母となったハンナの祈りの一節でした。なかなか子が宿されないハンナが、必死に神に祈る姿に、私たちはハンナがいかに神を「みずからの岩」として、しっかりと私の心を守り、支えてくださる方とみなし、信頼のうちに祈っていたかを見ることができるのです。このハンナのような祈りを、私も神に向けたいと心から思わされました。
 
クリスマスが近づきゆくあるなかで、今日の一日もまた神とともに歩む幸いのうちに私たちのひとりひとりがありますように。お祈りします。

17/12/2025

2025.12.17(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書5章20節
災いあれ、悪を善と言い、善を悪と言う者に。
彼らは、闇を光とし、光を闇とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章21節
悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「善悪」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書5章のことばは、当時の世界の状況を如実に示しているものと言えるでしょう。政治も、市民も、宗教者も誰もが、それが「悪」であると知っていながら「善なるもの」とすり替え、「善」であり続けるべきことに「悪のレッテル」を貼って、善なるものを握りつぶそうとする態度です。
 
なぜそのようなことが起きるのでしょうか。原因はたったひとつです。「私が善悪の基準となる」からです。私自身の価値判断が善悪の基準となるには、それ相当の高い倫理観というものが求められるでしょう。しかし、その倫理観をもってしても、私たちには「自我の欲求」というものがありますから、それをいとも簡単に善悪の基準における根拠としてしまうのです。それが本当に善悪の基準となり得るのだろうか。私たちは真剣にそのことを考えなければならないと私は思うのです。
 
神は預言者イザヤを通して、当時の世界に対して「善悪の基準はどこにあるのか」ということを問いかけ続けました。善悪の基準は「私たち」にあるのではない。私たちを造り、治め、祝福へと導かれる神にあるのだ。イザヤは人々の逆風を浴びながらも、そのことを愚直に伝え続けたのでした。我欲によるゆがんだ価値基準を、あたかも神の提示される価値基準のようにすり替えてもならない。こうしてイザヤは、あくまで神の御心に基づいた是々非々な倫理観というものを人々の生きる柱として人々の前に明らかにしたのでした。
 
私たちは神の言葉を「恵みの御言葉」としていただいています。その恵みには、私たち自身を神の御前に生きることのできる者として整えるだけの知恵と力、憐れみと慈しみというものがあふれんばかりに含まれているのです。だからこそ、神の言葉が私たちにとっての恵みに他ならないのです。つねに御言葉に触れて自分自身のあり方というものを確かめていく営みというものを大切にしつつ、今日の一日を歩んでいきたい。私が今日の聖句から聴きたいと思ったメッセージです。
 
どうか皆さんにとっての一日が、神とともにある幸いを味わうことのできるひと時でありますように。神なる主の平安に包まれたものとなりますようにお祈りします。

16/12/2025

2025.12.16(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編62編6節
私の魂よ、ただ神に向かって沈黙せよ。
私の希望は神から来る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章13節
私たちは、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望んでいます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
クリスマスが近づきつつある今日の一日が、皆さんにとって素敵な時となりますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「希望」でした。先行き見えぬ将来に必ず良いことが神によって与えられる。そのことを私たちは「希望」と呼んで、神のなさることを待望します。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちはどんなに希望を抱いていても、その希望は口にし、何らかの表現をしないと相手に伝わらないということがしばしばあります。日本では「以心伝心」という言葉があるように、それをいちいち言葉にしなくても通じ合うことの大切さ、空気を読むことの重要性が言われることがありますが、欧米世界では言葉を通して相手に意思を伝えることによってしか、伝達できないという文化がしっかりと根付いています。だからこそ希望は私たちの明確な意志として表現されるのだと思います。
 
しかし、今日の旧約聖書にある詩編の一片は、「沈黙せよ!」とうたわれています。あえて言葉にすることなく、ただ神の御前にあって黙しなさいと詩人は告げました。このことは私たちに大切なメッセージを与えています。あえて言葉にしなくても、私たちの心のうちをすべてご存知である神が私たちとともにおられる。その言葉のひとつひとつに秘められた私たちの本心をすべてご存知だからこそ、神は私たちの将来に光を与えてくださるというのです。どんなに美辞麗句を立て並べたとしても、神にはそんなものは関係ありません。ただただ神の御前に沈黙して、その顔を向き合わせたときに、神は私たちに最高の「希望」をお与えくださるのです。たとえそれが私たちの願いと異なったとしてもです。
 
ただ黙しつつ、救い主イエスが来られるのを静かに待つのです。クリスマスが近づきゆくというのは、日本では大変慌ただしい師走のなかにあっても、静かに心を鎮まらせながら、救い主イエスが一歩、一歩足音と立ててやって来られるのを、その音を確かめながらじっくりと待つひと時を、ぜひ私たちの生活のなかで一分、一秒でもいいからつくりたい。そんなイメージとともに、希望という言葉に対する私の想いを神につくっていただきたいと思ったのでした。
 
神の御前に黙しつつ、希望に生きる幸い。今日の一日もまたそのようなところに喜べる時となりますように。

15/12/2025

2025.12.15(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章5節
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ
私たちの過ちのために打ち砕かれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章32節
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
最近、朝の目覚めがあまり良くない日々を送っています。朝起きると頭痛があります。少しでもゆっくりと休もうと思って、早起きすることを少し控えています。頭痛がおさまるまで、黙想のお届けが不定期になるかもしれません。どうぞお許しください。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「クリスマスプレゼントの重さ」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちに与えられたクリスマスプレゼントとは何でしょうか。赤子のかたちをもってお生まれになられたイエスの命そのものです。神はその命をもって、私たち全人類を救う手立てとされました。赤子の存在は人に癒しを与えます。この赤子がやがてこの世で成長をするなかで、人々と関わり、寝食を共にし語らうなかでも、その癒やしの業は人々に救いを与え続けてきたのです。
 
しかし、その癒やしは究極的な救いそのものではありません。救いに至る一里塚のようなものでした。その道程をたどって最終的になされたのは、イエスの身体が刃で刺し貫かれることによってできた傷、流れる血潮と裂かれた肉体によってでした。それこそが私たちに与えられたクリスマスプレゼントであり、それは決して華やかで軽々しいものではありませんでした。非常に重く苦しいクリスマスプレゼントだったのだと私は受け止めました。
 
クリスマスを迎えるというのは、そのような私たち一人ひとりの心にあるあらゆる重荷を確かめるとともに、その重荷を自分自身の重荷として十字架に引っさげてくださったイエスを想う時なのでしょう。クリスマスの華やかさのなかに、とても大切なメッセージがあることを、アドヴェントの残りの時を大切にしながら、今日の一日を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの新しい一日にも、そのような神様の恵みがともに豊かにありますように。お祈りします。

12/12/2025

2025.12.12(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書63章19節
ああ、あなたが天を裂いて降りて来てくださったならば良いのに!

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章31~32節
天使はマリアに告げた。
あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
ここのところ、毎日黙想をお届けすることができず、心苦しい思いでいます。楽しみにしてくださっている方へは、大変申し訳ないばかりです。
 
朝から仙台の街は雪が降っています。随分寒い朝を迎えました。冬らしい天気は決して悪いものではないのですが、こういう時に体調を崩されないようにとただ願うばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神は重い天蓋を開けられる時が来る」というものでした。そのことについて黙想したいと思います。
 
余談になりますが、今日12月12日は、メキシコでは「グアダルーペの聖母マリア祭」という祭りが行われます。メキシコにとっては、自分たちの国を守ってくださるのが、グアダルーペという町に500年ほど前に聖母マリアが出現したことが、自分たちの国を守ってくださる守護者であると言われていて、そのことを記念するお祭りが今日行われるとのことです。それだけ、カトリック文化圏では、救い主イエスをこの世界に降すその大きな役割を担ったマリアが根強く崇敬されていることが分かります。
 
今日の聖書の言葉を聴いて、天使がマリアに救い主の誕生がマリアの身体を通して起こることが告げられます。しかし、聖書が伝えるところによるそのような「受胎告知」は、決してハッピーストーリーとは言い難い現実があったことは、聖書の文脈をたどれば一目瞭然であることは間違いありません。少女マリアが「未婚の母」として、周囲の非難と好奇という視線にさらされながら生きなければならないのは明らかでした。幸福どころか、彼女はつらい目に遭わなければならなかったのです。それはまさに彼女の心を塞ぐ、重い蓋のようなものであったと思えてならないのです。
 
しかし、そのようなマリアに降りかかった災難にも似た出来事、そのような状況のなかで助けを叫ばんとするマリアに対して、神の言葉は何のためらいもなく降りかかります。神はこの状況のなかで、マリアだけに辛い思いをさせて苦しませる意図はどこにもありません。天蓋をしっかりと開けて、直接的にマリアを守られる神がおられることを、マリアはこの後実際に経験することになります。そして、イエスの誕生へと導かれるのでした。
 
私たちはこのクリスマス物語の一片に触れるときに、クリスマスとは何なのだろうかということをあらためて考えさせられるのだと思うのです。明るい、楽しい、わくわくする。クリスマスにはそのような思いを私たちを与えることに間違いありませんが、その背景にはあらゆる困難を過ぎ去らせてくださる神の守りがあるからこそ、私たちはそのような守りに支えられながら生きていくことが可能なのだと。そんなことを黙想しながら、今日の一日を過ごしていきたいと思わされたのでした。
 
皆さんの一日にも、私たちを守り、必要な思いを与えてくださる神がともにおられることで、幸いに包まれたものとなりますように。お祈りします。

09/12/2025

2025.12.9(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書46章4節
あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一5章3節
本当にやもめである人をやもめとして大事にしてあげなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨晩遅く、東北・北海道を中心に大きな地震がありました。津波警報などもあり、安心できない夜を過ごされた方も多くあったと思いますし、安否を尋ねてくださった方々もおられました。私の住む宮城野区は震度3でしたし、津波注意報が発令されましたがすべて解除されました。心を配ってくださり、心から感謝いたします。まだ不安のなかにおられるだろう皆さんの一切のために、引き続き祈りたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書のことばを通して、まさに昨日の地震のことを思い出していました。私たちが不安に感じるのはどういった時だろうか。そんなことを感じたのです。そして、それはまさに「孤独」なのではないかと思わされました。
 
今日の聖句に共通するのは、老齢ゆえの孤独、愛する者を失ったがゆえの孤独。そのような孤独が神によって、また神の御心を我が身に負った者が、その務めとして孤独に向き合うことの大切さと幸いについて語られたものでした。私たちの孤独を孤独のままにしておかれない神が確かにおられ、しかし、その神の守りというものは、それを心から信じる者たちによっても形成されるということなのだと、私たち一人に思い起こさせるのです。
 
私が働く教会にも、一人暮らしの方がおられます。あるメンバーの方が先日お怪我をされるということがありました。身体を強くぶつけられたということがあり、痛みと思うように動けないその不自由さに、随分不便と不安を感じておられたようでした。教会で、その方の一切に神の守りが働きますようにと祈り続けました。そして、祈るだけではありませんでした。教会メンバーの方がご自宅を差し障らない程度でお訪ねし、教会からの通信や食事を届けるということがありました。その方の代わりに、教会の掃除を何人かによって行われました。
 
この前の日曜に、その方が久しぶりに礼拝に来られました。神様が、そして教会の皆さんの祈りと具体的な助けがどれだけ私にとっての力になったか。その方から感謝の意が述べられた時に、私はあらためて感じさせられたのです。神が守ってくださっているという実感は、神の守りを信じる者たちで共有されることが本当に大切なのだと。そのために信仰者の群れがあり、教会の存在意義というものがあるのだと。そんなことを想わされたのでした。
 
今日も、神の守りを実感する私たち一人ひとりがこの喜びを共有しつつ、一日を過ごすことができますように。お祈りします。

07/12/2025

2025.12.7(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編146編8節
主はうずくまる人を立ち上がらせる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書16章20節
よくよく言っておく。あなたがたは泣き悲しむが、世は喜ぶ。あなたがたは苦しみにさいなまれるが、その苦しみは喜びに変わる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。そして、主の御降誕を待ち望むアドヴェントも2回目の日曜を迎えました。世界中でおこなわれる主の日の礼拝や集会のすべてが、救い主を待ち望む喜びで満たされますように。主にある一日の平安を心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「悲しみが悲しみのままで終わることがない」というメッセージでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、詩編の一節です。詩編146編はその全体が「神である主ヤハウェを賛美する」というテーマのもとに、一貫してその思いが詩人によって歌われています。しかし、その賛美とは、私たちの苦しみや悲しみというものが背景にあって、そのような苦痛から逃れることのできない私たちの現実に目が向けられたうえで、神が与えてくださることに私たちの希望を寄せて生きることの幸いが賛美となるということについて歌われていることが分かります。
 
今日の聖句では「うずくまる人を」とあります。その場から歩き出すことのできない状態です。どう歩んでよいか分からないがゆえに、ただただうずくまるしかなくなってしまうのです。私は思いました。うずくまってしまう経験をです。ごくごく小さい出来事ではありますが、10数年ぶりに東京・渋谷駅の構内を歩くということが昔ありました。学生時代はよく使用していただけに、駅を迷わず歩くことに自信がありました。しかし、十数年のあいだに駅が整備されて出口や入口、通路自体が変わってしまっていたのです。前の知識はまったく役に立ちません。道案内をたどっても分からない。ついついその場にうずくまってしまいました。
 
自分の経験が邪魔したのでしょう。「こんなはずはない」という思いが強すぎて、かえって前を歩くことを難しくさせました。そんなときに、私たちは自分自身のなかでつくりあげられた限界を打ち破る必要があったのです。まずは自分自身の固定観念を捨てて、地図通りに、人に尋ねながら歩きだそうとした結果、無事に行きたいところへたどり着くことができました。
 
私は思ったのです。自分以外の何かに頼ることの大切さをです。これこそ、私を立ち上がらせてくださる神が、今日も私の命を保ち、歩ませてくださるのだと。たとえ苦しみにさいなむことがあろうとも、すべてをご存知である神がおられるがゆえの安心感が、悲しみから喜びへと変えてくださるのだ。その思いを胸にして、今日の一日を歩みたいと思わされたのです。
 
こうして私たちはアドベントの一日を過ごすことができるのです。皆さんにとってもこの一日が祝福に満たされた者でありますように!