10/01/2026

2026.1.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記22章29節
今日、私たちが主に逆らって、主から離れ去ることなど、私たちがするはずがありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一4章16節
自分のことと教えとに気を配り、それをしっかりと守りなさい。そうすれば、あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救うことになります。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。年明けの初週ということもあり、慌ただしくもあったかもしれません。寒い毎日も続きました。ここまで神が私たちを導いてくださったことを喜び、また感謝しつつ、今日も神の言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「主とともに生きるために」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、年若い伝道者であったテモテに対して、年長者であるパウロが大切なことを伝え、教えることを目的として書かれた手紙の一節です。これが本当にパウロによって書かれたものであるかどうかという議論もありますが、少なくともこれからの時代を担う、成長著しい者たちに対して、大切なことを教えようというコンセプトがあることは間違いありません。私たちもまた年若い者となったつもりで、この手紙が語ろうとしているメッセージに、耳と心を傾けることができるのです。
 
「自分自身」と「教え」とに気を配るとあります。神がイエス・キリストを通して私たちに授けられた「良い教え」は、私たちの知識欲を満たし、教養を高めることだけにあるのではありません。そうではなく、自分自身に気を配りつつ、己の生き方を整えることに大きな意味があると言えるのです。自分自身の生き方というものを、イエスが抱き、与えられた価値観によって整えられたときに、私たちはキリストの香りを放つ者として、主とともに生きる幸いを味わうことができるというのです。
 
ですから、この手紙のなかでは、自分自身と教えとに気を配った結果として、「自分自身」と「あなたの言葉を聞く人々」を救うことができるとつづられています。私たち自身が、イエス・キリストの価値観によって生きようとする思いを、神は必ず祝福し、そのように私たちを整えてくださり、私たちが出会う人々ひとりひとりにも良い感化を共有できるのだということを、私は信じたいし、そうであって欲しいと心から願うし、そのように生きる者でありたいという憧れを、現実のものにしたいと思うのです。
 
私のことだけでない、私と関わる人々も神によって平和になれる。そのために、私がまず、神の良いものをいっぱいに受け取って、その指し示された生き方というものを自分自身のものとする。そのために御言葉に聴き、そして祈るという営みの循環を大切にしたい。そうすることで、キリストの教えが形骸化せず、いつまでも活き活きしたものとして、私たちの心に響くのでしょう。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルのそれぞれの地にあった者たちが、この地に導かれた神のなさることに喜び、感謝しつつ、その神に対して自らの決意を述べた言葉です。神である主に背中を向け、離れ去ることなど決してないのだ。そんな彼らの確固たる意志というものを、この言葉から読み取ることができます。そのためには、彼らが神の語り掛ける声に耳と心を傾け、そこに真摯に向き合って自分自身の生き方としたときに、このような告白の言葉が実質的なものとなっていったのでしょう。
 
この一週間を振り返って、私たち自身の生き方がどのようなものであったか。私たちはそのことを誠実に向き合って、神とともに生きる幸いというものを確認しつつ、新しい一週間に軸足を向けることができますように。皆さんの一日が神によって良いものとなりますように。心からお祈りします。

09/01/2026

2026.1.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書31章13節
私は彼らを慰め、悲しみに変えて喜びを与える。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二1章7節
私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、私たちは知っているからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、皆さんの心と身体のすべてを神である主が守り、祝福してくださいますように。今日出会うさまざまな出来事、さまざまな人との関わりが、そのような神の守りと祝福によって支えられ、慰めを大いに受けることで、生きる力となりますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワード、それは「慰め」です。慰めとは何でしょうか。国語辞典では「不満な心をしずめ満足させる。心を楽しませる。相手の悲しみや苦しみをなだめる。いたわる」とあります。そのすべての意味が、今日の聖句における慰めという言葉に表れていると言ってもよいでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉である第二コリント書の一節は、このような慰めが「希望」へとつながるのだということを、この手紙の著者であるパウロが明らかにしています。慰められるからこそ勇気づけられ、元気づけられて、それが希望に結び付くということを、私たちはよく知っていると思います。実際に「慰め」と訳されているギリシア語は「弁護者」という言葉と同義で用いられています。
 
イエスが弟子たちに対して、たとえ見える形であなたがたの前からいなくなることがあっても、あなたがたの苦しみをともにし、あなたがたを弁護するための助け主を与えることを約束されました。それこそ「聖霊」なのであって、聖霊が「慰め主」と呼ばれるのも、よく理解できるのです。
 
だからこそ、今日の聖句を読み解き、それを自分自身への言葉として染み入るものとするために、無くてならないのは「聖霊の助け」に他ならないのです。聖霊は極めて未来志向的なものであるから、慰めと希望というものは切って離すことのできない大切なものなのだと私は受け止めました。パウロがコリント教会における数々の困難のなかにあっても、それでも決して希望を忘れ去ることをしなかった。なぜならば、そこには聖霊による慰めがあったからです。
 
これは、辛酸を舐め尽くしたユダヤの民とて同様でした。苦しみの極みに立たされたときに、彼らにとってただ必要なのは、慰めとともに希望を与えてくださる神御自身が民たちとともにいてくださることでした。こうして、彼らは再生の道を神とともに歩む思いが高められていったのでした。
 
この慰めが、今日も私たちの生活を支え、その慰めを聖霊によって神が与えてくださいます。その助けが希望を生むことができますように。祈ります。

08/01/2026

2026.1.8(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記3章24節
主よ、あなたはその栄光と力強い御手とを、あなたの僕に示し始められました。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章24節
(イエスの祈り)父よ、あなたが私にお与えになった者たちが、私のいる場所に共にいられるようにしてください。あなたが私に与えてくださった栄光を、彼らが見るようになるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も寒い一日ですが、どうか私たちの身体と心が神によって守られますように。私たちの神とともにある一日が、私たちの出会うすべての方々にとっても、大きな喜びとなりますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったメッセージは「私のためだけでなく」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エジプトから40年間にわたる苦難の旅路を終えようとしているイスラエルの民を率いた指導者モーセが、神へ願いをささげているその冒頭の一節です。モーセはこの長い流浪の旅のなかで、つねに神が民たちにご自分の力強い御腕をもって導かれたことを実際に経験しました。そして、今や神が示された約束の地を目前にして、その神に向かって40年間を振り返りつつ、神に向かって自分の告白をしています。
 
今日の聖書の言葉のあとに続く部分で、モーセは「自分は是非約束の地にたどり着きたい」という思いを神に告白しました。しかし、神はその願いをお許しにはなりませんでした。モーセの切なる願いを、決して聞かれることはなかったのです。しかし、神はご自分の40年間んの導きを決して無駄なものにはされませんでした。モーセの後継者としてヨシュアを指名し、そのヨシュアに約束の地を渡らせるための指導者としてお立てになられました。
 
自分はその夢を叶えることはできませんでしたが、民たちにはご自分の約束を果たされることによって、ご自分の栄光を示されました。モーセの40年間を、そして人生の歩みを、決して無駄にはされませんでした。ここにこそ、神が世代を経てもご自分が民たちの神であることを明らかにされたのでした。
 
そのことが、今日の新約聖書の言葉にもよく表れています。今日の新約聖書の言葉は、十字架に架けられる前夜、イエスが神に向かって祈った、その祈りの一節が選ばれています。今や十字架に架けられて死の極みに立とうとされておられるイエスは、まさに神の栄光からは一番遠いように見える姿でした。しかし、ご自分の死を通して、遺された弟子たちが引き続き、いやそれ以上に神の力強い御手によって守られるように祈ったのでした。まるでその祈りは、モーセに対して神が示された姿に重なると私は受け取ったのです。
 
私自身の願いは願いの通りに叶うことがないかもしれない。しかし、神が人に対してなされた約束は、必ず何らかの形で継承され、果たされていくのだ。そのことに喜ぶ者でありたい。私はそんなことを今日の御言葉から受け取りたいと思いました。
 
こうしてキリスト教の歴史は2000年にわたって継承されてきたことを思うと、私のためだけではなく、神が愛しておられるご自分の民たちのためにもその力を余すところなく働かせてくださることを、私たちの希望としていきたいのです。そのことを信じて、今日も歩むことができますように。お祈りします。

07/01/2026

2026.1.7(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章11節
さあ、あなたがたの悪しき道から立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章21節
真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
とても寒い、氷点下の朝を迎えました。インフルエンザも流行していますので、身体に気を付けつつ、今日も健康が守られるように一日を乗り越えていきたいと思います。どうぞ皆さんの一日の健康と信仰が守られますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の方角をただ見つめて生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばは、預言者エゼキエルに語りかけられた神の言葉です。神がご自分の民イスラエルに対して、エゼキエルを通してご自身の思いと願いを、この言葉に込められました。そのメッセージこそ「神の方角へ向き直して、神のもとへ帰る」ことを、神が切に願っておられることだったのです。
 
「なぜあなたは死のうとするのか」と神は問われます。この言葉に私たちは問われていることを真剣に受け止めたいのです。どうして死に急ぐのか。神との別離と隔絶は、今イスラエルの民たちが経験している苦悩へと直結するものでした。故郷を離れ、バビロニア帝国の捕虜として数十年にわたる苦しみを味わわなければならなかったからです。
 
この苦しみは、神のくだした罰ではないと私は受け止めています。いわゆる民たちの「自業自得」なのだと。だから、自分自身のこれまでの生き方というものを精査することなしに、それを棚に上げて、神にその責を問うことは、実に本末転倒なのだと私は思っています。神のもとから知らず知らずのうちに、自らが心も体も離れていった結果、彼らは苦しみを得ることになったのです。
 
一番安全な道、平安な生き方は、死に急ぐことを決して望まれない神が放たれる光によって、自分自身の生き方を軌道修正することでした。ご自分のもとに帰られることを神は心から望まれて、エゼキエルを通してご自分の言葉を授けられたのでした。その言葉は、今もなお、私たちひとりひとりに語りかけられた言葉として、有効であるということに、私たちひとりひとりが受け止められるのだろうか? そんなことを私は真摯に受け止めたいのです。
 
私たちのために、闇夜に投じられた光とともにお生まれになられたイエス。そのイエスこそ「世の光」として、私たちの前にその生き方を示されました。イエスが私たちに示されたその生き方から、私たちは「神とともに生きる幸い」というものを、聖書のことばを通して丹念に聴き取り、自分自身の生き方にすることによって、「神の方角をただ見つめて歩む」ことなのだと思います。そのような生き方がもたらす幸いを、心から大切にすることができますように。

06/01/2026

2026.1.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編89編10節
あなたは荒れ狂う海を治め
高波が起こるとき、これを鎮めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章26節
イエスは弟子たちに言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ怖がるのか。」そして、起き上がって風と湖とを叱りつけられた。するとすっかり凪になった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は、教会の暦に「公現日(栄光祭)」が位置付けられています。当方から来た博士たちが、乳飲み子イエスを拝みに来たことにちなんで、この日が設けられました。実際には、後の信仰者たちが設定したものですので、クリスマスから約2週間後の出来事であるかどうかの記述が聖書にあるわけではないのですが、聖書に記されたストーリーを自分たちの生活に取り入れようとした姿勢は、大いに学ぶところがあると私は感じています。イエスが私たちのあいだに明らかにされることの意味について、今日の一日、じっくりと思い巡らせたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「ざわつく心」でした。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、詩編の一片でした。そのなかで「荒れ狂う海」という言葉が登場します。この表現について、他の聖書では「誇り高い海」と訳されていますし、「海の高まり」と訳されているものもあります。つまり、「荒れ狂う」とは、私たちの持つプライドにゆえに起きる高慢さが、ちょっとしたことで荒れ狂った海のように、自分自身の心に大きなざわつきを生じさせるのだという風に私は受け止めました。
 
私のプライドはどこにあるのか。それはどのような種類のものなのか。そのプライドは、私たちの心をざわつかせるようなものなのか、海を荒れ狂わせるくらいに、私たちの心を支配してしまうものなのか。そんなことを自分自身の胸に手を当てて、じっくりと考えてみたいのです。
 
私は、第一コリント書にある「誇る者は主を誇れ」という言葉が思い浮かびました。自分自身の存立は、つまらない自分自身だけのプライドによるのではなく、神がともにおられて、私たちの心のざわつきを鎮めてくださることによる安心を、自分自身の誇りとすることができるのだと。そんなことを感じたときに、今日の新約聖書の言葉が響いたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、荒れ狂った湖のなかで、舟が沈んでしまうかもしれないことに恐れを抱いた弟子たちに対して、イエスが奇跡を起こして波を鎮めることによって、弟子たちの心のざわつきをも鎮められたエピソードの一節でした。
 
私たちの心は、日々のさまざまな出来事によって大きくざわつくことがあります。そして不安の渦に巻き込まれ、恐怖を抱き、その恐怖ゆえに、あらぬ方向へと自分自身を誤導してしまうこともあるでしょう。そうならないために、私たちとともに主イエスがともに歩んでくださるということを、私たちの心の柱としたい。そんなことで得られる安心感や平安を味わいたいと私は感じされられました。
 
そんな平安な思いとともに、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある守りと祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。

05/01/2026

2026.1.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編28編8節
主こそ、その民の力。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二2章16~17節
私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、礼拝に出席された方、休日を楽しまれた方、それぞれの持ち場で一日をお過ごしになられたかと思います。今日から仕事始めというところも多いかと思います。すべてが神が与えてくださる良いものをもって、皆さんの生活が素敵なものとなりますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「善い言葉を語る者」という、新約聖書・第二テサロニケ書の一節にある言葉でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
善い言葉を語る者とは何でしょうか。ここで、あえて「善い」という言葉が用いられていることに私は注目しました。ただの良いではない、自分の周りにいる方々にとっても良いものがあふれ出るような意味合いを私は感じました。そして、そこには明確な基準というものがあります。
 
「主は善いお方」という言葉にもあるように、神である主が与えてくださる善さが私たちのうちにあふれるときに、私たちは神からの影響を大いに受ける者として生きることができるというのです。「神が助けてくださる」というのは、私たちが神によって感化を受けることであると私は受け止めています。
 
私たちが感化を受けたくもないのに、神の助けを得ようとしても、神の善さが自分自身の内にあふれ出すことは無いでしょう。神はどんな者をも助けてくださるでしょう。しかし、助けを受ける私たちに「神から助けられている」ことへの自覚、そして認識がなければ、善いものをただ受け流し、垂れ流して終わってしまうのだと私は思うのです。
 
だからこそ、神から受けた善いものをもって、それをしっかりと握りしめながら私たち自身の生き方としていくのは、神とともに歩むがゆえの出来事だし、私たちはその出来事を本当に大切にしたいのです。善いものとは、神が与えてくださる慰めや励ましによって生み出される、私たちの生き方にあふれる善い言動なのでしょう。その言動には神がともにいてくださることが明らかにされるのですから。
 
ですから、私たちは神の心がどこにあるのか、神の思いがどのようなものなのか、神がより具体的に私たちのために遣わしてくださったイエスの生き方を自分の生き方とするために、聖書の言葉から丹念に聴きとっていきたい。祈りを通して神との素敵な交流をもっていきたい。そんな営みが、今日の詩編の言葉にもあるように「民の力」となるのだろうと望みたいのです。
 
神の善いものをもって生きることでわきあふれる幸いに、今日も生きることができますように。お祈りします。

04/01/2026

2026.1.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編2節
わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章7~8節
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人はいません。私が行く間に、ほかの人たちが先に降りてしまうのです。」イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。クリスマスシーズンも終わりを告げ、私たちは年始とともに、日常に戻りつつあるなかに今週の一週間があると思います。皆さんの七日間の日々が、神とともにあるがゆえの祝福が豊かにありますことを、心よりお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちを決して見捨てられない」というメッセージでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが長い間、病のために起き上がることのできなかった人に、癒しを与えられたエピソードが収録されています。その舞台となったのは「ベトサダの池」でした。ローズンゲン日本語版を出版しているベテスダ奉仕女母の家は、この地名から取られたものですが、もともともは「あわれみの家」という意味があります。
 
神のあわれみが豊かにあふれると言われる場で、38年ものあいだ身体の不自由を抱えていた方が、まさにそのあわれみを求めていました。しかし、待てど暮らせど、自分の不自由は一向に改善されませんでした。池の水が動いたときに、池のなかに入ればそのあわれみを受けることができるというのです。しかし、なかなかこの人は池にたどり着くことができませんでした。自力でどうすることもできなかったのです。
 
そこにイエスとの出会いがありました。イエスは池のなかにこの人が入ることなく、長年の苦しみにあわれみを加えられました。こうして、この人は長年の苦しみから解放され、ひとりで床を担いで歩くことができたのです。まさに神のあわれみがこの人に現れた一瞬でした。
 
自力ではどうすることもできない。その苦悩を私たちの神はすべてご存知である。大切なのは、私たちが神の与えてくださるあわれみがあることを心から信じて、神のなさることに信頼の思いを寄せることなのでしょう。なかなか待つことはできない場合があります。待ち続けることも多くの苦痛をともなうからです。しかし、神がベストなタイミングをおって必ず応えてくださる。そこに一縷の希望を託して生きることで、最終的な幸いが見いだされるということを、私たちは今日生きる励みとしたい。そんなことを受け止めたいと思ったのです。
 
もし、今苦しみの渦中にあるならば、そのような神がともにおられることを私たちのただひとつの希望とすることができますように。皆さんの主にある平安と祝福が豊かにありますように祈ります。