07/01/2026

2026.1.7(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章11節
さあ、あなたがたの悪しき道から立ち返れ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章21節
真理を行う者は光の方に来る。その行いが神にあってなされたことが、明らかにされるためである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
とても寒い、氷点下の朝を迎えました。インフルエンザも流行していますので、身体に気を付けつつ、今日も健康が守られるように一日を乗り越えていきたいと思います。どうぞ皆さんの一日の健康と信仰が守られますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の方角をただ見つめて生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばは、預言者エゼキエルに語りかけられた神の言葉です。神がご自分の民イスラエルに対して、エゼキエルを通してご自身の思いと願いを、この言葉に込められました。そのメッセージこそ「神の方角へ向き直して、神のもとへ帰る」ことを、神が切に願っておられることだったのです。
 
「なぜあなたは死のうとするのか」と神は問われます。この言葉に私たちは問われていることを真剣に受け止めたいのです。どうして死に急ぐのか。神との別離と隔絶は、今イスラエルの民たちが経験している苦悩へと直結するものでした。故郷を離れ、バビロニア帝国の捕虜として数十年にわたる苦しみを味わわなければならなかったからです。
 
この苦しみは、神のくだした罰ではないと私は受け止めています。いわゆる民たちの「自業自得」なのだと。だから、自分自身のこれまでの生き方というものを精査することなしに、それを棚に上げて、神にその責を問うことは、実に本末転倒なのだと私は思っています。神のもとから知らず知らずのうちに、自らが心も体も離れていった結果、彼らは苦しみを得ることになったのです。
 
一番安全な道、平安な生き方は、死に急ぐことを決して望まれない神が放たれる光によって、自分自身の生き方を軌道修正することでした。ご自分のもとに帰られることを神は心から望まれて、エゼキエルを通してご自分の言葉を授けられたのでした。その言葉は、今もなお、私たちひとりひとりに語りかけられた言葉として、有効であるということに、私たちひとりひとりが受け止められるのだろうか? そんなことを私は真摯に受け止めたいのです。
 
私たちのために、闇夜に投じられた光とともにお生まれになられたイエス。そのイエスこそ「世の光」として、私たちの前にその生き方を示されました。イエスが私たちに示されたその生き方から、私たちは「神とともに生きる幸い」というものを、聖書のことばを通して丹念に聴き取り、自分自身の生き方にすることによって、「神の方角をただ見つめて歩む」ことなのだと思います。そのような生き方がもたらす幸いを、心から大切にすることができますように。

06/01/2026

2026.1.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編89編10節
あなたは荒れ狂う海を治め
高波が起こるとき、これを鎮めます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書8章26節
イエスは弟子たちに言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ怖がるのか。」そして、起き上がって風と湖とを叱りつけられた。するとすっかり凪になった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は、教会の暦に「公現日(栄光祭)」が位置付けられています。当方から来た博士たちが、乳飲み子イエスを拝みに来たことにちなんで、この日が設けられました。実際には、後の信仰者たちが設定したものですので、クリスマスから約2週間後の出来事であるかどうかの記述が聖書にあるわけではないのですが、聖書に記されたストーリーを自分たちの生活に取り入れようとした姿勢は、大いに学ぶところがあると私は感じています。イエスが私たちのあいだに明らかにされることの意味について、今日の一日、じっくりと思い巡らせたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「ざわつく心」でした。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、詩編の一片でした。そのなかで「荒れ狂う海」という言葉が登場します。この表現について、他の聖書では「誇り高い海」と訳されていますし、「海の高まり」と訳されているものもあります。つまり、「荒れ狂う」とは、私たちの持つプライドにゆえに起きる高慢さが、ちょっとしたことで荒れ狂った海のように、自分自身の心に大きなざわつきを生じさせるのだという風に私は受け止めました。
 
私のプライドはどこにあるのか。それはどのような種類のものなのか。そのプライドは、私たちの心をざわつかせるようなものなのか、海を荒れ狂わせるくらいに、私たちの心を支配してしまうものなのか。そんなことを自分自身の胸に手を当てて、じっくりと考えてみたいのです。
 
私は、第一コリント書にある「誇る者は主を誇れ」という言葉が思い浮かびました。自分自身の存立は、つまらない自分自身だけのプライドによるのではなく、神がともにおられて、私たちの心のざわつきを鎮めてくださることによる安心を、自分自身の誇りとすることができるのだと。そんなことを感じたときに、今日の新約聖書の言葉が響いたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、荒れ狂った湖のなかで、舟が沈んでしまうかもしれないことに恐れを抱いた弟子たちに対して、イエスが奇跡を起こして波を鎮めることによって、弟子たちの心のざわつきをも鎮められたエピソードの一節でした。
 
私たちの心は、日々のさまざまな出来事によって大きくざわつくことがあります。そして不安の渦に巻き込まれ、恐怖を抱き、その恐怖ゆえに、あらぬ方向へと自分自身を誤導してしまうこともあるでしょう。そうならないために、私たちとともに主イエスがともに歩んでくださるということを、私たちの心の柱としたい。そんなことで得られる安心感や平安を味わいたいと私は感じされられました。
 
そんな平安な思いとともに、今日の一日を歩むことができますように。皆さんの主にある守りと祝福が豊かにありますように。心からお祈りします。

05/01/2026

2026.1.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編28編8節
主こそ、その民の力。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二2章16~17節
私たちの主イエス・キリストご自身と、私たちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださった、私たちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い行いをし、善い言葉を語る者としてくださいますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日は、礼拝に出席された方、休日を楽しまれた方、それぞれの持ち場で一日をお過ごしになられたかと思います。今日から仕事始めというところも多いかと思います。すべてが神が与えてくださる良いものをもって、皆さんの生活が素敵なものとなりますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「善い言葉を語る者」という、新約聖書・第二テサロニケ書の一節にある言葉でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
善い言葉を語る者とは何でしょうか。ここで、あえて「善い」という言葉が用いられていることに私は注目しました。ただの良いではない、自分の周りにいる方々にとっても良いものがあふれ出るような意味合いを私は感じました。そして、そこには明確な基準というものがあります。
 
「主は善いお方」という言葉にもあるように、神である主が与えてくださる善さが私たちのうちにあふれるときに、私たちは神からの影響を大いに受ける者として生きることができるというのです。「神が助けてくださる」というのは、私たちが神によって感化を受けることであると私は受け止めています。
 
私たちが感化を受けたくもないのに、神の助けを得ようとしても、神の善さが自分自身の内にあふれ出すことは無いでしょう。神はどんな者をも助けてくださるでしょう。しかし、助けを受ける私たちに「神から助けられている」ことへの自覚、そして認識がなければ、善いものをただ受け流し、垂れ流して終わってしまうのだと私は思うのです。
 
だからこそ、神から受けた善いものをもって、それをしっかりと握りしめながら私たち自身の生き方としていくのは、神とともに歩むがゆえの出来事だし、私たちはその出来事を本当に大切にしたいのです。善いものとは、神が与えてくださる慰めや励ましによって生み出される、私たちの生き方にあふれる善い言動なのでしょう。その言動には神がともにいてくださることが明らかにされるのですから。
 
ですから、私たちは神の心がどこにあるのか、神の思いがどのようなものなのか、神がより具体的に私たちのために遣わしてくださったイエスの生き方を自分の生き方とするために、聖書の言葉から丹念に聴きとっていきたい。祈りを通して神との素敵な交流をもっていきたい。そんな営みが、今日の詩編の言葉にもあるように「民の力」となるのだろうと望みたいのです。
 
神の善いものをもって生きることでわきあふれる幸いに、今日も生きることができますように。お祈りします。

04/01/2026

2026.1.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編40編2節
わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章7~8節
病人は答えた。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人はいません。私が行く間に、ほかの人たちが先に降りてしまうのです。」イエスは言われた。「起きて、床を担いで歩きなさい。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。クリスマスシーズンも終わりを告げ、私たちは年始とともに、日常に戻りつつあるなかに今週の一週間があると思います。皆さんの七日間の日々が、神とともにあるがゆえの祝福が豊かにありますことを、心よりお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちを決して見捨てられない」というメッセージでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが長い間、病のために起き上がることのできなかった人に、癒しを与えられたエピソードが収録されています。その舞台となったのは「ベトサダの池」でした。ローズンゲン日本語版を出版しているベテスダ奉仕女母の家は、この地名から取られたものですが、もともともは「あわれみの家」という意味があります。
 
神のあわれみが豊かにあふれると言われる場で、38年ものあいだ身体の不自由を抱えていた方が、まさにそのあわれみを求めていました。しかし、待てど暮らせど、自分の不自由は一向に改善されませんでした。池の水が動いたときに、池のなかに入ればそのあわれみを受けることができるというのです。しかし、なかなかこの人は池にたどり着くことができませんでした。自力でどうすることもできなかったのです。
 
そこにイエスとの出会いがありました。イエスは池のなかにこの人が入ることなく、長年の苦しみにあわれみを加えられました。こうして、この人は長年の苦しみから解放され、ひとりで床を担いで歩くことができたのです。まさに神のあわれみがこの人に現れた一瞬でした。
 
自力ではどうすることもできない。その苦悩を私たちの神はすべてご存知である。大切なのは、私たちが神の与えてくださるあわれみがあることを心から信じて、神のなさることに信頼の思いを寄せることなのでしょう。なかなか待つことはできない場合があります。待ち続けることも多くの苦痛をともなうからです。しかし、神がベストなタイミングをおって必ず応えてくださる。そこに一縷の希望を託して生きることで、最終的な幸いが見いだされるということを、私たちは今日生きる励みとしたい。そんなことを受け止めたいと思ったのです。
 
もし、今苦しみの渦中にあるならば、そのような神がともにおられることを私たちのただひとつの希望とすることができますように。皆さんの主にある平安と祝福が豊かにありますように祈ります。

03/01/2026

2026.1.3(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書5章3節
主よ、あなたのまなざしは
真実に向けられてはいないのですか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙三5節
愛する者よ、あなたはきょうだいたち、それも、よそから来た人たちに誠実を尽くしています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
正月三が日の最終日であり、今週の最終日を迎えました。今年は1月4日が日曜ですので、あと少しだけ休日を楽しまれる方もおられるかと思いますし、交通ラッシュの渦のなかにおられる方もおられるかと思います。いずれにせよ、今日も一日、皆さんの安全を神が与え、守ってくださいますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「真実はどこにあるのか」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
まず、真実とは何か。そんなことを考えてみたいのです。真実とは、私たちが出会うさまざまな出来事に対して、私自身がどれだけそのことに誠実かつ忠実に、真摯にまた正直に向き合おうとしたときに起きてくるものであると、私は受け止めています。どんなに事実を立て並べても、私自身の心や思いがそれを認めなければ、事実が真実とはなり得ないのです。
 
つまり、神がおられるという事実を、私たちが真実として受け入れなければ、究極的な意味で、私たちが「神を信じる」ということには至らないのでしょう。預言者エレミヤの時代、神の民であったユダヤ人は、誰もがそんな状態に陥っていたと、今日選ばれた聖句は物語っているのです。
 
神を知っている。自分は神の民だという自覚がある。しかし、その事実を真実なものとして受け止めることがないからこそ、彼らは神の御心に対して誠実に応えようというところまでは到達しなかったのです。「まなざしが真実に向けられていない」とは、まさに神に対して、また自分自身に対しても欺いた態度を、ユダヤの民たちは自分たちの生き方としたのです。
 
その慢心こそが、後に数十年にわたるバビロン捕囚を経験することになります。それは神罰でもなんでもありません。彼らの蒔いた種を自ら刈り取らなければならない結果を生んだのでした。だからこそ、私たちは神との関わりにおいて、自分自身のまなざしが真実に向き合っているかどうかを、丁寧に振り返り、分析して、自らのあり方というものをじっくりと見つめることが、本当に大切なのでしょう。そのような私たちを、神は大いに赦され、祝福してくださるのです。
 
そして、神に対する真実が込められた態度は、おのずと他者にも向けられるということを、私たちは今日の新約聖書の言葉から知りたいと思います。きょうだいに対する「誠実」は、神が与えてくださった恵みに対する「真実」と共通するのです。私のきまぐれな、個人的感情から起きるものではなく、あくまで神が与えてくださる愛に生きるがゆえに、その愛をもって他者に向き合うとき、真実が真実として神が受け入れてくださり、祝福してくださる一瞬があるのでしょう。
 
そのような思いを込めて、今日の一日を過ごすことができますように。私たちの世界に、神の真実が豊かにあふれますように。その豊かさに生きることができますように。お祈りします。
 

02/01/2026

2026.1.2(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編115編13節
主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も大いなる者も。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章9節
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。昨日は元日をそれぞれのご予定で過ごされたと思います。私は、午後から「仙台キリスト教連合」主催の新年合同礼拝へ出席しました。超教派の地域教会連合体です。会場はカトリック教会で、説教者は聖公会司祭、実にエキュメニカルな礼拝の機会をいただきました。「キリストにあってひとつ」であることの大切さを改めて思わされた次第です。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「祝福」でした。この祝福について黙想をつづりたいと思います。祝福とは何でしょうか。祝福の源である神が、私たちを生きる喜びへと導いてくださるために無くてならないもの。これが「祝福」です。
 
今日の聖句、旧約聖書・詩編115編に記されているのは「主を恐れる者」が神からの祝福を受ける者である、というものです。恐れるとは恐怖ではなく畏怖のことです。報復されること、断罪されることを恐れて神に向き合うのではありません。神のスケールの大きさゆえに、私たちはただ神の御前にかしこまるしかない。そのような畏れ多い気持ちは、むしろ親近感を私たちのうちに呼び起こすものであるかもしれません。私のためにもっとも大切で、もっとも良いとされる道を備え、提示される方。この方こそ私たちの神なのです。
 
その神が私とともにいてくださることへの深い信頼が「主を恐れる」という言葉に集約されています。そのような方と一緒にいるからこそ、自らの姿というものを振り返り、吟味し、よりふさわしい形をもって生きようという思いを、私たちのうちに起こさせる源泉となるのでしょう。そのような思いを、私たちの神はよくご存知になられたうえで、私たち一人ひとりに祝福を存分に注いでくださるというのです。神は確かに怖い方なのでしょう。しかし、その怖さにびくびく震え上がることがあるとすれば、私たちは自分自身に何らかの後ろめたさのようなものを抱えているのかもしれません。食べてはならない木の実を食べた後、神が怖くてなかなか姿を現わすことができなかった、あの人間夫婦のようにです。
 
それで大切なことは、祝福を神からいただいた私たちの自覚というものが、他者に対しても神の祝福をもって相対し、他者のために祈り、行動する思いへと揺り動かすものがあるということです。これこそ、今日の新約聖書で言わんとしていることなのではないかと思わされました。侮辱されることは気持ちの良いことではありません。私も時々侮辱されることがあります。特にSNSが人々のあいだに広がるなかで、自分自身の発言というものに責任を取らなくても、自由に発言できる市民権のようなものが簡単に手に入るようになりました。だからこそ、いとも簡単に人を侮辱する、それに同調する風潮というものが高まっているのだと、私も自戒を込めて思わされます。
 
だからこそ、投げつけられた侮辱に対して侮辱で返すのかということが問われているのだと。侮辱するのは簡単です。しかし、神からいただいた祝福を抱いた生き方をすることからは離れてしまう。侮辱ではなく健全な建設的批判をし、その批判にも神の祝福がきらりと光るような言動を心がけたい。私の2026年における抱負のひとつにしたいと思わされました、あらためて良い聖句だなと感じました。
 
どうか、今日の一日も神が与えてくださる祝福にふさわしい生活を実践することができますように。心からお祈りいたします。

01/01/2026

2026.1.1(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書25章8節
主なる神は、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一4章9節
神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現わされました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。そして、新しい年2026年の幕開けを、心からお祝い申し上げます。この一年が、皆さんにとって、世界にとって、そして私自身にとっても、神とともにあるがゆえの平安と祝福が豊かにあることを、心からお祈りいたします。
 
そして、今年も『日々の聖句 LOSUNGEN(ローズンゲン)』を通して、皆さんとともに神の御言葉をいただき、味わい、分かち合うことのできる喜びを心から期待しつつ、私も黙想をつづってまいりたいと思います。引き続きのお付き合いのほど、なにとぞよろしくお願いいたします。
 
私事になってしまいますが、昨年をもって編集者の任を辞しましたので、これからは一読者として、ローズンゲン運動に関わってまいりたいと思います。それにともない、上記聖句の引用は『日々の聖句』からの引用といたします。出版元のベテスダ奉仕女母の家のご厚意により、転載することをご許可いただきました。心から感謝いたします。
 
前置きはこのくらいにして、新年最初のローズンゲンに示されたふたつの聖句を味わいたいと思います。新年とは言えど、まだクリスマスの余韻のなかにあって、これらの聖句が提示されています。そのなかで神が私たちに語りかけてくださる言葉は、「私たちの恥をぬぐい去ってくださる」というものです。この「恥」とはなんでしょうか?
 
この「恥」と日本語に訳されている原語は、「ケルパー」というヘブライ語が用いられています。言われもない非難を受けることによって、不名誉を被る様子、軽蔑されることによって経験する恥辱や屈辱のことを意味する言葉として知られています。これらのことゆえに、私たちが「恥」を抱えることがあるならば、神はそれを私たちからぬぐい去ってくださるというのです。
 
ただ、これは「神とともに生きる」ことを私の決断とするときに、それゆえに被る恥辱のことであって、あくまで神を主体としたものです。私個人に起因するものではありません。ですから、神が私たちのうちから取り除いてくださる恥というものが、神に由来するものか、それとも私に由来するものか、それらを識別する作業は大切であると言えるでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、私たちが神とともに歩む者となれるように、地上に遣わされた主イエスのことについて触れられた聖句でした。このイエスは私たちが抱えたすべての恥辱のために十字架にかかられました。そして、多くの人々のあざけりを思い存分にわが身に浴びせて、その命を私たちに与えられました。神が私たちの恥をすべて取り除いてくださる根拠は、まさにイエスの存在そのものであると言って間違いないでしょう。
 
このイエスとともに歩む一年を、私たちは是非楽しみたいと心から願いますし、そのような願いの連鎖が、この世界に平和をもたらしますように。まずはその初めとなる一日のためにお祈りします。