11/05/2025

2025.5.11(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章15節
盗んではならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章28節
盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて22日目を迎えました。イースターから始まって4回目の日曜日を迎えました。今日も世界中の教会や集会で行われる礼拝を通して、神の喜びと祝福が皆さんとともにありますようにと祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「盗み」です。そして、いずれの聖句にも「盗んではならない」という掟であり勧めが私たちに与えられています。私は、神がモーセを通してイスラエルの民たちに与えた十戒の言葉のなかで、この「盗んではならない」という言葉をどのように受け止めることができるのだろうかということについて、その時々において思わされます。
 
盗むという行為は、一般的に言われているような人の物品を相手の承諾なく自分のものにしてしまうことを指すわけですが、盗むという行為がなにも物品だけのことを言っているわけではないということに私たちは注目し、関心を高めてまいりたいのです。つまり、神が私たち一人ひとりに与えられたいのち、尊厳、神にある人権をはじめとするさまざまな権利、関係性、経済、健康、精神衛生、学歴や職歴、社会的地位など、数え上げればきりがないことを思わされるのです。
 
私たちはいかなる理由であれ、そのような人が大切にしているもの、大切にするように与えられているものを奪い取ってはならないのだということに、いつも敏感であるべきなのです。それは単なる人間の倫理的な理由を超越したところに、その根拠を見い出すことが必要なのです。つまり、神が私たちを活かすために必要なことをすべて備えてくださっているという根拠です。それをさも自分自身の努力の結果勝ち取っていると勘違いするからこそ、盗みという結果を生み出すのだと。
 
今日から新しいいのちの一週間が始まります。私たちに神が授けてくださった尊厳を、互いに大切にすることによって、神の栄光のために生きることができますように。

10/05/2025

2025.5.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章23節
私は近くにいる神なのか――主の仰せ。
遠くにいる神ではないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書15章34節
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて21日目を迎えました。そして、ゴールデンウィークの最中から始まった一週間も、今日で最終日を迎えました。この一週間にあったことを思い巡らせながら、明日への備えをしつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に思いを寄せたいと思います。
 
今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「私たちが神から見捨てられたような感覚に陥る時にこそ、実は神はすぐそばにおられる」というものでした。私たちは誰でも、神の存在、そしてなさることを信じ、受け止めていたとしても、ちょっとしたことで神から見捨てられたような経験をしたことがあるかもしれません。
 
私はここ数日考えていたことがあります。ある人がついた「嘘」を信じてしまったがために、大きな代償を払わなければならなくなってしまったということについでです。詳しいことを書くのは控えますが、これは実際に私の身に起きたことであって、そのことに真摯に向き合おうと思いながらも、時々そのことで思い苦しむ自分自身があったりするのです。どこに怒りのやり場を向けて良いのか、とてもやるせない気持ちにさせられるのです。
 
お前のついた嘘のせいでこんな目に遭ったんだ。そう思う一方で、だまされた自分が馬鹿だったとも思うわけです。自分のことでこういう言い方をするのはおこがましくはあるのですが「正直者は馬鹿を見る」とはよく言ったものだと思うのです。そういう時に、私はいつも思うのです。神はこの状況をどのようにご覧になられているのだろうかと。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが十字架上で叫ばれた「私の神よ、私の神よ、どうして私をお見捨てになられたのですか」という、大変有名な聖書の箇所が選ばれています。十字架のうえでただ孤独のなかで神に向けられたこの言葉を聞く時に、イエスは本当に神に対して見捨てられたような感覚を抱いてこのようなことを言われたのだろうかと。
 
私はそうではないと思っています。孤独という現実が実際に人を襲うなかにあって、誰からも見捨てられたような感覚に陥る人間の正直な気持ちというものを、イエスは全人間を代表するかのように叫ばれたのだと私は受け止めたいのです。しかし、神がそう簡単に人間のことを於お見捨てになるはずがありません。どの時代にも、神は人間のことを決して見捨てられるようなことをなさいませんでした。だからこそ、救い主を与えられたのではなかったのか。その救い主を復活を通して、本当に命の救い主にしてくださったのではないか!と。
 
だから、私自身の話に戻れば、こういうつらい時にこそ、神はすぐそばにいてくださって必ず神にとってベストな道というものをもって、私にそのことを示してくださるのだと信じたいのです。その過程で、もちろん自分自身が神に向き合えなかったことを悔やむ思いも与えられるでしょうし、誰も理解してくれないようなことでも、神は理解してくださったのだということに大きな喜びを見い出せるに違いない。とにかく神は決して遠く離されたところにおられる方ではなく、すぐ近くにおられるのだと。
 
だからこそ、自分自身にある状況というものを認めながらも、それよりも大切にしたいのはすぐそばにおられる神と歩むことに誠実でありたいと、今日の聖句を通してあらためて思わされたのでした。今私を悩ませている出来事も、すぐ近くにおられる神がご自分の正しさをもって私に何をすべきかを教えてくださるのだと、希望をもって歩みたいと思いました。
 
明日から新しい一週間が始まります。その日々が神によって祝されることを心から願いつつ、今日の残りの時間を過ごすことが出来ますように。心からお祈りします。

09/05/2025

2025.5.9(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エゼキエル書33章17節
あなたの同胞は、『主の道は公正ではない』と言っている。しかし、彼らの道こそ公正ではない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙9章14節
神に不正があるのか。決してそうではない。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて20日目を迎えました。昨日、おとといと黙想を皆さんにお届けすることができませんでした。楽しみにしてくださった皆さまには申し訳ありませんでした。3日ぶりのローズンゲン黙想となりますが、聖書の言葉から、生きる励みを今日も得てまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「正しさ」という言葉です。しかし、その正しさとはいったい何か。そのあたりを黙想してみたいと思いました。
 
今日の旧約聖書の言葉であるエゼキエル書33章の一節は、イスラエルの民の主張が描かれています。その主張とは「神である主ヤハウェの歩まれる道は『公正』ではない」というものです。旧約聖書では「公正」と日本語に訳されている言葉の多くは「ミシュパート」というヘブライ語が用いられています。これは神の正義(ヘブライ語でツェダカー)に基づいた「正しい判断」のことを指している言葉であると言えます。
 
しかし、今日の聖句で「公正」と訳されている元の言葉は「ターカン」というヘブライ語が用いられています。このターカンという言葉は「正確に測られた・バランスの取れた」というもともとの意味がありますので、公正でないというイスラエルの民の主張には、神の正義に基づいた判断は不正確であり、バランスが取れておらず、どこかズレているという不平の意味が込められていることが分かります。
 
しかし、エゼキエルは言います。神の思いを正確に受け取ることができない、バランスに欠け神の御心からズレてているのは同胞であるイスラエルの民のほうなのだと。それは神と人間との関係性にゆがみがあり、ひずみがあり、破れがあることを示していると言えるでしょう。そのような関係性の壊れを、聖書では大本の「罪」(いわゆる罪の原理:原罪)という言葉で表現しています。
 
つまり、私たち人間はこの世界にあるあらゆるゆがみや壊れというものを考えるときに「神がおられるのにどうしてこの世界はこんなに悪いのだ」ということを口にしては、その責任を神に押し付けてはいないだろうか、そんなことを考えさせられるのです。こんなに悪い状況を頬っておられる神は無責任だと。では、果たして本当にそうなのでしょうか。
 
私たちは自分のことを棚に上げて、誰かのせいにすることほど楽なことはありません。そうやって私たち人間は大なり小なりバランスを保ちながら生活をしているのです。しかし、自らのあり方というものに目を向けることなく、つねに他者にその責任を着せようとする態度は、それこそバランスに欠けた姿勢なのではないだろうか。私は自戒を込めつつそのように思わされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、後にイスラエル民族の祖となったヤコブとその双子の兄エサウを引き合いに出して、長子であるエサウが家督を継げなかったことは神の不正なのかという問題提起に、ローマの信徒への手紙の筆者であるパウロが答えている箇所です。パウロは他の事例を提示しながら、神の正しさはその「憐れみ」にあるのだということを書きつづっています。それは私たち人間の確固な意志や努力によって、神の正しさを勝ち取るようなものではないのだと。
 
むしろ逆なのです。神の思いをストレートに受け取ることのできない私たちに、神の正しさが憐れみをもって臨むときに、私たちは神の正しさによってその関係性を確固なものにさせてもらえるのだということを、今日のふたつの聖句は伝えているのだと私は受け止めました。自分自身に与えられた責務とは、そのような神の正しさによって誠実に歩むことなのだと。
 
今日の一日が、そのような公正によって祝されたときでありますように。お祈りします。

06/05/2025

2025.5.6(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書33章13節
遠くにいる者よ、私のなしたことを聞け。
近くにいる者よ、私の力を知れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書11章40節
イエスは、「もし信じるなら、神の栄光を見ると言ったではないか」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて17日目を迎えました。昨日の晴天とは打って変わって曇天の仙台です。今日は午後から本格的な雨も降るとのこと。静かに一日を過ごしたいと思います。ゴールデンウィークの最終日を過ごされる皆さんに、すべての安全がありますようにとお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私は「聞くこと・知ること・見ることの幸い」というものを受け止めたいと思いました。今日は特に、新約聖書・ヨハネによる福音書11章の一節からそのことを黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが彼の友人であり支援者であったマルタに対して語られたものです。そして、その背景にはマルタの兄弟であるラザロが数日前に亡くなったという出来事がありました。すでにその日から4日が経過していました。
 
ラザロの死をイエスが聞いた時に語られた言葉に注目したいと思います。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」(4節)
「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(25~26節)
 
つまり、今日のローズンゲンに示された40節の御言葉は、このイエスの言葉の前提があったからこそ語られたものであることがわかります。つまり、復活という出来事を通して神のみわざというものを聞き、知り、そして見ることができるのだということを、イエスは兄弟の死で嘆き悲しむマルタに向かって一貫して語られたのでした。
 
しかし、マルタは現実的な事実にとらわれてしまうばかり、イエスの言葉が心に入って来なかったのかもしれません。死から4日も経ってしまった墓のなかは異臭で満ちあふれていたことが十分に想定されました。だからこそ、復活という出来事を信じつつも、しかし現実の場に引き戻されると、そのことがどこかに忘れ去られてしまったかのような感覚になってしまったのかもしれません。
 
私たちも往々にしてそういうことがあるのかもしれません。調子のよい時には大いに神を賛美し、神のなさることに心からの同意をもってそこに向かうことができるのです。しかし、自分自身に不幸が訪れたり、災いというものが降りかかってきた途端に、急に現実的なことに引き戻されてしまい、神のみわざなどに望みが持てなくなってしまうのです。
 
しかし、イエスはそのような現実があるにもかかわらず、ただご自分が神から委ねられた務めというものを果たしました。ラザロが墓の中から復活することによって、喜びや神の栄光をたたえる思いもまたよみがえさせられる経験を味わうことができたのでした。私たちはその出来事を、聖書を通して聞き、知り、そして日々の生活のなかでそれを見ることができるのです。復活とは何も死者の復活のことだけを言っているのではありません。生活のあらゆる場面で私たちは再生の喜びというものを味わうことができるならば、それはすべて復活の体験なのです。
 
主のご復活をお祝いするイースターから2週間あまりが過ぎました。復活はイースターの時だけに祝うものではなく、復活の喜びを想い起こすきっかけとしてイースターが与えられているのであって、私たちのすべてが神から与えられた復活体験の日々がここから始まった。今日もその日を迎えることができたのだと私は受け止めて、新しい命の一日を歩みたいと願いたいのです。
 
今日の一日がまた、私たちの復活を聞き、知り、見ることのできる時となりますように。お祈りします。

05/05/2025

2025.5.5(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌3章31~32節
主はとこしえに拒まれることはない。
たとえ苦しみを与えても
豊かな慈しみによって憐れんでくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章63~64節
父親は書き板を持って来させて、「その名はヨハネ」と書いたので、人々は皆不思議に思った。すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて16日目を迎えました。今日も朝から青空のひろがる仙台です。今日は駐車場と会堂を貸し出して、この地域の若い人たちに向けたバーベキューイベントが行われます。この催しに参加する人たちが、とても楽しいひと時を過ごすことができますようにと祈りたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「懲らしめの背後にある慈しみ」であると私は受け止めました。私は個人的にとても難しいテーマのように感じましたが、そこにも大きな意味があると思いました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
懲らしめは何のためにあるのでしょうか。まず言えることは、懲らしめはいたずらに行われるべきではない類の出来事であるということです。そして、人間の怒りのはけ口や権力誇示のために用いてもいけないということです。あまりにもそのような仕方で懲らしめというものが濫用されていますから、私たちはあらためて懲らしめの意味というものを考えなければならないと私は考えています。
 
懲らしめは私たちを憐れみ、慈しむためである。少なくとも聖書で語られている神による懲らしめとは、そのような意味をともなっていることが分かります。母親が子宮のなかで胎盤に支えられながら胎児を守るといったイメージで、旧約聖書の世界に生きる人たちは「憐れみ」という言葉をとらえていたのだそうです。命を守るため、その命を十分な保護のもとに育むために、時には懲らしめというものが神によって人間に向けてなされるのだと言うのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は「哀歌」の一節です。絶対に滅びることがないと信じてやまなかった都エルサレムがいともやすくバビロニア帝国に滅ぼされてしまったときに、はじめて神の民は気付かされました。自分たちは神とともにあると言いながらも、神に背を向けて神とともに歩もうとしなかったということをです。人は痛い目に遭わなければ本当に大切なことになかなか気づけないということは、まさにその通りであると私も自分自身の歩みを振り返っては実感させられるのです。
 
しかし、痛みが痛みのままで終わることは決してないのです。失敗がいつまでも責められ続けることもありません。本当に人は懲らしめの意味と真実を実感したところにこそ、神は必ず憐れみを示してくださるというのです。私たちを慈しんでくださる神が、懲らしめを通して本当に大切なことを私たちに気付かせてくださるのだと。この神のまなざしを、私たちはどのように受け入れることができるのでしょうかということを、ただ考えさせられるのです。
 
洗礼者ヨハネの父親となった祭司ザカリアも、神のなさることを自分自身の限界ゆえに受け入れることができませんでした。神はしばらくの間ザカリアを黙らせました。そうすることによって、ザカリアは沈黙し、神の恵みについて黙考、黙想する時が与えられたのでした。その結果、ザカリアが得た結論は「神がこのような老人にも憐れみと慈しみを示され、子を持つ喜びを与えてくださった」というものでした。懲らしめは人を真実へと導き、ザカリアがそうであったように神を賛美する思いへと促すのだと。
 
世のなかにある懲らしめのすべてが良いものではありません。むしろ悪い懲らしめばかりかもしれません。だからこそ、懲らしめの意味というものをじっくり考えつつ、懲らしめの背後にある憐れみと慈しみを与えられる神とともに生きる幸いを味わうことができますようにと受け止め、今日の一日をも祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一切にも、神である主の守りと祝福が、ともに豊かにありますように。

04/05/2025

2025.5.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章2節
主は私の力、私の盾、私の救いとなられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章51節
主は御腕をもって力を振るい
思い上がる者を追い散らされました。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて15日目を迎えました。そしてイースターから数えて3回目の日曜日を迎えました。今日は全国的に天気があまり良くないとのことですが、ゴールデンウィークでお出かけの皆さんの安全を神が守ってくださいますようにと祈ります。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「神である主の力」であると私は受け止めました。神の力がどのように私たちのいのちに及ぶのだろうか。そんなことを想わされます。
 
今日の旧約聖書・出エジプト15章の冒頭にあるこの賛歌は、エジプト軍の追っ手からイスラエルの民が守られたことを喜ぶものです。「紅海の歌」という通称で愛されている賛歌ですが、自分たちの危機というものを全力で守り抜いてくださった神である主が、私たちとともにおられるということを実感した民たちの、心からあふれる感謝と神をほめたたえる歌がこの場をこだましたことでしょう。
 
同様に、今日の新約聖書であるルカによる福音書1章のこの言葉は、受胎告知を受けた少女マリアが、これから訪れようとしている多くの恐れや困難のなかにあっても、彼女を守り抜いてくださる神がともにおられることを受け入れたゆえに、あふれ出た賛美の言葉であると言えるでしょう。いずれにしても、危機からご自分の愛する者を守り抜く神の力が、豊かに私たちの心に響かせているのです。
 
愛する者を守る力。私たちは力という言葉を聞く時に、力の用い方によってはそれが「諸刃の剣」となることをよく知っています。人を殺すのも力であれば、人の命を生かすのもまた力ゆえのことなのです。それで、今日の聖句で言われている力とは、断然後者のほうであると言えるでしょう。ご自分が愛される者を全力で守り抜く方が、今日も私たちとともにいてくださるのです。神は基本的にこの地に住むすべての人を愛しておられると私は信じたいのです。しかし「愛されている感覚」というものをなかなか得ることのできない人たちというのも、実は結構多いことに気付かされます。
 
ある一本の電話がかかってきました。自分は今までいかに愛されてこなかったかということを滔々(とうとう)とその人は語られました。そして人を信じることができず、ついつい疑ってしまう自分があるのだと、その方は自分自身の姿というものを正直に語っておられました。私はそういう人にこそ、神が全力であなたを愛してくださっているのだということに気付いてほしいということを心から願いました。何かのきっかけでそのような神の愛に込められた力というものを体験してくださることを心から願いつつ。
 
今日から始まる一週間、すべての人に神の善き力が豊かに及びますように。心からお祈りします。

03/05/2025

2025.5.3(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編36節
不当な利益にではなく
あなたの定めに私の心を傾けさせてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テトスへの手紙2章7~8節
あなた自身、良い行いの模範となりなさい。教える際には、高潔で品位を保ち、非難の余地のない健全な言葉を語りなさい。そうすれば、敵対者は、私たちについて何の悪口も言うことができず、恥じ入るでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて14日目を迎えました。そして、今週も最終日を迎えました。世の中はゴールデンウィークの後半期に入り、今日からお休みをされる方々も多いかと思います。どうぞ今日の一日が皆さんにとって素敵な時となりますようにお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して想わされたことですが、私は「神の品格によって私たちの人格が磨き上げられることへの幸い」と受け止めました。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、「テトスへの手紙」の一節です。テトス書はその前に収められている「テモテへの手紙」と並んで、キリストの弟子たちとされ教会へ集められた人々に対して、それらの人々をキリストから預かった者としての務めについて記された勧めの手紙です。伝道者パウロによる勧めの言葉として、これらの手紙が書き記されています。
 
私はそれらの勧めが語られているなかで、「健全な言葉を語りなさい」というところに注目しました。そして、健全な言葉を裏打ちするものとして「高潔で品位を保った」態度であることが記されています。では、高潔さは何か、品位とはどのような品位のことを指すのでしょうか。私はキリストの高潔さであり、キリストの品位であると受け止めました。
 
私たちは道徳的に高潔であることとか、上品に振舞うということが宗教的な努力目標として考えることできるかもしれませんが、それが「何に基づいているのか」というところを明確にしておかなければならないと私は思うのです。それが私たちにとってはキリストに他ならないということなのです。キリストが私たちのために何を思い、どのように感じられてご自分の言葉を私たちに与えられたのかということが私たちの言動の基本となるのだと。そのために、キリストは私たちの基盤・土台となってくださいました。
 
私たちがキリストを土台とした言葉を、キリストの高潔さ、キリストの品格によって健全に語るところに誠実であるならば、敵対者すら太刀打ちできないのだということが語られています。それは語る者の強さではありません。語る者のオリジナルな高潔さや品位でもありません。キリストの誠実さを前にしては、誰もその前に黙らざるを得ないということなのです。ですから、私たちは誰かに好戦的かつ挑戦的に何かをひけらかすのではなく、ただキリストが示された高潔さと品位によって生きることができるならば、そこには幸いがおのずとあふれてくるのだろうということを受け止めたいと思ったのです。
 
そのことをもってこの一週間を振り返りつつ、明日への備えをしてまいりたいと思います。皆さんにとってのこの一日も、主にあって健やかでありますように。重ねてお祈りします。