21/07/2026

2026.7.21(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書66章10節
エルサレムと共に喜び祝い、
彼女のことで喜び躍れ。
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に大いに喜べ
彼女のために嘆いていたすべての人よ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37節
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
日本では夏の三連休が終わり、日常に戻られた方も多くあるかと思います。酷暑と言われるなかですが、どうぞ健康が守られるように、お祈りします。私が働く仙台宮城野教会では、おととい昨日と、年に一度の「教会修養会」が持たれました。普段じっくりと学ぶことができない聖書の言葉に、耳と心を傾けつつ、参加者との良い交わりが与えられて、本当に感謝でした。気持ち新たに、教会の新しい歩みを神の助けによって踏んでまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「賛美」についてでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書でも旧約聖書でも語られているのは、神の人間に対する愛や慈しみが込められたその「みわざ」に対して、私たち人間の喜びであるとか感謝が、私たちを感謝へと駆り立て、その表現方法として、賛美が豊かに用いられるということです。
 
私たちは、その賛美を、音楽というかたちを通して、表現することが多くあるでしょう。別に賛美は歌の方法を通してでなくても、行うことのできるものです。嬉しい気持ちを神に向けることができれば、そのすべてが賛美であるからです。しかし、私たちが賛美と言えば、それはしばしば音楽のかたちを通して明らかにされるのです。
 
私たちが誰でも、賛美の歌を歌えるようになったのは、宗教改革以後、約500年の歴史があると言われています。それまでは賛美の歌があっても、それはごく限られた役割をもった者たちによって歌われてきたのが、キリスト教の歴史であったと言われています。それだけ、賛美は私たちにとって近いものとなりました。
 
昨日、私たちの教会修養会でテーマのひとつとされたのは、「届く言葉で主を礼拝する」というものでした。そのなかで、「賛美歌」をどのように私たちは考えることができるのだろうかということも、テーマのひとつとなりました。届く言葉には、私たちが「意味のわかる言葉をもって主を賛美する」というものが含まれることを、私たちが考える機会となりました。
 
私たちの教会では、1954年に出版された『讃美歌』を用いていますが、その曲のすべてが文語体によって歌詞がつくられています。音韻の美しさもさることながら、文語が生活言語として用いられていない現在ですから、その意味が呪文のように聞こえると、私は感じ続けてきたわけです。特に、私も含め、文語を生活言語としてこなかった世代にとっては、賛美の本来の意味というものが損なわれてしまうのではないかと思えてならないのです。
 
そのことについて、参加者とともに考えることができました。「慣れ」や「親しみ」、「思い出」などが、私たちの心にしっかりと根付いていますので、なかなか文語の賛美歌から、口語の賛美歌へとスライドしていくことに違和感を覚えるというご意見もあった一方で、未来志向の視点で、新しい賛美をすることの大切さというものが、未来に向かって歩んで行く教会には必要であるという意見もあり、とても良い話し合いの時を持つことができました。
 
礼拝という営みのなかで、私たちがいかに賛美というものについて、考えていくことができるか。私は「賛美の本質」というものを大切にしつつ、その本質が守られたうえで、礼拝に参加する人たちの思いがひとつとされるような賛美歌のあり方を、これからも求め続けていきたいと願わされました。そのことを、今日の聖書の言葉に対する黙想として、つづりたいと思いました。
 
これからも、私たちが主を賛美するという点において、私たちの心が豊かに神によって広げられていきますように。そのことを願いつつ、皆さんの賛美する生活の一切に、神からの守りと祝福を、心からお祈りします。

19/07/2026

2026.7.19(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編8編2節
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章21節
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今日、それぞれの教会や集会で行われる主の日の礼拝が、神の喜びに満ちあふれますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに選ばれた聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐテーマは、「神の怒り」であると私は受け止めました。どの宗教でも、神仏の怒りというものがテーマになることがあります。聖書にも、神の怒りについて触れている部分が数多くあることは、皆さんもご存知の通りであると思います。
 
私たちは「神のかたち」として造られたと聖書にあります。つまり、私たちの性質というものは、神をモデルとしています。私たちも怒ります。その怒りがいろいろなところに向けられるでしょう。世の中に対して、人に対して、そして自分自身にすら怒りが向けられることがあるのです。
 
しかし、ここで考えたいのです。「私たちは神が怒るような仕方で怒っているのだろうか」ということをです。この問いに対する答えは「NO」であると私は感じ、考えています。そもそも怒りというものは、正しいことが正しく機能されていないときに起こる感情であると言って良いでしょう。ただ、その正しさというものが、何に基づいた正しさなのかということを、私たちはよく考える必要があるのです。
 
今日の新約聖書の言葉には「神の義」という言葉が登場します。神の正しさということですが、しばしば、私たちの正しさと神の正しさというものが符合しないことがしばしばあるのです。神の正しさと思い込んでいても、実は自分自身が気持ち良いと思う、自分の思いどおりになるような正しさを、私たちは大切にしてしまうのです。
 
その結果、自分の思いどおりにならないと、いとも簡単に怒りを発してしまいます。そして、その怒りというものがいろいろなところに向けられたときに、関係性がゆがみ、壊れていくのです。この関係性のゆがみこそが「罪」の根源であると言って良いのです。
 
神は、ご自分の怒りというものを、たやすく人間に向けられることはなさいません。かつてはそういうこともありました。しかし、イエス・キリストという、神との関係性において完璧に生きた存在をもって、十字架の犠牲とする「怒り」が、神御自身に向けられたのでした。神はご自分の怒りを自分自身に向けることによって、その正しさというものを行使されたのでした。
 
私たちは、自己正義に生きるものではなく、神の正義によって生きる者とさせられるのです。神の正しさが私たちと神、私たち人間同士、そして私たちと世界をつなぐ、なくてはならないものなのです。この関係性なしには、世界は決して平和になることはありませんし、神の怒りはまさに、ご自分がつくられ、愛されたこの世界のために、いたずらに人に向けられることなく、自分自身に向けられたということを、じっくりと噛みしめたい。これが、私が今日得た黙想でした。
 
今日から始まる七日間の旅路も、そのような神の姿勢に支えられながら、私たちは歩むことができます。どうか、その先駆けとなる今日の一日も、神の正しさを心に染ませながら歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

18/07/2026

2026.7.18(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記5章2節
神は彼らを男と女に創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、人と名付けられた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章10節
相手に敬意をもって丁寧に接しなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
ここ数日、黙想をお届けすることができず、申し訳ありませんでした。今日は今週最後の一日ですが、私は、教会員の方の葬儀を執り行います。心を込めて、神の導きが豊かにあることを心から祈りつつ、一切を司り、慰めと励ましを与えてくださる神の恵みがあふれるような葬儀のひと時となればと願います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「相手に敬意を抱く理由」というものでした。このことについて黙想をつづりたいと思います。
 
相手に敬意を抱く理由。それは、その人を愛情をこめて造られ、命の息吹を与えたのは神だからです。神は人間を創造されたときに「祝福された」と、今日の旧約聖書には記されています。神の祝福が人間に与えられたということは、その祝福が人間同士にあふれることこそ、神が願っておられることなのだということを想わされます。
 
しかし、どうでしょう。人間同士が敬意を持てないことなど、私たちの世界ではざらにあるのではないでしょうか。なぜでしょうか。そこに神はいないからです。どんなに神を信じていると自覚していたとしても、私たちの感情や思考が、神の存在よりも強く、大きなものになってしまうときに、自分の期待通りに動かない相手に対して「敬意が抱けなく」なってしまうのです。誰でも、大なり小なりそういうことはあるものです。
 
誤解を恐れず申し上げれば、そのような状態はもはや、神のみ心に沿っていないことを意味します。神を信じているという言葉すら、空しいものとなってしまうのです。この神から乖離され、空しい状況こそ、私たちが痛感しなければならないことなのだと、私は自戒を込めて思わされるのです。神の祝福を踏みにじっているのですから。
 
しかし、そんな私たちにですら、祝福を注ぎ続けておられる神がおられるということを、私たちはしっかりと握りしめたいのです。神が祝福された人間であるということをです。
 
この世の中は、私たちのゆがみによってさまざまな差し障りというものを生んでいるからこそ、神の祝福を無駄にしない生き方というものが問われているのだと。これが私の今日受け止めたいと思ったことでした。
 
一週間の終わりである今日の一日もまた、神の祝福を心から感謝できるような時となりますように。私たちが神に敬意を払うことが、どのように人に向けられるかを考えることができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

15/07/2026

2026.7.15(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ホセア書11章8~9節
私の心は激しく揺さぶられ
憐れみで胸が熱くなる。
私は神であって、人ではない。
あなたのただ中にあって聖なる者。
怒りをもって臨むことはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書3章16節
神は、その独り子お与えになったほどに、世を愛された。御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
月曜から、日本基督教団教師委員会の仕事で、能登半島にある4つの教会と、そこで働く牧師の先生がたを訪問する機会をいただいています。2年半前の震災以来、つねに試練のなかを歩んでこられている先生方の労苦をあらためて知る機会をいただき、大きな感謝と自分自身の反省を思わされていました。
 
そんなこともあって、昨日は黙想をお届けすることができませんでした。申し訳ありません。今日は少し時間が取れましたので、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、聖書の中心とも言えるものであることは、皆さんもご存知のことと思います。神はご自身の独り子であるイエスをキリスト(救い主)としてお与えくださるほどに、ご自分がつくられた世界を深く愛されたとあります。この言葉こそ、聖書の中心・キリスト教の中核をなす言葉と言って間違いないでしょう。
 
しかし、このあまりにも有名過ぎる言葉の土台にあるものが何かについて、いちいち深く考える機会があっただろうかと、あらためて思わされました。当たり前すぎてそれを当然と受け止めれば受け止めるほど、そのような感覚を抱いてしまう私自身に気付かされたのでした。
 
今日のローズンゲンに選ばれたのは、ホセア書の一節です。そこに、神の人間に対する深い思いというものが、神によって語られています。「私の心は激しく揺さぶられ/憐れみで胸が熱くなる。」というものです。激しく揺さぶられる心をもって、私たちを憐れみのなかに招き入れてくださるというのです。
 
私たちは何度も何度も、神に逆らっては、さも自分自身が神であるかのように生きてしまうのです。神に愛想突かされてもおかしくないなかにあっても、神がご自身の心が激しく揺さぶられるほどに、私たち一人ひとりを愛される。神は決して安定のなかで私たちを愛しておられるわけではないのです。非常に衝撃的なかたちで、私たちにご自分の愛を示されたのです。
 
私たちは、そのような情熱的な神によって今日も生かされています。苦しみのなかにあっても、私たちを慈しんでくださる神によって守られていることへの感謝を、今日一日の糧として私たちは生きたいと心から願います。どうか今日の一日が、情熱的に愛してくださる神の御手に守られながら生きることができますように。平安を祈ります。

13/07/2026

2026.7.13(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編98編9節
主は来られる、地を裁くために。
主は義によって世界を裁き
もろもろの民を公平に裁かれる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章30節
(イエスの言葉)私の裁きは正しい。それは、私が自分の意志ではなく、私をお遣わしになった方のみ心を求めているからである。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに選ばれたふたつの聖句に共通するテーマは「裁き」でした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
「死後裁きにあう」
いわゆる「キリスト看板」と呼ばれるものには、かつてはこのようなフレーズの聖句がよく用いられていたように、私は記憶しています。その看板を作成している団体は、小さなブックレットを発行していて、よく学校の前で配られていました。その中身を見ると、神に従わない者に対しては、まさに阿鼻叫喚ともいえるような地獄絵図が、おどろおどろしく描かれていたことも思い出します。つまり、裁きとはそのようなイメージというものを、私たちに与えるものとして印象付けられているのではないでしょうか。
 
確かに、聖書に描かれている裁きには、そのような一面もある「かも」しれません。しかし、裁きというのは、何も悪を断罪して奈落の底に突き落とすことだけを目的としているのではありません。裁きの指し示す先にあるものは、「神は公平にこの世界を見ておられる」というところにこそ、私たちは関心を寄せるべきなのではないだろうか。私はそう思えてなりません。つまり、神はご自分のみ心によって、不条理を味わっている人が不幸のままに生きることのないように、必ず助けのみ手を差し伸べてくださる。ここにこそ、裁きという言葉の真意があるような気がしてならないのです。
 
神はご自分の正しさ、つまり「義」よって裁かれると、今日の旧約聖書の言葉にもあります。神の正しさは、人間をはじめこの世界を創造されたときに、最高の愛をもってつくられたものすべてを慈しまれたということにあります。その神の目的と実践こそが、神の正しさであるというのです。そして、その正しさが人間との関係をかたちづくり、私たち人間同士の関係性をもかたちづくるというのです。
 
裁きという言葉は「審査する」という意味もあります。どれが本物か、正しいかを見極めることが裁くということなのです。ですから、私たちもまた、何が正しいかということを見極める知恵と眼力というものを神からいただいて、そのために御言葉に聴き祈るという循環が求められているです。私は、今日の聖句からそんなことを黙想しました。少しでも神の正しさにあやかって生きることができますように。そのことが神の望まれる平和へと結び合わされるからです。
 
今日も皆さんの一日がそのような神の愛と正義に導かれますように。心からお祈りします。

12/07/2026

2026.7.12(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書25章4節
主よ、
あなたは弱い者の砦
苦難の中にある貧しい者の砦
豪雨を避ける逃れ場
暑さを避ける日陰となられる。
横暴な者たちの勢いは壁を叩く豪雨

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書2章19~20節
ヘロデが死ぬと、主の天使が、エジプトに入るヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、幼子とその母を連れ、イスラエルの地へ行きなさい。幼子の命を狙っていた人たちは、死んでしまった。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。台風が到来し、豪雨が全国を襲う日々が続いていますが、どうか、この自然の出来事が、少しでも被害を食い止めることができますように。そのことを祈りつつ、今日も世界中で行われる主の日の礼拝が祝福されますように。お祈りします。
 
今日のローズンゲンに選ばれた聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「安全を与えられる神」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
旧約聖書では、しばしば、私たちの神のことを「砦」に例えられています。砦とは、町を守るための城壁のことを指すわけですが、この砦が、町の平和と安全を保証し、私たちはこの砦ゆえに心安らかに生きることができる。その砦こそ、私たちの神なのだ。人々の神に対する信頼にあふれた言葉であることがうかがえます。
 
私たちを苦難から守られる神が、私たちとともにおられる。苦難は容赦なく私たちを襲うことがあるでしょう。豪雨が私たちを襲うようにです。その襲来を前にして、私たちは実に無力な姿が露わにされるのです。どんなに歯を食いしばって頑張っても、自分の思うように危機を乗り越えることができない。たとえ神を信じていたとしてもです。
 
しかし、そんな私たちに、神は何ら変わることなく保証の言葉を与え続けています。苦しみ、痛みを経験したとしても、それでも「砦」でいてくださる方が、私たちをぎりぎりのところで守っていてくださる。このことに私たちを信頼をもって受け入れ、その場を耐えることが大いに許されているのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスの命を狙おうとするユダヤ王ヘロデから身を守るため、神がヨセフ一家をエジプトへ逃げさせます。歳若い夫婦が、生まれたばかりの赤子を連れて、遠い異国の地・エジプトへ逃げるというのは、交通網が充実していなかったこの時代、決して楽なことではありませんでした。
 
しかし、神はその旅路を砦となって十分に守られました。しばらくヨセフ一家は堂々と生きることができませんでした。しかし、そのことで命の危険を究極的なところで味わうことはなかったのです。そして、神はヘロデの死を通して、家族をイスラエルの地に戻されました。それはまるで、神がかつて約束の地にイスラエルの民たちを連れ戻した時のようにです。
 
私たちの今日から始まる七日間の旅路もまた、何が起こるか分かりません。自分自身にとって不本意なこともあるかもしれません。苦しみが増大するようなこともあるでしょう。しかし、そんな時でも、神は必ず私たちの守りとなってくださることを、私たちは安全を希望としながら、生きていくことができる。そのことを胸にして歩みたいと思ったのが、今日の私の黙想でした。
 
そのことを、今日の礼拝を通して感じ取ることができますように。そして、私たちがこの旅程を神とともに歩む幸いを心の糧としながら、その日々を歩むことができますように。皆さんの歩みのために、心からお祈りします。

11/07/2026

2026.7.11(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編46編11節
静まれ、私こそが神であると知れ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書14章33節
舟の中にいた人たちは、「まことに、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。一週間を振り返り、新しい週への備えの時として、今日の一日が神とともに歩む祝福に包まれますように。そのために、今日も御言葉に聴き、そして黙想したいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「静まりのなかで神を知る」であると私は受け止めました。どちらも静まったときに、神を知り、また神に対して信仰を告白したという出来事のなかで、これらの言葉が語られているからです。
 
今日の新約聖書の言葉は、湖上で荒波に翻弄される弟子たちに向かって、イエスが水面を歩いたシーンのなかで語られています。イエスはペトロを招きます。しかし、ペトロは恐れのあまり湖の上を歩くことはできませんでした。心が騒いでいたからです。その後、弟子たちを振り回した荒波もやみ、辺りは静まりました。弟子たちの心のざわつきも静まったことでしょう。
 
私たちの心は騒ぎます。大波であろうと小波であろうと、私たちは不本意なことが起きると心がざわつくのです。不安と恐れに駆られます。神がともにおられるのに、そんなことすら忘れてしまいます。そして、信頼がいつの間にかに消え去り、失われてしまうのです。これが人間の偽らざる姿なのでしょう。神から遠く離された状態、これが「罪」の示す本意なのです。
 
しかし、そのような私たちの心騒ぐ姿を御存知である神が、私たちに静けさを与えてくださる。時には静まれと私たちに訴え、時には私たちが静まれるように神御自身が働いてくださいます。この神の働きによって、私たちはまさに罪の深みから掬(すく)われるのです。救(すく)われるとは、そのような意味から来る言葉なのでしょう。
 
私たちの心をじっくりと眺めたいのです。今、騒いでいないだろうか。ざわつくものを感じていないだろうか。感じているならば、それはごくごく普通なことではあるのですが、そんな状態でい続けることは、心身に良い影響を与えません。早く解放されたいと願うのも当然なことなのです。
 
だからこそ、神は「私を知れ!」と、私たちに語り掛けてくださいました。知るとは心の底から理解することです。そのために祈りと御言葉の循環は私たちに無くてはならないものなのです。その潤滑油として、聖霊が豊かに働いてくださることを、私たちは希望のうちに受け取りたいのです。
 
一週間を振り返る今日のこの日、神をより理解するために与えられた時を用いることができますように。心からそのことを願いつつ、皆さんの一切に、神からの守りと平安を、心からお祈りします。