くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書57章18節
(神の言葉)
私はいつまでも争うことはなく
永遠に怒ることもない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章1節
たとえ罪を犯しても、私たちには御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。シルバーウィークを前にして、しばらくの休みを楽しまれる方もおられるかもしれませんし、訪れようとしている台風への対策をされておられる方もおられると思います。そして、明日の主の日への備えのときを持っておられる方もおられるでしょう。そのすべてに、神の守りがありますことを心から祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉に聴きたいと思います。
神は怒るが赦される方でもある。
その怒りというものは、人を奈落の底に陥れることを目的としたものでは決してないことが、今日の旧約聖書に選ばれた言葉の言わんとしていることなのだと、私は受け止めました。「許せない感情」ということについて、黙想をつづりたいと思います。
私たちは誰でも、許せない感情というものを抱えながら、この世界で生きているのだと思います。聖書に「許しなさい」という言葉がところどころに登場するのは、私たちもよく知っている事でしょう。しかし、私たちはそのような勧めがあるのにもかかわらず、なかなか許せないのです。怒りを抱え込んだまま、人に対してその思いをぶつけようとするのです。
私は、なにもかも有耶無耶(うやむや)にして、ただ無条件に許せばよいとは全く思っていません。さまざまな被害をこうむった方々の悔しさや怒りというものは、ときには正当なものとしてみなされるべきだからです。神もときに怒るくらいですから、怒りということがすべて悪などということはありえないのです。
しかし、私たちはここで考えたいのです。今、私が抱えている怒りは、本当に正当なものなのだろうかと。隣人という他者との関係性のなかで、その関係性を回復すべく、正当で健全な怒りを表現するのであれば、その怒りは正当なものといえるでしょう。しかし、そうでない場合もあるのです。単なるうっぷん晴らし、自分の気の済むまで、人を完膚なきまでに叩きのめすことを目的とする怒りであれば、そのような怒りは空しさしか生まないのだと私は思います。
神は怒ります。しかし、その怒りを永遠のものとしないと語っておられます。あくまで、赦しへと向かうための怒りなのであって、その根底には神の深い愛というものが脈々と流れていることを、今日の旧約聖書の言葉は私たちに伝えているのです。
私たちもまた、自分自身がその神の想いに応えようとしているのだろうかということを、自問自答することはとても大切な営みであると言えるでしょう。許せない感情というものをいつまでも抱えながら、それを人にぶつけ、自分の納得いくまで、その人を叩き潰そうとするならば、どうして、私たちのために罪をかぶって、その命を投げ捨てられた救い主イエスがおられるのでしょうか? そんなことを一週間を振り返る問いとして、今日一日考えていきたいと思わされました。
皆さんにとって、この一日の営みが、神の赦しというものを深く考え、感謝できるような時でありますように。心からお祈りします。