24/01/2026

2026.1.24(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書30章20節
その集いは私の前に揺るぎなく建てられる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章20節
あなたがたは使徒や預言者から成る土台の上に建てられています。その隅の親石はキリスト・イエスご自身です。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この一週間の旅路はいかがだったでしょうか? 七日間を振り返りつつ、新しい週への備えとして、この一日もまた神とともに歩む幸いを感じるときでありますように。ローズンゲンに示された今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通するテーマは「確かな土台」でした。私たちはそのような土台のうえに建てられていれば、たとえ私たちを揺るがす出来事が起きたとしても、それに揺らされながらも、たとえいささかの不安や恐れを感じることがあったとしても、究極的に破壊され、崩れ去ることはないのだということを、神は私たちに伝えようとしているのです。
 
それが、今日の新約聖書の言葉である、エフェソの信徒への手紙のなかでは「隅の親石」と呼ばれているわけです。建物を支えるためには、四隅をしっかりと支える土台の存在は不可欠です。たとえとして適切かどうかはわかりませんが、数年前に熊本を襲った大地震の際に、熊本城の石垣の多くは崩れてしまいます。しかし、四隅の角にあたる石垣だけはしっかりと建物を支えたため、建物の崩壊を免れることができました。「奇跡の一本石垣」と呼ばれ、ときの話題となりました。
 
パウロは、その隅の親石こそ、私たちの命の救い主であるイエス(キリスト・イエス)であると手紙にしたためました。私たちの心身に災いが襲うのは避けることができなくても、そのたびごとに、イエスがしっかりと私たちの心と身体を、聖霊様の守りをもって支えてくださるというのです。こうして私たちは、その守りによって生き抜くことが可能とさせられるのです。
 
そのことはいにしえから、神の言葉を伝え続けてきた預言者などによって受け継がれてきました。今日の旧約聖書の言葉はまさに、預言者であったエレミヤによって語られたものです。ご自分とともに歩む者の足取りがしっかりと守られているのだという神の思いが、エレミヤによって語られました。ひとりだけではない。ひとつの願いによって支えられた人々が、共同体としてその幸いをいただくことができるのだと。エレミヤの時代ならばそれはユダヤの民であったし、現代であれば、キリストによって構成された信仰共同体であると言えるでしょう。
 
今週も神によって守られたことを振り返りつつ、想い起こしながらその恵みを味わい知ることができますように。皆さんを守ってくださる神である主が、今日もそのことを想い起こさせてくださいますように。お祈りします。

23/01/2026

2026.1.23(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記15章18節
主は代々とこしえに治められる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章33節
彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
寒波が全国各地に大雪などをもたらしているなかで、生活の支障をお感じになられている方も多くあることかと思います。仙台は雪の被害こそはありませんが、とても寒い朝を迎えました。体調と健康が今日も守られますようにと祈ります。そして、病中のなかにある皆さんもまた、一日も早く回復しますようにと、心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神による永遠の支配」についてです。そのことの黙想をつづりたいと思います。
 
神が永遠に私たちの世界を統治される、ということへの信仰を神からいただいて、私たちの生きる中心に据えるという営みは、聖書に描かれている歴史を貫いて、大切にされてきたことがわかります。それを心の糧として、希望の源として歩んできた信仰者の歴史というものを、私たちは受け継いできましたし、それを次の世代に継承させるという務めを担っていると言えるでしょう。
 
「信仰の継承」という言葉があります。自分がいただいた信仰のバトンを、いかに自分の後の世代に受け渡すことができるだろうか、という問いがあります。しかし、その問いに応えるべく、信仰を継承させるということが、いかに困難なことであるかということは、継承の当事者としての経験のある方ならば、痛いほどご経験されているのではないかと思うのです。
 
宗教2世問題というものがあります。あまりにも強権的に、たとえそれが真剣さゆえの結果であったとしても、その抑圧的な振る舞いが、継承の受け取り手である2世の思考や行動、人生に悪影響をもたらしてしまうときに、そのような呼ばれ方で問題化していることをご存知かと思います。そういうことを踏まえれば、信仰の継承などと、言葉では簡単に言えるかもしれませんが、その方法も含めて、そのことが決して容易などではないのだということを、私たちに強く認識させているのです。
 
だからこそ、私たちに必要なものとは何か。今日の聖句にある通り、「神が歴史を貫いて、私たちを治められている」ということへの信頼に尽きるのでしょう。神が私たちのために生きて働いておられるということを、私たちがいかに真摯に受け止めていて、その真摯さに裏打ちされた生き方を私たちが大切にしているか、ということが問われています。つまり、信仰を継承するためには、まず自分自身が神のご支配のなかで幸福に生かされているだろうかということが問われているのです。
 
神は、私たちに幸福を与えるために、私たちを治められます。だから、私たちが神とともに歩むということが、幸福と逆行するような思いを抱くような出来事があるならば、その原因がどこにあるのかということを、自分の置かれた状況をじっくりとながめながら、検証することが必要なのだと感じさせられます。だからこそ、自分自身の生き方が問われているということができるでしょう。
 
私は教会という場を通して、神が私たちにご自分の平安を授けてくださることに信頼をもって応えるという務めが与えられていますが、そのためには、自分自身のあり方というものが神のそのような願いを受け取ることへの幸いを、常に確認しながら歩む者でありたいと心から願いますし、そのために謙虚な思いをもって、神の語りかけに謙虚に応えていきたいと、今日の聖句を通してあらためて思わされた次第です。
 
少しでもゆがみなく、自分の務めというものが、神の喜びに裏打ちされたものであることを心の糧として、今日の一日も歩んでまいりたいと思います。皆さんが神の平安によって、少しでも健やかに歩むことができることを願いつつ、祈りつつ歩むことができますように。心からお祈りします、

22/01/2026

2026.1.22(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編107編3,8節
(主は)国々の中から集めてくださった
東から西から、北から南から。
主に感謝せよ。その慈しみと
人の子らになされた奇しき業のゆえに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章12~13節
あなたがたは世にあって希望を持たず、神もなく生きていました。しかし、以前はそのように遠く離れていたあなたがたは、今、キリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
私にとって、昨日はいろいろなことを考えさせられる一日でした。「宗教」とは何だろうか? ということをです。人を幸せにする力もあれば、凶器となっていろいろなものを犠牲にすることもできる。何事も諸刃の剣のようなものを抱えながら、この世界に存在しているのだとは思うのですが、宗教に関しては、私たちの固定観念というものがどうしても、その本質を見るという感覚を鈍らせてしまうのだろうかと痛感しました。昨日地裁判決の出た、安倍晋三元首相銃撃事件の被告をめぐって、この世の中の反応を見て思ったことでした。
 
そのようなことを考えたときに、こうして日々与えられる聖書の言葉を通して、私たちは何を考え、何を思い、何を願い、希望としていくのだろうかということに、我が事として問いかけてみたいと思わされるのです。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が思ったのは「キリストに近くされた者でありたい」ということでした。
 
私たちは「キリスト教」というひとつの宗教の枠内で生きています。キリスト教という宗教が、2000年の歴史のなかで「本当に大切にしてきたこと」とはいったい何なのか? そんなことを考えるときに、上記の「キリストに近くされた者でありたい」ということに生きる希望を置いて生きることに尽きると私は感じていますし、皆さんもそのような憧れというものを抱きながら、自分たちの信仰を大切にしているのではないかと思うのです。
 
キリストに近い者とされるとは、究極的にはキリスト(救い主)であるイエスが指し示してくださった生き方というものを、自分自身の生き方とするということなのだと私は受け止めています。そのことをもっと知りたい、もっと自分自身の生きる柱にしたいからこそ、聖書の言葉にじっくりと聴いて、自分自身のなかで葛藤し、ときには対立し、もがきながらもあこがれることを決して忘れることなく、神から助けていただきながら一歩一歩ずつ歩んでいきたいと。キリストの血をいただいた者としてです。
 
キリストの価値観を自分のものとして生きることの幸い。今日の聖句を通して私の希望としたいと思わされたことでした。宗教が形骸化せず、さして本質でもないことを宝物のように掲げるのでもなく、神が与えてくださる希望に自分自身の心を向けて生きてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神がイエス・キリストを通して与えてくださる希望に満ちあふれることができますように。心からお祈りします。

21/01/2026

2026.1.21(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編42編3節
神に、生ける神に私の魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章6~7節
それで、私たちはいつも安心しています。もっとも、この体を住みかとしている間は、主から離れた身であることも知っています。というのは、私たちは、直接見える姿によらず、信仰によって歩んでいるからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
大寒波が日本を襲っています。そのことによって差しさわりがあると思います。そのようななかで皆さんの安全が守られますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「見えない神を見える神とする」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが人を見るように、神の姿かたち、その表情や声に触れることができたら、どれだけ安心できるだろうか。そのように思うのは私だけではないかもしれません。私たちは誰でも、与えられた五感を通して安心できる部分があるからです。
 
しかし、神をこの世で出会う物事のように、五感で感じ取ることは大変難しいと言えます。だからこそ、私たちには「第六感」、つまり霊的な感覚というものをもって、神を感じ取ることができるのです。これは聖霊の授与と導きによって、私たちはそのような感覚を神からいただき、それを感じ取ることができるのです。こうして、神が私たちとともにおられることを私たちが自分自身のものとすることができるとき、それが「信仰」であり、その信仰によって人生の旅路を神とともに歩むことができるのです。そのことを、使徒パウロは手紙に書きしたためました。
 
物理的に神を見ることができなくても、心配ないのです。安心してくださいとパウロは手紙の読み手に示しました。私たちが生きることに渇きを覚え、神と出会えないことに苦しみを覚えても、神は見えないところで私たちのために働いてくださるというのです。そのことを希望として、私たちはいただくことに何の妨げもないというのが、神がご自分の言葉を通して伝えようとするメッセージなのです。
 
神が見えない、自分の苦しみに応えてくださらない。心配でたまらないときにこそ、聖霊が私たちのために働いてくださいます。私たちの第六感に働きかけてくださいます。そのことを祈り、神に語りかけてみたいと思います。必ずなんらかの形で、神は応えてくださるでしょう。そのことを私たちの希望とすることができますように。私たち一人ひとりの安心が豊かにありますように。心からお祈りします。

20/01/2026

2026.1.20(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
コヘレトの言葉5章6節
夢が多ければ、ますます空しくなり、言葉も多くなる。神を畏れよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二1章16節
私たちが、私たちの主イエス・キリストの力と来臨をあなたがたに知らせるのに、巧みな作り話に従ったのではありません。この私たちが、あの方の威光の目撃者だからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、神が与えてくださったこの一日が、私たちにとって無くてはならないものとなりますように。新しいひとつひとつの出会いに、神が私たちに喜びを与えてくださるものとして、私たちを導いてくださいますように。祈りつつ、今日の聖書の言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私たちの想像を超えて」とおいうものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、コヘレトの言葉(伝道の書)でした。賢人によって書かれたこの書物には、私たち人間の現実と空虚さ、その空しさのなかで神が私たちのことをどのようにご覧になられ、私たちに祝福された人生を与えてくださるかについてつづられています。
 
夢が多ければとあります。夢を持つことそれ自体は、決して悪いものではありません。ここで言及されている夢とは、神が私たちの人生を支え、導き、祝福と幸福をお与えになられる方であるということへの深い信頼をそっちのけにし、ないがしろにして歩もうとする人間の空想や夢想のことを指しています。
 
そのような夢想や空想は、神が与えてくださる言葉を自らのなかから排除して、自分自身の野望を「神」になったかのように饒舌に語るのだという、賢者の観察がつづられているのです。賢者は、私たちの夢や希望というものは、神の指し示されるものを理解しようとする態度、それを胸にして歩もうとする態度があってこそ、はじめて夢や希望が明らかなものとされるのだということを、私たちに知らせているのです。
 
そのことをより明らかにしてくださったのは、神が救い主として与えてくださったイエス・キリストでした。イエスが私たちの生活のただなかに現れたとき、私たちの想像をはるかに超越する出来事を、また私たちの心を超えて多くの希望に満ちふれた言葉を語られました。それらは嘘いつわりなく、確かに私たちの心を平安なものに導いてくださいましたし、それは現在にいたっても、実際に何の変わりもない良いたよりとして、私たちが受け取ることのできるものなのだと、「ペトロの手紙」を記した著者は書き記したのでした。
 
空しくなるような作り話ではなく、主イエスが私たちと、そのお名前をもってともにいてくださる。そのことを胸に抱きつつ、今日も希望にあふれた一日でありますように。心からお祈りします。

19/01/2026

2026.1.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下18章4節
どうかまず主の言葉を伺ってみてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書6章63節
(イエスの言葉)私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週はとても寒くなるという、仙台の天気予報です。本格的に冬らしい冬を迎えるのは、決していやなことではありませんが、それでも何かと健康が損なわれやすい時でもありますので、健康に留意しつつ過ごしてまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「神の御心に聴く」というものです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、歴代誌下18章の言葉ですが、イスラエル王国が南北に分裂してそんなに時が経ってない頃、南イスラエル(ユダ王国)の王であったヨシャファトによって語られたものです。彼は神に忠実な態度を示し、善政を実行した人物として知られています。
 
そのヨシャファトが物事を決める際に大切にしたことは、「私がどう思うか?」ではなく「神である主はどう思われるか?」ということでした。彼はよく知っていました。人間の願望よりも、神の願いのほうが必ず平和をもたらすということをです。人間の判断は時として状況を狂わせ、ゆがみを生じさせます。それによって犠牲を生むことすら往々にしてあるのです。「これこそ神の願いである」と思い違いしたり、場合によっては自分の願望を神の名を借りて、知らず知らずのうちに悪用してしまっていることすらあるのです。
 
だから、私がどう思うかではなく、神がどう思われるのかということに、自分自身の思いや考えを集中させることが必要なのです。そのために、神の言葉である聖書の言葉が私たちに与えられているわけですが、私たちに求められているのは、その本質を見極められるような読み方をすることです。神が送ってくださる聖霊の助けがどうしても必要です。しかし、その聖霊を盾にして、自分自身の願望を神の意思とすり替えてしまうことも往々にしてあるのです。気を付けなければならないことなのです。
 
イエスは言われました。「私の言葉」と。イエスが私たちに示してくださった言動のひとつひとつの本質というものを、私たちは是非大切にしていきたい。これが改めて私が思わされたことであり、黙想でした。
 
今日の一日が、皆さんにとって平和をもたらすものでありますように。心からお祈りします。

18/01/2026

2026.1.18(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書60章17節
(主の言葉)私は平和をあなたの管理者とし、正義をあなたの監督者とする。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙二3節
父なる神と、父の御子イエス・キリストから、恵みと憐れみと平和が、真理と愛の内に、私たちと共にありますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。今日、世界中の教会や集会で行われる主の日の祝祭、礼拝のすべてに、神が私たちに臨んでくださいますように。それぞれの営みを祝福してくださる神に感謝しつつ、今日もローズンゲンに示された神のみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「私にとって平和と正義とは?」です。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者イザヤによって語られた、神がもたらしてくださる新しい世界のおとずれについて描かれたシーンです。そのなかで神は、その世界に住む私たち人間に対して、「管理者」かつ「監督者」を私たちのために置くと仰せになりました。では、管理者とは誰でしょうか? 監督者とは誰のことでしょうか? それが「平和」と「正義」であるというのです。
 
私たちのなかで、平和を愛さない人はいないでしょう。正義を嫌う人もいないでしょう。しかし、自分が愛してやまない平和や正義がどのようなものかということを、私たちはじっくりと考える必要があるのだと思います。人を殺し犠牲を生むことで、平和や正義を実現しようと考えている人たちもいえるのです。これが、本当にイザヤ書で触れられている平和や正義のあり方なのでしょうか?
 
私は、人間の歴史が平和や正義というものを追求するなかで、多くの犠牲というものが確かに存在していたことを思わずにはいられません。平和を愛している、正義の正統性を振りかざしながら、結局のところ、人のことなどお構いもなく自分自身の欲求をまき散らしているだけなのです。そうではないのです。私たちを監督し、管理する平和や正義は、あくまで神由来のものであることを、私たちはどれほど自分自身のものとしているでしょうか?
 
神の平和、そして正義というのですから、それが何かを私たちは知り、そして私の生き方を神が願うような平和と正義があふれるようなものとすることこそ、私たちの健やかな日々へと神が導いてくださるということを受け入れたいのです。
 
そして、それは具体的に、神がイエス・キリストを通して示された「恵みと憐れみと平和、真理と愛」であるというのが、今日の新約聖書の言葉が指し示しているものであるということを、私たちは是非胸にして歩みたいのです。そんなことを黙想しました。
 
皆さんの新しい一週間のスタートが、神の平和と正義に支えられたものでありますように。心からお祈りします。