28/12/2025

2025.12.28(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編133編1,3節
都に上る歌。ダビデの詩。
兄弟が共に住むことは
何という幸せ、何という麗しさ。
主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章14節
「いと高き所には栄光、神にあれ
地には平和、御心に適う人にあれ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は2025年最後の日曜日。世界中で行われる主の日の礼拝が、クリスマスの余韻のなかで祝福に満ちあふれたものでありますようお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「平和な世界」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、クリスマスを代表する聖句と言ってよいものです。あの闇夜に羊飼いたちに対して天使が告げたあの言葉です。「地には平和、御心に適う人にあれ」というものですが、神が私たちにどのような平和を望んでおられるのかということが明確に告げられています。
 
まず、神は「平和」をご自分のものとされ、その平和を愛しておられること。そして、ご自分が造られたこの世界に対して、ご自分の平和が満ちあふれるのを望んでおられること。そして、その平和は「御心に適う」、つまり、神である主の思いや願いを積極的に受け入れ、自分自身の生き方にしようとする人こそ「御心に適う人」であるのだ。そういう人たちにこそ、ご自身の平和が豊かに臨むことを、天使は救い主イエスの誕生とともに告げたのでした。
 
つまり、私たちが本当に平和を心から願い、それを望むのであれば、救い主イエスの生き方に示された平和への姿勢というものを、いかに自分自身の生き方とすることができるのかということにかかっているのだ思わされます。家庭だろうと、地域社会だろうと、教会であろうと、私たちは人と人が集まる共同体のなかで、そのことを誠実に希求し、実践する者でありたいのです。
 
神がどんなにそのことを望んだとしても、私たちがその願いに応えることがなければ、どんなに平和、平和と叫んでも平和が訪れてくることはないのです。そのことを私たちは自分自身の生活のなかでどのように自分自身への課題とすることができるか。クリスマスの晩に語られた言葉は、私たちへの深い示唆というものを与えるものだったのです。
 
私たちが他者と出会うとき、そこにそこはなとない平和を感じ取ることができるのであれば、そこには神が私たちの真ん中に立ち、私たち一人ひとりをご自身の御心をもって導いておられることを、私たちが受け入れているからなのでしょう。そんな思いを抱きつつ、2025年を締めくくりたいと願わされた次第です。
 
私たちの誰にも、神である主の平和が豊かに満ちあふれることを信じ、実践する者でありますように。心よりお祈りします。

27/12/2025

2025.12.27(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編71編16節
わが主よ、私はあなたの力によって進みます。
主よ、ひたすらあなたの正義だけをほめたたえます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一1章24節
ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
2025年も残すところあと5日となりました。そして、明日は今年最後の日曜です。礼拝への良き備えができるよう、今日の一日を大切に過ごしてまいりたいと心から願います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「神の力」です。この言葉について黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書であるコリントの信徒への手紙一1章24節に記されている「神の力」ですが、 
原語であるギリシア語には「デュナミス」という言葉が用いられています。日本語で力と訳すことのできるものですが、この言葉には「潜在力」のような、目には見えないけれど秘められたものとしての力という意味も含まれているのはとても興味深いところです。
 
デュナミスは「ダイナマイト」の語源となった言葉でもあります。見た目には小さなダイナマイトでも、そこから爆発する力は想像を絶するものがあることを私たちはよく知っています。私は神の力というものは、時としてそういう姿を私たちに見せているのではないかと思うのです。神の助けとか力というものが、今の私には何の役に立たない脆弱なものに見えることが私たちにはないでしょうか。とても頼りないのです。神ならばもっと大きな力を見せてほしい。そんなことを私たちはたびたび思うのではないでしょうか。
 
しかし、たとえ目には見えなくても、実際にものすごい腕力を見せることが無かったとしても、私たちはしっかりと支えられているという安心感へと導かれることだってあるのです。コリントへの手紙を書いた使徒パウロは、この神の力こそキリストに現れたのだということを手紙につづっているのです。
 
私たちはクリスマスの時に、赤子のかたちでお生まれになったキリストを見ています。赤子には何の力もないかもしれません。しかし、新しい命の芽生えに私たちは癒され、慰められ、勇気づけられることだってあるのです。そしてこの赤子はやがて、私たちのために力となってくださいました。しかしその姿は、十字架という「弱さの象徴」のなかで見せつけられた神の力に他なりません。しかし、見た目の弱さこそ揺るぎない救いという力となったことは、言うまでもない事実となって私たちに継承されたのでした。
 
そこにこそ、神の力の用い方の正しさ(正義)があり、この正義に導かれて私たちもまた、神の力をいただいて、神とともに歩むことができるのです。今日の旧約聖書である詩編のことばが言わんとしていることです。
 
この神の力によって、今日の一日を過ごすことができますように。主が皆さんを平和へと導き祝してくださいますように。お祈りします。

25/12/2025

2025.12.25(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
哀歌5章21節
主よ、私たちを御もとに立ち帰らせてください。
私たちは立ち帰りたいのです。
私たちの日々を新たにし
昔のようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章11節
今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。そして、救い主イエス・キリストの御降誕を喜ぶクリスマスを迎えることができました。クリスマスおめでとうございます! 皆さんの一切に、クリスマスの喜びがともにあり、神が与えてくださる平安と祝福が豊かにありますように!
 
日本はこれから「正月」に向けて世の中があわただしく動きますが、私がドイツに住んでいた頃は、クリスマスイヴが大晦日の夜のような雰囲気であり、イヴ礼拝が初詣のようであり(いつも教会に行かない方々もこの礼拝には多くいらっしゃいます)、その後の2日間は世の中が休日モードになって、それはまさに「三が日」のような雰囲気でした。それだけクリスマスというのが大切な節目のときであり、「新たに更新される機会」なのだと思わされたのを思い出します。
 
そんなことを想いつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に触れますと、救い主イエスがお生まれになるというのは、この世界に対する神がなされた転換の機会であり、すべてのものを新しくする更新の時だったのだと思わされるのです。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は「哀歌」の一節でした。その文字のとおり「哀しみの歌」なのです。なにゆえの哀しみだったのでしょうか。神との隔絶を味わったがゆえの孤独が、神の民を哀しみへと追いやったのでした。神は私たちとともにいてくださる。神がどんなときでも私たちを守ってくださる。間違いないことです。しかし、神の民たちはその安心感ゆえに、神とともに歩み、生きるという肝心なことを忘れてしまったのです。
 
ですから、彼らの安心感は彼らの気づかない間に「慢心」へと変化してしまいました。その慢心はやがて、自覚のないままに神から離れてしまう経験へと彼らを動かしました。神と隔絶する道を彼らは選び取ってしまいます。まさか自分たちがそうであろうと気づくことのないままにです。そして、そんな彼らに災いが臨みました。神はその時に守ってくださることはありませんでした。彼らの孤独はまさに自業自得の結果でした。
 
彼らの孤独が神のせいではなく、自分たちのこれまでの行いゆえであることを知った民たちは、隔絶された神との関係を回復したいと心から願うようになった。そんな民たちの思いが、今日の哀歌の一節によく表れています。神のもとに立ち帰り、新たな日々を歩みたい。彼らが臨んだのはまさに「自分自身が更新されること」でした。
 
あの闇夜に光輝く天使の大軍があり、そこから聞こえる歌声と宣告。羊飼いたちが見聞きしたその光景はまさに、哀歌に込められた切なる人間の願いに対する神が出された答えでした。あなたがたがそう望むのであれば、私はあなたがたを孤独には決してさせない。あなたがたの日々を更新されるように、世界の救い主をあなたがたに与える。私たちが「神とつながりたい」という思いに、神は間違いなく応えてくださっていることに私たちは改めて気づかされる。クリスマスとはそういう更新の機会なのだということを、私は今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのです。
 
どうか今日の一日が、年末の忙しいなかにあっても良き更新のひとときとなりますように。心からお祈りします。

24/12/2025

2025.12.24(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編89編15節
正義と公正は王座の礎。
慈しみとまことはあなたの前を進みます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章14節
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
 いよいよ今晩からクリスマスが始まります。最近、クリスマスが「非聖書的だ」という方々のご意見がSNSで散見されることがあります。確かに非聖書的と言えば、そのように言える節も無いわけではありません。しかし、世界の救い主の御誕生を心から待ち望んでいた人たちによって、主イエスの誕生を祝い、クリスマスという「文化」が形成されたことは、たとえ非聖書的と言われようとも、極めて「福音的である」と言えるのだと私は思います。そんな思いをもって、クリスマスに臨みたいと思います。今晩7時より、私の働く仙台宮城野教会でもクリスマスイヴ礼拝をおこないます。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに救い主イエスの誕生が私たちに何をもたらしたのかということについて、実にストレートに表現されていると私は受け止めることができました。では、その「何」とはなんでしょうか。それは、今日の旧約聖書の言葉にもありますように「正義」と「公正」、「慈しみ」と「まこと」に他なりません。
 
神が私たちにもたらした正義は、私たち人間を愛するがゆえに、最愛の我が子を私たちのために贈り、その贈り物を私たちのために犠牲にしてしまうほどの、きわめて独り善がりなものであったことは間違いありません。しかし、その独り善がりな態度で誰もが不幸になることはないのです!ここに神の正義というものが、私たちの考える正義というものとはまったく当てはまらないところで働くものであることが理解できるのです。
 
その正義は、誰か特別な者のためにあるのではありません。何の条件もなく、ご自身が造られた人間のすべてに当てはまることを、神は主イエスを通して、その後の歴史において明らかにされました。限定された民族宗教ではないのです!そのことを勘違いしてしまうと、極端な選民意識というものをゆがんだ形で私たち人間が受容し、神のもたらした「公正」とは程遠いかたちで、神の正義という御旗のもとに、私たちは傍若無人に振舞ってしまうのです。そうであってはならないのです。あくまで神は「公正」に私たち人間を取り扱われる方なのです。
 
そして、正義と公正はただ機械的に行われるのではありません。あくまで神が私たちに与えてくださる「慈愛」に基づいて行われます。それは甘えに満ちあふれたものでもなく、相手の幸福を考えない愛でもありません。あくまで私たちが与えられた命をもって健全に歩むことができるように与えてくださる慈しみをともなった愛であるということを、神はイエス・キリストの生涯を通して明らかにしてくださいました。
 
最後に「まこと(真実)」です。それが何のまやかしもごまかしもなく、神のストレートな表現としてイエスをこの世界に降してくださったのです。この真実にこそ、神がクリスマスを通して私たちひとりひとりを「生きる喜び」へと導いてくださる、紛れもない根拠であることを私たちはクリスマスメッセージとして受け取っていきたいのです。今日の新約聖書のことばは、「言(ことば)」である救い主イエスが、肉体のかたちをとって私たちのあいだに宿られたことが記されています。神がご自分の言葉を聖書の言葉にしたためて、私たち一人ひとりがそれを読み、聴くことができるように与えてくださった。まさに、神の言葉こそ救い主イエスなのだという実感へと私たちは導かれるのです。
 
どうか今晩、世界の各地でおこなわれるクリスマスイヴ礼拝、またイヴの祝いのすべてに、そして迎え来るクリスマスの喜びに、私たちひとりひとりの心が和やかなものとなりますように。心からお祈りいたします。

23/12/2025

2025.12.23(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハガイ書2章4節
この地のすべての民よ、強くあれ――主の仰せ。
働け、私はあなたがたと共にいる――万軍の主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二9章6節
惜しんで僅かに蒔く者は、僅かに刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取るのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
暑くなったりと寒くなったりと乱高下を繰り返す最近の天気ですが、そういうときにこそ体調を崩しやすくなるかと思います。どうぞ健康が守られますように。そして、良きクリスマスを迎えることができますようにお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「惜しむことのない生き方」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちが注意深く生きるのはとても大切である。誰もが知っていることです。世の中には、人の好意というものを利用して大切なものまで奪い取ってしまう存在があるからこそ、そういう人たちの犠牲にならないように注意深く生きなさいと教えられてきたのではないでしょうか。まさに昨日の黙想に相通じる話題です。
 
そんなことを考えると、今日の聖句にある「惜しみなく生きる」ということと「注意深く生きる」ことが、一見すると真逆のことを言っているようにも聞こえます。惜しみなく生きる態度が結果として、悪意ある存在に利用されて、その餌食にされてしまうのではないだろうか。私はそんな風にも考えるのです。
 
しかし、私はこのふたつのベクトルは決して矛盾しないものであると考えたいのです。私たちは注意深くありながらも、神の守りのもとで惜しみない生き方というものを営むことができるのだと考えるのです。神に与えられた健康、時間、労力、財産というものを、この世界のために、愛する家族のために、そして自分自身のために、それらを与えてくださった神の栄光のために、私たちは惜しみなく用いることができるのです。
 
そのときに一番気を付けたいと思ったのが、自分自身の「注意深さ」が過ぎてしまうあまり、惜しみない生き方というものにも、過剰な制限をかけてしまおうとする私たちが抱く態度の可能性です。財産を失ってしまうことを恐れて土のなかに金銭を埋めてしまった人のように、そのときに大切にしなければならないのは何なのかということへの判断にくるいやゆがみが生じるときに、私たちは惜しみなく生きるということにストップをかけてしまうのです。
 
今日の聖句である旧約聖書・ハガイ書2章4節の言葉には「私はあなたがたと共にいる」という神なる主の仰せが記されています。つまり、私たちが注意深く生きようとも、惜しみなく生きようとも、その判断の基盤となるのは「神が私たちと共にいられる」ことへの安心感と、その神が、私たちにどのような生き方をすることを望んでおられるのかということへの、深い自覚と認識、その認識にもとづいた判断と決断に他ならないのではないか。私はそのように受け止めたいと思ったのです。
 
神が一緒にいてくださるがゆえに、私は惜しみなく生きることもできるし、注意深く生きることもできる。実にバランスの取れた生活というものを主とともに、主にあって大切にすることができるのだというのです。そのような一日の生活へと導かれますように。お祈りします。

22/12/2025

2025.12.22(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ハバクク書2章6節
ああ、他人のものを増し加える者よ
いつまで続けるのか。
自分の上に重い負債を積み上げる者よ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書16章10節
イエスは言われた。
ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日はクリスマス礼拝を行われた教会も多くあったことかと思います。私の働く仙台宮城野教会も、クリスマス記念礼拝をおこないました。2名のメンバーの方を教会の家族に迎え入れることのできる喜びもいただきました。朝礼拝も夕礼拝ともにクリスマスの喜びをいただくことができました。あとは24日夜のイヴ礼拝を待つのみです。楽しみです。
 
そして、今日は日本語版ローズンゲン(『日々の聖句』)編集の引継ぎのため、今東京へ向かっています。2015年から編集の一端にあずかっていましたが、このたび私は編集の任を終えることにしました。10年間、貴重な編集の仕事に携われたことに、心から感謝するばかりです。なお、この黙想は今後も続けてまいりたいと思います。引き続きよろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「人を利用するな!」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ハバクク書の一節でした。少し意味が分かりにくいかもしれませんので、その説明をしたいと思いますが、「他人のものを増し加える」とは、一見すると良い響きのように聞こえるかもしれませんが、逆のことについて語られています。つまり、他者が大切にしているものを「利用」して、自分自身が得をしようとする態度のことを指した言葉です。つまり「人のふんどしで相撲をとる」という意味でも表現できる言葉なのです。
 
人のふんどしで相撲をとる態度は、他者の大切にしているものを奪い取る行為に等しいものがあります。それは先人の良き遺産を継承するといったことと明確に意味を異ならせます。自分が得をするために、他者の大切なものを踏みにじっても良いと考える態度そのものを、私たちは自覚しているでしょうか。人間ならば誰でも、そのような思いというものをいささかでも持ち合わせているのではないでしょうか。だからこそ、「自分自身には当てはまらない」ではなく、そういう自分自身のうちにある根を見つめ、その根から芽吹かせない自分自身の態度というものが必要なのだと。私はそのように受け止めたいのです。
 
そして、その態度はどのように形成されるのかということを、私たちがじっくりと考え、定めることはより大切なことと言えます。この態度は自分自身のオリジナリティで形成されるものではありません。神がご自分の言葉と行い、イエス・キリストを通して私たちに見せてくださった生涯を通して、私たちは神である主によって自分自身の態度が形成されるということを、決して忘れてはならないのだと。私はそのように思います。
 
小さなことに忠実なものは大きなことにも忠実。イエスによって語られたこの言葉の意味の深さというものを、今一度確かめ、噛みしめたいと思うのです。忠実とは神の思い願いが込められた「御心」を大切にすることによって成立するものです。それを決して我田引水のごとく、曲解して運用してはならないのです。そうすることで、他者を犠牲としてしまうのであれば、それはまさに、本末転倒と言っても言い過ぎではないでしょう。
 
私たちは、自分自身の損得のためにという思いを自覚しながらも、そのような自覚のなかで、神が私たちに教え諭してくださった忠実によって、少しでも歩むことができますようにと心から願い、また祈りたいと思います。皆さんの新しい一日が、そのような忠実によって祝されたものとなりますように。お祈りします。

19/12/2025

2025.12.19(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上2章2節
私たちの神のような岩はほかにありません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙6章1節
主にあって、その大いなる力によって強くありなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
私の頭痛のことで気にかけ、祈ってくださり心から感謝します。今朝は頭痛のない状態で朝を迎えることができました。痛みから解放されるのは本当に嬉しいことです。皆さんのお祈りがとても心強く感じています。重ねてありがとうございます。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「主にあって」という、新約聖書・エフェソの信徒への手紙6章10節の言葉からでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日のローズンゲン(原著)では、日本語聖書の「主にあって」の部分が「主の絆によって(私訳)」と訳されていたのが大変印象的でした。「主にあって」より、より具体的かつ連結・連帯の強さというものが窺える言葉です。
 
新約聖書原文では、この部分は「エン・キュリオー」というギリシア語が用いられています。ここで言う「エン」とは、英語の「in」に相当する言葉と言って良いと思いますが、実にいろいろな意味合いのある言葉です。「~のうちに」「~とともに」「~と一致して」などと日本語に訳すことも可能なのが、ギリシア語の「エン」です。
 
そう考えますと、「主にあって」という言葉には、「主が私の心のうちにいてくださり」とか、「主が私とともにいてくださる」、「主が私とひとつになってくださって」などというニュアンスを、私たちに想像させてくれるものであると私は受け止めました。であるからして、私は神の力によって、この世界を地に足をしっかりとつけて歩み出すことができるのだ!こんな風に、エフェソのこの聖句を聴き取りたいと思ったのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、イスラエルの指導者サムエルの母となったハンナの祈りの一節でした。なかなか子が宿されないハンナが、必死に神に祈る姿に、私たちはハンナがいかに神を「みずからの岩」として、しっかりと私の心を守り、支えてくださる方とみなし、信頼のうちに祈っていたかを見ることができるのです。このハンナのような祈りを、私も神に向けたいと心から思わされました。
 
クリスマスが近づきゆくあるなかで、今日の一日もまた神とともに歩む幸いのうちに私たちのひとりひとりがありますように。お祈りします。