01/09/2025

2025.9.1(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨシュア記23章8節
今日までしてきたように、あなたがたの神、主にのみ付き従わなければならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章25節
ある人たちの習慣に倣って集会をやめたりせず、かえって励まし合いましょう。かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
9月を迎えました。少しずつ秋めいた日々となってくれれば良いのですが、残暑の猛々しさは一向におさまる雰囲気ではなさそうです。とはいえ、仙台の街は朝夕ずいぶん涼しくなり、過ごしやすくうなりました。このひと月もまた、皆さんの健康が守られて、健やかな毎日を神とともに過ごすことができますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンにしめされたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは、「信仰共同体の大切さ」というものです。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、長きにわたるエジプト脱出の日々が終わり、約束の地に招き入れられたイスラエルの民たちが、その土地でさまざまな出来事に遭遇しながらも、時には命の危険すらありながらも、神がこの民を守ってくださったのだという指導者ヨシュアの回想の言葉です。年老いたヨシュアの告別的な言葉の一部として収められている部分です。
 
ここまでイスラエルの民が生き残ることができたのは、彼らの強靭さゆえのことでは決してありませんでした。そうではなくて、実に頼りなく弱弱しい人々を愛し、ご自分の大切な民として守り続けてくださった神がともにおられたからです。民はそのことに気付かなければなりませんでした。でなければ、すぐに自分自身の能力や手柄ゆえのことと勘違いしてしまうからです。
 
こうして神に守られた者たちがともに生きるために、無くてはならない唯一のものは、自分たちの神を「神」とすることでした。自分たちを神とするのではない。神をないがしろにしないことなのです。そのために、ヨシュアは民たちに告げました。神である主ヤハウェにこそつき従いなさいと。神の言葉を自分の心に刻み、その手に握りながら、民たちが互いに励まし合いながら生きなさいということなのです。
 
私たちがこの世界で生きるときに、もちろんそれぞれの「個」が十二分に尊重されてしかるべきです。みんな違ってみんな良いという言葉があるように、それぞれの違いが多様的に存在していることは、とても良いことなのだと私は思います。しかし、そのためには「ひとつの価値観」というものが大切にされることが必要なのだとも思います。そうでないと、多様性が単なるわがままのぶつかり合いになってしまうからです。
 
そこで、少なくとも神によって招かれた私たちは、神とともに歩む共同体であるという意識によって、神の言葉に裏打ちされた価値観によってひとつにされることが絶対不可欠なのです。そこで同じ価値観が存在するからこそ、互いの個性が活かされ、その個性を互いに尊重するところにこそ、多様性というものが大切にされるのです。たとえて言えば、日本国民が日本国憲法という共通の価値観を大切にするからこそ、基本的人権が尊重されるということと一緒なのです。私たちは、神の言葉によって信仰共同体の価値観が形成されて、そこが大切にされるからこそ、神のもとで互いに大切なものを尊重し合いながら生きていくことが可能とさせられるのです。
 
そのことを踏まえて、教会という場について考えたいのです。教会という信仰共同体が、神の価値観によってひとつとされているからこそ、この共同体に組み入れられ、今日の新約聖書の言葉にもありますように、互いに励まし合いながら、あらゆる困難を乗り越えることのできる大きな助けとなっていくのだと私は思いたいし、そう願って教会の営みというものを大切にしていきたいのです。多様性のなかの統一性という、信仰共同体の最も肝とされる部分に心を寄せつつ、今月も歩んでまいりたいと思いました。
 
どうぞ皆さんのこの月の歩みが、そのような共同体のなかで、神によって大いに祝福されますように。心からお祈りします。

31/08/2025

2025.8.31(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編2編12節
幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章12節
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日で8月も最終日となりました。そして8月最後の主日です。
このひと月を振り返りながら、新しい一週間の始まりを迎える者として、今日の一日が良いスタートとなりますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンですが、実は先週日曜日(24日)に、今日のローズンゲンに示された聖句の黙想を掲載してしまいました。完全に私のミスだったのですが、今日はその時の黙想を再掲したいと思います。すでにお読みになられた方も多くおられるかと思いますが、お詫びとともにお付き合いくだされば幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。
 
(以下、再掲文です)
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神の御前に進み出る」ということでした。そのことについて、黙想をつづってみたいと思います。
 
私たちが神の御前に進み出る大前提に、神が私たちのために生きて働いてくださっているという事実があります。それは、私たちが神の御前に近づこうが近づかまいが、神は私たちのためにご自分の言葉と行いをもって、私たち人間を養い続けてくださっていることが聖書全体を通して私たちに伝えられていることです。
 
しかし、どんなに聖書に神のお働きが記されていたとしても、私たちがそのことを心からの実感としないかぎり、私たちは神に近づこうという発想は起きてこないのかもしれません。私たちにとって「神に近づく」とは何でしょうか。礼拝に出席することでしょうか。もちろんそれもあると思います。ただ、私たちが真剣に考えたいことは「礼拝する『心』がどこにあるのか」ということであると私は自戒を込めつつ思わされます。
 
礼拝というのは、神である主と出会うことが明らかにされる機会であり、それは賛美や祈りを通して、また神の言葉をいただきつつ、それをいかに自分自身の生きるために無くてはならない糧とすることができるかというところにこそ、礼拝の魅力や醍醐味というものが存在するのだと思います。神に近づくとは、単に物理的に教会へ足を運ぶことだけではなく、その中身がいかに私にとって必要なものなのかということが、常に問われているような気がするのです。
 
世界中の多くの教会では、日曜日に礼拝が行われることがあります。しかし、この日本においては、日曜日にさまざまな予定がひしめき合っているなかにあって、礼拝に出席し続けることが難しい場合もしばしばあることでしょう。だからこそ、私たちは考えたいのです。私たちの心がどこにあるのかということをです。
 
昔は教会も強気でした。主日礼拝厳守。礼拝に出られないのであれば、それを妨げる要素はすべて排除せよと。牧師が「主日礼拝に出られないような仕事をしているのであれば、そんな仕事など辞めてしまいなさい」などということもよく耳にしたことでした。しかし、今はそんな時代ではありません。そんなことを口にしたら、すぐにハラスメント問題、宗教虐待問題と騒がれてしまいます。
 
しかし、だからと言って「礼拝を大切にする」ということがないがしろにされるべきでもありません。それは強要されることでは決してなく、あくまで礼拝者本人の「判断と決断」の問題であるということなのです。その判断と決断のためには、私たちが常に「神の価値観」というものを身に付けつつ、私自身が神に近づく心というものを養い続けていくことが大切なのだ。今日のふたつの聖句はまさに、そのようなことを黙想させる御言葉だったのではないかと思えてならないのです。
 
今日の礼拝もまた、神が備えてくださいました。その備えに私たちがどのように応答することができるのだろうか。たとえ物理的に礼拝に出席することが叶わなかったとしても、私たちの心を問われる神に近づくことは可能なのです。その思いを大切にすることができますように。皆さんの新しい一週間に、神の守りと平安がともに豊かにありますことを、心からお祈りします。

30/08/2025

2025.8.30(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書38章16節
主よ、
私を健やかにし
どうか私を生かしてくださるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録28章8節
時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日はゆっくりと休んだこともあり、とても快活な朝を迎えることができました。暑い毎日が続きますので、どうか皆さんも健康が守られて、今日の一日を過ごすことができますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神は私たちを健やかにしてくださる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちにとって健康とは何でしょうか。身体的な健康もさることながら、社会的な健康や精神的な健康、あと霊的な健康というものも含まれるのでしょう。どの健康も関連性があり連動性もあるわけです。精神的に健やかでないと感じる時には体調もおだやかでなくなることがしばしばあります。「病は気から」とはよく言ったものです。経済的な不安が気を病ませ、身体をも病ませることもあるでしょう。
 
そのようななかで、私たちは自分自身の健康というものをどのように守り、また保たせることができるのでしょうか。聖書が私たちに伝えていることは、いにしえからの信仰者が大切にしていたのは「私たちの神こそが健やかに命の日々を与えてくださる」というものでした。そのような思いが、今日の聖句の言葉にある通りに抱かせたのでしょう。
 
今日の新約聖書の言葉は、ローマに送られることになった使徒パウロが、難破の末マルタ島にたどり着いたのち、この島で起きた神による奇跡について記された物語です。その出来事は確かに、命の危険に遭遇したパウロを神がしっかりと守り、その神がパウロを通して出会った人々の不安をも癒されていくものでした。この出来事にマルタ島に住む人たちも感嘆し、パウロがあがめる神、そして救い主イエス・キリストをほめたたえるにいたったのです。
 
私たちもさまざまな不安が日々訪れることでしょう。この世界で生きている限り、それらから100%解放されることは難しいのです。しかし、そのような難しさのなかにあっても、私たちの神は、必ずや私たちの命を守ってくださる。そんな希望にあふれたメッセージが聖書の言葉を通して私たちに与えられていくのです。この希望を与えてくださる神に、私たち一人ひとりもまた深い信頼を寄せる者でありたい。今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったことでした。
 
今日で一週間の歩みを終えようとしています。そして、明日からまた新しい一週間がやってきます。その備えの時として、今日の一日もまた、私たちを健やかにしてくださる神がともにおられることを心の柱として、歩んで行くことができますように。心からお祈りします。

29/08/2025

2025.8.29(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書37章16節
万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書1章3節
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今日は朝から体調が思わしくありませんでしたので、ベッドで横になっておりました。休んだおかげで回復してまいりましたので、もう夕方近くになりましたが、今日の務めを始めたいと思います。暑い日々が続きますので、皆さんもお身体の調子が守られますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神がご自分の言葉を行動にされる方」というものです。別な言い方をすれば「有言実行である神」であるかもしれません。そのことをつづりたいと思います。
 
神が天地を創造されたときに「光あれ」という言葉から始まりました。この言葉によって、光が投じられて、秩序のもとに実にクリエイティブな神の行動が次々と起こされます。こうして、世界が調和を保ちながら祝福に満ちあふれた環境が完成していきます。ここに、神の創造の業における土台が建てられていきました。
 
この調和こそ、神が全世界を治められるにあたっての基本理念ですから、この調和にのっとって生きるならば、私たち人間社会も良い意味で創造的な、命が活かされ合えるような環境が生み出されるはずなのです。しかし、今の世界はあまりにも、そのような創造的な環境というものを阻害する要素が多すぎるのです。
 
その理由こそ、神の思いや願いが込められた言葉と私たちの行動が不一致しているからであると私は自戒を込めつつ思わされるのです。いわゆる「言行不一致」の環境こそ、私たちの環境にゆがみを与える元凶であることを、私たちは真摯に受け止めなければならないのだと反省させられるのではないでしょうか。
 
私たちは自分が生きるときに、何を柱にしていけばよいのでしょうか。今日の新約聖書の言葉には、天と地を造られた「言(ことば)」の存在について知らせています。これは、神御自身の行動の源である言葉そのものを表す言葉でもありますが、この福音書を書き記したヨハネは、この言こそ私たちのために命の救い主として遣わされた神の御子であることを示しています。神の御子とはまさに、イエス・キリストその御方に他なりません。
 
そのイエスが神の行いの基となる「言」となられているということは、私たちはイエス・キリストの生涯における言葉と行いを通して、神の調和に満ちあふれた環境を見ることができるのだということが大きな理解の助けになるということなのです。ですから、私たちはイエス・キリストこそ私たちの生きる柱なのだということを、何よりも大切にしたいと心から願いつつ、今日の聖句を受け止めてまいりたいと思ったのです。
 
イエスの言動に聴き、それを自分自身の生き方とする幸いが私たちのあいだに共有されることを、神は大いに助けてくださる。そんな思いをもって、今日の残りの時間と明日への備えの時となりますように。お祈りします。

28/08/2025

2025.8.28(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書62章3節
あなたは主の手の中で誉れある冠となり
神の手のひらの上で王冠となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書14章10節
招待を受けたら、末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『友よ、もっと上席にお進みください』と言うだろう。その時、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨晩、無事に仙台へ戻ってまいりました。せっかくの関西でしたので、もう少しゆっくり過ごしたいという気持ちはあったのですが、少しでも身体を休ませる時期だとも思いましたので、おとなしく帰仙することにしました。今朝もゆっくりと目覚めて、新しい一日を迎えることができて感謝でした。今日から数日間、教会から休暇のときをいただきましたので、休みのひと時を楽しみたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示された聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは「自分で良く見せなくても神は分かっていてくださる」ということについてでした。そのことについて、黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスによって語られたたとえ話の一節です。宴会に招かれたら、最初から上座に座るのではなく、下座に座ることを選びなさいというものでした。日本人にとってこの勧めの言葉は、違和感なくスッと入る言葉であるかもしれません。しかし、私はこうも思います。どんなに謙遜なさまを行動で示したとて、私たちの「心」がそこにともなっているのだろうか、ということをです。
 
イエスはこのたとえ話を通して、「高ぶらなくても良いのだ」ということを教えていると私は受け止めました。どうして人は高ぶるのでしょうか。それは他者からそのように思われたいからかもしれません。人と比較して自分はこんなにすごいんだということを目に見えてアピールするために、私たちは目立つ行動をするのかもしれません。
 
しかし、イエスはそのような人間の行動に対して「そんなことをあえてしなくても、あなたの存在を理解してくださる方がいれば、それでいいのではないですか」ということを問われたかったのではないかと、私はこのたとえ話から聴き取りたいと思ったのです。この場合の理解者とは、私たちの神に他なりません。
 
見た目やこの世の中一般では決して目立つことなく、大した評価も得られないかもしれません。しかし、私たちを守られる神がおられるということによって私たちが安心を得るならば、何も人前で目立たなくても、そういうことをあえてしなかったとしても、その安心感というものを周囲は良いものとして見てくださるのではないかと私は思うのです。
 
人前での評価を気にする前に、主の御前にあって誠実に生きること。これは、今日の旧約聖書の言葉への私たちの応答なのかもしれません。そんな思いを抱きつつ、今日も与えられた一日を神である主とともに歩むことが出来ますように。皆さんの一切が神によって守られ、理解されるなかで、大きな喜びを味わうことができますように。お祈りします。

27/08/2025

2025.8.27(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言3章12節
子をいとおしむ父のように
主は愛する者を懲らしめる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書15章32節
お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。喜び祝うのは当然ではないか。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
月曜から行われていた牧師の研修会もいよいよ最終日となりました。昨日も書きましたが、この研修会に参加される牧師の皆さまから、講師の先生方から、一緒にこの研修会を準備してきた委員会の牧師たちから、大きな刺激を受けています。あらためて牧師としての原点に立たされた思いでいます。とても素敵な三日間を過ごすことができています。今日も家路に着く時までの一切が、神によって守られることをただただ祈るばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「懲らしめ」という言葉についてです。「主は愛する者を懲らしめる」という箴言の言葉を、私たちはどのように受け止め、この言葉に聴くことができるだろうか。そんなことを想いました。
 
懲らしめるという言葉を国語辞典で調べますと「制裁を加えて懲りるようにさせる」(広辞苑)とあります。このようなイメージをこの語に持つ者として、では私たちの神は、果たして私たちに制裁をあえて加えることによって、私たちに懲り懲りとした思いを与えるのだろうかと思ったのです。
 
そのことを考える助けとなるのが、今日の新約聖書の言葉であるルカ15章にある「放蕩息子のたとえ話」と呼ばれるイエスによる話です。親から財産の生前贈与を受けてその財産をすべて遊興のために使い果たしてしまった息子がいました。経済的にも身体的にも心情的にも、彼はとてもみじめな状況に立たされました。この状況を見て、私たちはこの息子に何を思うでしょうか。「自業自得だ」と思うのではないでしょうか。少なくとも私はそのように思うのです。
 
この自己責任を決して神に押し付けることはできないのです。いわゆる「他責思考」ではこの息子にとっては何の解決にもなりませんでした。みじめな状況に立たされることこそ、自分自身の情けなさに向き合わなければならない。これこそ懲らしめに相当する出来事だったのだと私は思います。決して神がいたずらに懲らしめられたわけではありません。自分自身の無力さに立たされた時点で、それは彼にとって十分な懲らしめを想うひと時となったのです。
 
大切なのは、神は自ら制裁を与えるのではなく、人間自身が懲らしめという言葉を自分自身のものとして深く感じることができるようにその人当人を見守ってくださる神がおられるということなのだと私は受け止めたいのです。人が自分自身の無力さに気付かされたときにこそ、神の愛があふれんばかりにその人に注がれるのです。今日の箴言の言葉にしろ、放蕩息子のたとえ話にしろ、その結末はその人を大切に守ってくださる方が、ご自分の愛をもって迫ってくださるということでした。
 
ですから、聖書で物語る懲らしめとは、懲らしめの先にある神の愛を見ることのできるものなのだということなのです。懲役のような上から降りかかってくるものではなく、自分自身の神と向き合う歩みのなかで、自分自身の心に気付かされるものである。そのことを心に刻みつつ、今日の一日を歩みたいと願わされました。
 
皆さんの新しい一日も、神の愛が指し示す豊かさを感じ取る幸いに包まれますように。お祈りします。

26/08/2025

2025.8.26(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編121編5~6節
主はあなたを守る方。
主はあなたの右にいてあなたを覆う陰。
昼、太陽があなたを打つことはなく
夜、月があなたを打つこともない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィレモンへの手紙3節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平和があなたがたにありますように。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日から、私の所属する日本基督教団で開催されている「教師継続研修夏期研修会」に参加しています。私は主催者側としての参加ですが、それでも多くの学びの機会に恵まれています。この研修会に参加している方も、私と同様に教会の現場で牧師として働いておられる先生方です。それら先生との交流もとても楽しく、充実した時を過ごしています。
 
この研修会では、朝と夜にそれぞれ礼拝の時を持っています。今朝の礼拝は私が担当しました。そこで取り次いだ聖書の言葉が、今日のローズンゲンに示された詩編121編でした。そのことについて、以下つづりたいと思います。
 
詩編121編。それは「都へ上る歌」と呼ばれる、一連の詩編群の一部であり、おそらく都上りの歌のなかでもっとも有名な箇所なのだと思います。都上りとは、イスラエルの民たちがエルサレム神殿を目指して行われた巡礼の旅のことでした。それは単に、神殿詣でのことだけを意味しているのではありません。私たちの人生そのものが神と出会う巡礼の旅と言えるでしょう。
 
そのなかで、歌い手は「私の助けはどこから来るのか」と自問しています。この後の部分からも分かるように、私たちにとって巡礼の旅路である人生は、必ずしも順風満帆というわけにいきません。焼き付く太陽の光が容赦なく打ち付け、不気味な月光が私たちを不安へと陥れる。まさに私たちの人生には、災いやそれに対する不安がつねにつきまとっているのです。
 
だからこそ、私を見守り、助け、ともにいてくださる御方が明らかにおられることが、私自身の慰めなのだと。その方こそ、神である主その御方なのだということが、巡礼の旅路の途上にある人々によって歌われたのでした。それは神が生きて働いておられ、私たちのために今日も共にいてくださることに対する深い信頼ゆえに口からほとばしり出た詩だったのです。
 
詩編121編の中心にあるメッセージは「主の守り」です。主の守りとは、ドイツ語でHerrnhut(ヘルンフート)と言います。まさに、ローズンゲン発祥の信仰共同体が集った場こそ、主の守りに包まれ、歩んできたヘルンフート兄弟団でした。彼らの信仰生活も決して順風満帆なものではありませんでした。信仰的な迫害、信仰者同士の不和など、彼らを襲う災いの要素などいくらでもありました。
 
しかし、ある日彼らは気付かされました。自分たちをひとつにするのは、聖霊によって導かれた神の御言葉しかないのだ。これ以来、彼らはその日を生きる「合言葉」として、神の御心を求めるべく、祈ってくじを引き、その日を生きる聖書の言葉とした。これがローズンゲンの起源でした。この営みこそ、彼らを守る神があらゆる災いから遠ざけ、私たちを幸いな者としてくださるのである、と。
 
そんなことを今日のローズンゲンに示された御言葉をもって、その取り次ぎを行いました。今日も私たちの行く道を守られる神が、ともに豊かにおられますように。お祈りします。