22/05/2025

2025.5.22(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編74編21節
主よ、虐げられた人が再び辱められることのないようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書15章25~28節
カナン人の女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、私をお助けください」と言った。イエスが、「子どもたちのパンを取って、小犬たちに投げてやるのはよくない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。でも、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただきます。」そこで、イエスはお答えになった。「女よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」その時、娘の病気は癒やされた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて33日目を迎えました。ここのところ、コンスタントに御言葉の黙想をお届けすることができず申し訳ありません。昨日は脚を怪我した妻を病院へ連れて行き、妻に休んでもらう分家事をしておりました。今朝は教会のメンバーがお亡くなりになり、これから葬儀の準備に入ります。どんな時にも私たちを守ってくださる神がともにおられることに安心しつつ、今日も過ごしてまいりたいと思い、今朝のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神は誰でもご自分とともに生きたいと願う方々を見捨てられることは決してないのだ」ということでした。そして、今日の新約聖書の言葉として選ばれたのは、悪霊にひどく苦しめられてた娘を抱える母親とイエスとの出会いについて書かれた箇所でした。この母親は「カナン人の女」と記されています。いわゆる外国人のことであり、一般的に「救いの外」にある人々とみなされていました。
 
母親はこの娘さんのことで、多くの苦しみを味わったに違いありません。周囲から心無い言葉や態度を示され続けていたかもしれません。だからこそ、何とかしてこの苦しみから解放されたいと心から願ったことでしょう。一縷の望みを込めて、イエスに近づいたに違いありません。必死にイエスに懇願する母親の姿というものを、今日の聖句からも読み取ることができるのです。
 
一見すると、この母親の懇願に対するイエスの反応は「冷たく」感じるかもしれません。それはイエスに与えられた使命について述べるものでした。あくまで救いの対象であるイスラエルの人々だけに遣わされているのだと。そして、カナンの女に対して「小犬」という表現を用います。犬とは当時侮蔑の象徴として用いられていたものですから、ずいぶんな言いようだなと感じることもできるわけです。
 
しかし、それはイエスの「本心」ではないことは明らかでした。母親も決してあきらめませんでした。イエスこそこの苦しみを分かってくださるに違いない。だからこそ、小犬ですら食卓から落ちたパンくずをいただくことができることをイエスに告白しました。主とともにいれば、誰でもその恩恵にあずかることができるのだという心からの願いを、母親である女性は告白するに至ったのです。
 
その母親の「主とともに生きたい」という心を、すぐにイエスは受け取られました。イエスは形式ばかりで動かれるのではなく、本当に大切に思われること、必要とされることのために力を尽くされる方ですから、母親の懇願を叶えられました。かくして娘さんの病は癒されました。癒されたのは娘さんだけではありませんでした。これまで母親が味わってきたさまざまな苦しみすら、イエスは癒してくださったのだと私は思います。
 
虐げられた人々を辱められるようなことはなさらない。それが神の人に対する思いです。この神とともに生きる幸いというものを、今日のふたつの聖句は私に知らせてくれたのだと受け止めることができました。この思いを胸にして今日も歩んでまいりたいと思います。皆さんの新しい一日に、そのような主の守りが豊かにありますように。お祈りします。

20/05/2025

2025.5.20(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
列王記下20章5節
私はあなたの祈りを聞き、あなたの涙を見た。それゆえ、私はあなたを癒やす。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章49~51節
王の役人は、「主よ、子どもが死なないうちに、お出でください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きている。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて31日目を迎えました。今朝もローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、神の御声に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日の聖句を通して受け止めたいと思ったのは「神は私たちとつながっておられることを明らかにしてくださる」というものです。特に、私たちが苦しいと思った時にこそ、私たちがそのような神が一緒におられることを自分自身の望みとすれば、神は決して私たちを孤独にはなされないということです。
 
ユダの王ヒゼキヤがそうでした。ヒゼキヤ王は南北イスラエル王国の歴代の王のなかで、誠実に神とともに歩んだ人物として聖書に収められています。そのような神とともにあったヒゼキヤ王でしたが、彼にも苦しみが襲いました。腫物による病によって命の終わりを宣告されたのでした。どんなに誠実にその日々を歩んだとしても、予期しない苦境というものが私たち人間を襲うということは、往々にしてあることなのです。
 
そのような苦しみの淵に立たされた時、私たちはどうすれば良いのでしょうか。ヒゼキヤ王は神に向かうことを何よりも大切にしました。祈りを通して神に自分の思いを打ち明けました。そして、神につながれているゆえの信頼をもって、神に自らの正直な思いを伝え、そして悲しみ、涙を流して泣き叫びました。そのようなヒゼキヤ王の心からの告白を、神が見捨てるはずがありませんでした。ヒゼキヤに神の慈しみが十分に及んだ時、ヒゼキヤは再び神とともに生きる者として導かれたのでした。
 
私たちは先行き見えない不安、夢も希望も見い出させない状態のなかで、何かに幻滅し苦しむことが往々にしてあるでしょう。神がおられるのに、その神のまなざしが向けられていないと感じることもあるでしょう。何か明確な保証がなければ信じることができないといったこともあるでしょう。今日の新約聖書の言葉に登場する、王の役人がまさにそうでした。自分の息子が死の淵にあったときに、父親はイエスにその場に来て癒して欲しいと必死にイエスに懇願したのでした。
 
しかし、イエスはその場にいようがいまいが、ご自身の誠実さがその子を病から解放させたのです。そこにこそ、私たちを見守り続けてくださる神の信実なのです。その信実をいただいた私たちだからこそ、心からの誠実と信頼をもって、神にいただいた信実を向けることができるのだと。この信実を抱いて生きることゆえの幸いというものを、今日も味わいつつ過ごしたいと願わされました。
 
苦しいからこそ神がすぐ近くにいてくださることに、私たちひとりひとりの心が癒され、神に向かう思いが豊かに与えられますように。今日一日の主にある幸いを心からお祈りします。

19/05/2025

2025.5.19(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下20章12節
私たちには何を行うべきか分からず、ただあなたに目を向けるのみです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書10章2,5節
イエスは十二人の弟子に言われた。「どんな家に入っても、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて30日目を迎えました。そして、ローズンゲン黙想も6日ぶりの再開です。先週は黙想をお届けする時間を取ることがなかなかできませんでした。韓国での研修は私にとってとても実りのあるものでしたが、その分通常のルーティーンをこなすことができず、黙想を楽しみにしてくださっている皆さんへは、大変申し訳ありませんでした。心新たにして、また御言葉の恵みを味わってまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「周りの雑音に囚われ過ぎることのないように」という励ましのメッセージでした。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
皆さんのなかにご存知の方もおられるかと思いますが、SNS界隈では私を揶揄する言動が展開されているのを、私も知るに至っています。私は現在、ある民事訴訟の被告となっています。今裁判が行われている最中ですので、流言飛語にならないように私の方から発言することを極力控えています。しかし、私を非難したいと思っている方々は、SNSでそのことを持ち出しては、揶揄が展開されていると言った具合です。
 
正直申し上げて、揶揄の内容を見聞きすると決して気分の良いものではありません。心中穏やかではありませんし、心がざわめくこともあります。本当に心配してくださっている方々は個人的に声をかけてくださり、その方々には私の思いを直接伝えることができていますが、SNSの情報を通してそのことを知った方々のなかには、私に対する非難の声を直接間接的に聞くことがこれまで多くありました。
 
そのような非難や揶揄といったものに囚われてしまうと、自分自身のなかの判断というものがそういったものに引きずられていくような怖さというものを感じることがあります。自分自身のなかで今大切にしなければならないことはいったい何なのかということを自問する時に、今日の旧約聖書の言葉にもあるように、もう「何をしてよいのかわからなく」なることだってあるわけです。しかし、そういう時こそ危険なのだとつくづく思わされるのです。
 
だからこそ、私はどこに自分自身の視線を向けるべきなのか。揶揄する相手か、人の批判に反論することか、もちろん時にはそういうことも大切でしょう。しかし、私のことをすべてご存知である神がともにおられるということに、私は視線を向けることを周りに振り回されるがゆえに忘れてしまうことがあれば、それこそ、一番大切なものを見失ってしまうのだと思うのです。「ただあなたに目を向けるのみです」という告白の言葉通りに、私に健全な判断を与えてくださる神とともに歩むことにただ誠実でありたい。そのようにあらためて思わされたのでした。
 
そして、神とともに歩む誠実さは、常に「主の平安(シャローム)」を胸当てとして生きることに相通じるのだということです。挑発に対して好戦的に向かうくらいならば、その場を離れて今必要とされている場においてシャロームを示す者として生きていきたい。そんなことを今日のふたつの聖句を通してそのことをしっかりと握りしめて歩みたいと思ったのです。
 
神との関係において誠実であるならば、神は必ず私に大切なことを指し示してくださる。そんなことを希望に、今日も一日を歩んで行きたいと思います。皆さんとともに歩んでくださる神が、今日も皆さんにシャロームを与えてくださいますように。心からお祈りします。

13/05/2025

2025.5.13(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編119編162節
私はあなたの仰せを喜びます
多くの戦利品を見つけた者のように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書13章44節
天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて24日目を迎えました。昨日から私は、カルト宗教対策の学びのために、同じく対策をおこなっておられる方々とともに研修に入りました。初日からとても刺激的なことが多く、これからの4日間とても実り多い日々となるだろうと思い、とても楽しみです。ただ、朝から夜までなかなかハードなスケジュールですので、黙想をお届けできない日もあるかもしれません。その時はどうぞお許しください。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「戦利品/宝」という言葉でした。神が私たちに与えるご自分の価値観は、隠された宝であり、私たちにとって戦利品をゲットしたような大きな喜びを得ることができるのだと、今日の聖句は私たちに知らせているのです。つまり「主の価値観に生きる者の喜び」であると私は受け止めました。
 
昨日、私はかつてカルト宗教に属しておられた方々の経験というものを数名から伺うことができました。ゆがんだ聖書解釈によって人生をもゆがめられた方々が、あらためて教会で福音に触れることによって新しい人生を見い出すことができたとの喜びを伺いました。私はそれらの方々の証しを聞いて、私もかつてはそうだったと大変共感できたのです。「恐れの神から恵みの神へと、神のシルエットが変わった」と、あるカルト経験者はおっしゃっておられたのです。私が今から四半世紀前、そんなことをよく言っていたのを思い出しました。
 
それは、人生にとってまさに「隠された宝」なのだと。神が与えてくださった新しい人生とは、まさに戦利品を得たような喜びがあるのだと。それを神の価値観が示すご自分の言葉が明らかにしていることをあらためて思わされます。それをゆがんだ解釈で人が持たされている大切な宝まで奪い取ってしまうようなことがあるならば、それをなそうとする人間は神にどんな顔を向けたらよいだろうかと、自分自身を顧みながら思わされました。
 
私自身、今日も神の御言葉が与えてくださった宝の喜びを携えつつ、カルト宗教対策の研修の時を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの一日にも、宝のような喜びを携えてくださる神がともにいてくださいますようにお祈りします。

12/05/2025

2025.5.12(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書29章13~14節
心を尽くして私を尋ね求めるならば、私は見いだされる――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章20~22節
すると、十二年間も出血が止まらない女が近寄って来て、後ろからイエスの衣の裾に触れた。「この方の衣に触れさえすれば治していただける」と思ったからである。イエスは振り向いて、この女を見て言われた。「娘よ、元気を出しなさい。あなたの信仰があなたを治した。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて23日目を迎えました。そして、今日から新しいウィークデイの日々が始まりました。私は今日から木曜日の日程である研修に参加するため旅先でローズンゲン黙想をつづりたいと思います。移動時間の関係で、昨日現地に到着しました。私にとってよき研修の時となりますようにと祈りつつ、今日も御言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは「尋ね求めることの幸い」であると私は受け止めました。神に対して尋ね求め続けることが私たちにとっていかに大切な営みなのかということについて、これらの聖書の言葉は深い黙想を与えるものだということに私はあらためて気づかされた次第です。そのことを黙想したいと思います。
 
何かを尋ね求めるという作業は、決して楽なものでないということを私たちはよく知っています。いくら尋ね求めてもなかなか答えが返ってこないということが、私たちの生活のなかでは往々にしてあるからです。どんなに待てど暮らせど、状況が良くならない。やがて途方に暮れ、待ちくたびれてしまうあまり、あきらめてしまうのです。
 
もちろん、私たちが尋ね求めていることが本当に神の御心に沿った、ふさわしいものなのかどうかということを考え続けることは必要であるかもしれません。その探求が極めて独り善がりなものであったり、他者の尊厳を損なってまでなされようとするものであるならば、どんなに尋ね求めても神は自分の思い通りに叶えてはくださらないでしょう。そういう尋ね求め方は自分自身が「神」となるために、神を利用しているに過ぎないわけですから。
 
そうではなく、本当に神が与えてくださった命の尊さを喜べるような結論に達するために、私たちが神に尋ね求めるならば、神は必ずご自分のベストとされるときにお答えになられるとおいうことを、私たちは自分たちの生きる希望とすることができるのだと。そういう意味では、今日の新約聖書の言葉にもあるように、12年間という待ちくたびれても全然おかしくないその時の流れのなかで、出血の病に苦しんでいた女性の命をイエスが憐れみ、慈しんでくださったのです。まさに女性にとって神が与えられたベストタイミングの時でした。
 
私たちはなかなか待てません。苦しいことを味わい続けるのは本当に辛いのです。そのことを独善的な人間が自分の私利私欲を充足させるために苦しみを与え続けるということもあれば、どうしようもない不可抗力によって苦しみ続けなければならないこともあるでしょう。しかし、神はそんな私たちをすべてご存知なうえで、ご自分の言葉と霊の導きによってご自分の民である私たち人間と関わり続けることを望んでおられる。それを私たちの希望としたいと、今日の聖句を通して私は受け止めたいと思ったのです。
 
現実離れした甘い考えであると言われたとしても、希望を捨てないところにこそ必ず神が応えてくださる。そんな思いをもってこの新しい平日の日々を過ごすことができますようにと祈ります。皆さんの新しい日々のために、そして私自身の日々のために。

11/05/2025

2025.5.11(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章15節
盗んではならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章28節
盗みを働く者は、もう盗んではいけません。むしろ、労苦して自らの手で真面目に働き、必要としている人に分け与えることができるようになりなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて22日目を迎えました。イースターから始まって4回目の日曜日を迎えました。今日も世界中の教会や集会で行われる礼拝を通して、神の喜びと祝福が皆さんとともにありますようにと祈りつつ、今日のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「盗み」です。そして、いずれの聖句にも「盗んではならない」という掟であり勧めが私たちに与えられています。私は、神がモーセを通してイスラエルの民たちに与えた十戒の言葉のなかで、この「盗んではならない」という言葉をどのように受け止めることができるのだろうかということについて、その時々において思わされます。
 
盗むという行為は、一般的に言われているような人の物品を相手の承諾なく自分のものにしてしまうことを指すわけですが、盗むという行為がなにも物品だけのことを言っているわけではないということに私たちは注目し、関心を高めてまいりたいのです。つまり、神が私たち一人ひとりに与えられたいのち、尊厳、神にある人権をはじめとするさまざまな権利、関係性、経済、健康、精神衛生、学歴や職歴、社会的地位など、数え上げればきりがないことを思わされるのです。
 
私たちはいかなる理由であれ、そのような人が大切にしているもの、大切にするように与えられているものを奪い取ってはならないのだということに、いつも敏感であるべきなのです。それは単なる人間の倫理的な理由を超越したところに、その根拠を見い出すことが必要なのです。つまり、神が私たちを活かすために必要なことをすべて備えてくださっているという根拠です。それをさも自分自身の努力の結果勝ち取っていると勘違いするからこそ、盗みという結果を生み出すのだと。
 
今日から新しいいのちの一週間が始まります。私たちに神が授けてくださった尊厳を、互いに大切にすることによって、神の栄光のために生きることができますように。

10/05/2025

2025.5.10(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書23章23節
私は近くにいる神なのか――主の仰せ。
遠くにいる神ではないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書15章34節
三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて21日目を迎えました。そして、ゴールデンウィークの最中から始まった一週間も、今日で最終日を迎えました。この一週間にあったことを思い巡らせながら、明日への備えをしつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に思いを寄せたいと思います。
 
今日の聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「私たちが神から見捨てられたような感覚に陥る時にこそ、実は神はすぐそばにおられる」というものでした。私たちは誰でも、神の存在、そしてなさることを信じ、受け止めていたとしても、ちょっとしたことで神から見捨てられたような経験をしたことがあるかもしれません。
 
私はここ数日考えていたことがあります。ある人がついた「嘘」を信じてしまったがために、大きな代償を払わなければならなくなってしまったということについでです。詳しいことを書くのは控えますが、これは実際に私の身に起きたことであって、そのことに真摯に向き合おうと思いながらも、時々そのことで思い苦しむ自分自身があったりするのです。どこに怒りのやり場を向けて良いのか、とてもやるせない気持ちにさせられるのです。
 
お前のついた嘘のせいでこんな目に遭ったんだ。そう思う一方で、だまされた自分が馬鹿だったとも思うわけです。自分のことでこういう言い方をするのはおこがましくはあるのですが「正直者は馬鹿を見る」とはよく言ったものだと思うのです。そういう時に、私はいつも思うのです。神はこの状況をどのようにご覧になられているのだろうかと。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスが十字架上で叫ばれた「私の神よ、私の神よ、どうして私をお見捨てになられたのですか」という、大変有名な聖書の箇所が選ばれています。十字架のうえでただ孤独のなかで神に向けられたこの言葉を聞く時に、イエスは本当に神に対して見捨てられたような感覚を抱いてこのようなことを言われたのだろうかと。
 
私はそうではないと思っています。孤独という現実が実際に人を襲うなかにあって、誰からも見捨てられたような感覚に陥る人間の正直な気持ちというものを、イエスは全人間を代表するかのように叫ばれたのだと私は受け止めたいのです。しかし、神がそう簡単に人間のことを於お見捨てになるはずがありません。どの時代にも、神は人間のことを決して見捨てられるようなことをなさいませんでした。だからこそ、救い主を与えられたのではなかったのか。その救い主を復活を通して、本当に命の救い主にしてくださったのではないか!と。
 
だから、私自身の話に戻れば、こういうつらい時にこそ、神はすぐそばにいてくださって必ず神にとってベストな道というものをもって、私にそのことを示してくださるのだと信じたいのです。その過程で、もちろん自分自身が神に向き合えなかったことを悔やむ思いも与えられるでしょうし、誰も理解してくれないようなことでも、神は理解してくださったのだということに大きな喜びを見い出せるに違いない。とにかく神は決して遠く離されたところにおられる方ではなく、すぐ近くにおられるのだと。
 
だからこそ、自分自身にある状況というものを認めながらも、それよりも大切にしたいのはすぐそばにおられる神と歩むことに誠実でありたいと、今日の聖句を通してあらためて思わされたのでした。今私を悩ませている出来事も、すぐ近くにおられる神がご自分の正しさをもって私に何をすべきかを教えてくださるのだと、希望をもって歩みたいと思いました。
 
明日から新しい一週間が始まります。その日々が神によって祝されることを心から願いつつ、今日の残りの時間を過ごすことが出来ますように。心からお祈りします。