くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記4章7節
もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求める。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章3~4節
イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さんおはようございます。
今週も最終日を迎えました。明日への備えの一日として、皆さんが過ごされる一切に、神がともにおられることの幸いを振り返ることができますように。お祈りします。
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「罪」でした。罪という言葉は、聖書全体を貫く主要テーマのひとつであり、私たちは罪を知ってこそ、人間の姿、人間を造られ、守られる神の姿というものを見ることができるといっても、言い過ぎではないと私は思っています。
しかし、罪という言葉に対する私たちの理解がどのようなものか。このことを私たちはしっかりと見つめ続ける必要があるのだと思わされます。罪という言葉が非常に広い意味で用いられていることもありますし、私たちが暮らしている環境のなかで罪がどのように受容されているかによって、その環境に育まれている私たちの理解は千差万別と言っても良いかもしれません。だからこそ、聖書で語る罪について、私たちはそれを理解することは本当に大切であると言えるでしょう。
聖書で語る罪とは「神と歩調を合わせて歩むことのできない状態」であり、「神を必要としなくても生きていくことができる」という、私たちの意識その一点に尽きます。私たちの神は、人間が神の守りを必要とし、神の思いや願い(御心)に込められた価値観を人間自身の価値観とし、神とともに歩むことを望んでおられます。それが神が計画されている「幸いな道」だからです。
しかし、人間は神から与えられた「自由意思」をそのようには用いませんでした。神は人間に切なる願いを抱きながらも、それを強制執行されたわけではありませんでした。あくまで自由意思を与え、人間が各々の判断と決断によって生きることができるようにされたのでした。そして、人間は神に縛られたくないという「自由」を選択した結果、罪という状態をも同時に抱えることになったのです。何か悪いことをしたから罪なのではなく、そもそも聖書で言う罪という状態を抱えているからこそ、その罪が醸し出すゆがんだ言動が結果を生み出す。この結果こそが、一般的に言われている、目に見える犯罪などの罪であるというのです。
イエスを裏切ったイスカリオテのユダが、罪のない人(イエス)を売り渡したがゆえに罪を犯したということを告白しました。イエスが罪のない人であるという表現は、イエスが徹頭徹尾神の御心を自分の生き方として、一貫して歩んできたことを意味しています。そのイエスを、銀貨三十枚という私利のためにイエスを殺そうとする人たちに売り渡してしまったイスカリオテのユダは自分の利益だけを考えたのです。神がないがしろにされた結果だったのです。ですから、ユダ自身が罪を犯したと告白したのは、究極的にはイエスを裏切り、売り渡したというう行動自体のことではなく、神とともに歩むことよりも自分自身の利欲を優先しようとした意識そのものであったと言えるのです。裏切りはその意識の結果起きたものなのです。
今日の旧約聖書の言葉は、カインが弟アベルを殺してしまったなかで、神から告げられた言葉の一部です。カインがアベルを殺したから罪に定められたこともそうですが、それ以前にカインが神の御心を問うよりも、自分自身の心の内に起きたアベルへの嫉妬心というものが殺人という結果を生み出したのです。この嫉妬心こそ、カインが自分自身の思いを何よりも最優先した紛れもない証拠だったのです。
私たちがあえて罪の状態に自分自身を置くような選択をするのか、それともあくまで神とともに歩もうという選択をするのか。それは私たちに与えられた自由によって自分自身が判断と決断をすることにかかっています。そのなかで、神が聖書を通して私たちに願っておられることを知り、理解できるように助けてくださっている。そのことに私たちが心を寄せつつ、この週の最終日を過ごすことができるようにと祈ります。どうぞ皆さんにとって良き一日となりますように。