25/08/2025

2025.8.25(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記28章2~3節
あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙4章3節
あなたが求めても得られないのは、自分の欲望のままに使おうと、よこしまな思いで求めるからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日はそれぞれの場所で主の日を楽しまれたかと思います。私も朝と夕の2回の礼拝をいただくことができました。先週のこともありましたので、メッセージの準備は万全ではありませんでしたが、それでも礼拝をともにしてくださる教会の皆さんに励まされながら、とても素敵な一週間のスタートを切ることができました。感謝です。
 
そして、今日から水曜までの3日間、私の所属する教団のお仕事で京都に滞在します。久しぶりの京都はやはり暑いです。今、喫茶店からこの黙想をつづっているところですが、まわりには海外からの観光客の方々が多くおられます。是非旅行を満喫してほしいと心から願うばかりです。私は必ずしも体調が万全というわけではありませんが、この3日間ミニマムなところで、しかし心を込めてお務めに当たりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に示されたメッセージは、まさに対極をなすものであると言えるでしょう。私たちがどのような歩みを営むのか。私たちにそれぞれ与えられた自由意思のなかで、自分自身の判断と決断によって選び取っていくわけです。
 
私たちにとって自由とは「~する自由」と「~しない自由」というものがあります。何事もそうです。ですから、私たちが神を知り、神のなされていることを信じる自由もあれば、信じない自由もあるわけです。それは決して誰かから強要されることでは決してありません。
 
しかし、私たちはこうも考えたいのです。私たちはそれぞれに与えられた自由のなかで何かを選び取っていくわけですが、その「結果」がどのようなものとなるのか。その結果が私自身にとって何を意味するのか、私だけではなく他者にとって何をもたらし、どのような影響があるのだろうかということを、私たちは真剣かつ真摯に考えながら、自分自身の自由というものを謳歌していきたいのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、非常に痛烈な言葉であると言えるでしょう。求めても得られないのは、それを我がことのためだけに用いようとするよこしまな思いがあるからだと、この手紙の筆者は書きつづっています。これを「自由」という言葉に置き換えて考えてみることができます。私たちが傍若無人に振る舞い、他者の自由まで奪い取ってしまうような自由を行使しようとするならば、見かけには自由を手にしたように見えても、その先にある者は大変不自由な結果を招くのかもしれません。その自由はとても脆弱で不安定で、ちょっとしたことで崩れ落ちてしまうような自由なのです。それは、これまで自由を勝ち取ろうとした歴史が招く結末が如実に物語っているのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神の言葉に従うならば、どのような状況にあっても祝福されるのだということが記されています。こういう文章を読みますと「結局神に従わなければならないのならば、やはりそれは自由ではないのではないか」と思えることもあるでしょう。しかし、神はそうなることを聖書を通してご自分の言葉で知らせていたとしても、それを信じるか信じないかは、私たち人間の判断と決断にかかっているということなのです。
 
私たち人間の歴史、特に神と向き合う人間の歴史は、進路を選択する自由をめぐっての歴史であり、その結果を見る歴史であると言えるでしょう。そのような歴史のなかで、私たちもまた自分自身に与えられた命の日々のなかで、どのような選択をすることができるのでしょうか。そんなことに心を寄せつつ、新しく与えられた一日を歩むことが出来ますように。皆さんの主にある祝福をお祈りします。

24/08/2025

2025.8.24(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編2編12節
幸いな者、すべて主のもとに逃れる人は。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章12節
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間が始まりました。猛暑が続くなかですが、どうか皆さんの健康が神である主によって守られますように。そして、世界中で行われる主の日の祝祭を通して、神の栄光が物語られて私たちの生きる糧となりますように。心よりお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神の御前に進み出る」ということでした。そのことについて、黙想をつづってみたいと思います。
 
私たちが神の御前に進み出る大前提に、神が私たちのために生きて働いてくださっているという事実があります。それは、私たちが神の御前に近づこうが近づかまいが、神は私たちのためにご自分の言葉と行いをもって、私たち人間を養い続けてくださっていることが聖書全体を通して私たちに伝えられていることです。
 
しかし、どんなに聖書に神のお働きが記されていたとしても、私たちがそのことを心からの実感としないかぎり、私たちは神に近づこうという発想は起きてこないのかもしれません。私たちにとって「神に近づく」とは何でしょうか。礼拝に出席することでしょうか。もちろんそれもあると思います。ただ、私たちが真剣に考えたいことは「礼拝する『心』がどこにあるのか」ということであると私は自戒を込めつつ思わされます。
 
礼拝というのは、神である主と出会うことが明らかにされる機会であり、それは賛美や祈りを通して、また神の言葉をいただきつつ、それをいかに自分自身の生きるために無くてはならない糧とすることができるかというところにこそ、礼拝の魅力や醍醐味というものが存在するのだと思います。神に近づくとは、単に物理的に教会へ足を運ぶことだけではなく、その中身がいかに私にとって必要なものなのかということが、常に問われているような気がするのです。
 
世界中の多くの教会では、日曜日に礼拝が行われることがあります。しかし、この日本においては、日曜日にさまざまな予定がひしめき合っているなかにあって、礼拝に出席し続けることが難しい場合もしばしばあることでしょう。だからこそ、私たちは考えたいのです。私たちの心がどこにあるのかということをです。
 
昔は教会も強気でした。主日礼拝厳守。礼拝に出られないのであれば、それを妨げる要素はすべて排除せよと。牧師が「主日礼拝に出られないような仕事をしているのであれば、そんな仕事など辞めてしまいなさい」などということもよく耳にしたことでした。しかし、今はそんな時代ではありません。そんなことを口にしたら、すぐにハラスメント問題、宗教虐待問題と騒がれてしまいます。
 
しかし、だからと言って「礼拝を大切にする」ということがないがしろにされるべきでもありません。それは強要されることでは決してなく、あくまで礼拝者本人の「判断と決断」の問題であるということなのです。その判断と決断のためには、私たちが常に「神の価値観」というものを身に付けつつ、私自身が神に近づく心というものを養い続けていくことが大切なのだ。今日のふたつの聖句はまさに、そのようなことを黙想させる御言葉だったのではないかと思えてならないのです。
 
今日の礼拝もまた、神が備えてくださいました。その備えに私たちがどのように応答することができるのだろうか。たとえ物理的に礼拝に出席することが叶わなかったとしても、私たちの心を問われる神に近づくことは可能なのです。その思いを大切にすることができますように。皆さんの新しい一週間に、神の守りと平安がともに豊かにありますことを、心からお祈りします。

23/08/2025

2025.8.23(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ43章24~25節
あなたは私のために
あなたの罪で私に労苦させ
あなたの過ちで私を疲れさせた。
私、この私は、私自身のために
あなたの背きの罪を消し去り
あなたの罪を思い起こすことはない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書5章17節
イエスはお答えになった。「私の父は今もなお働いておられる。だから、私も働くのだ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんこんにちは。
まず、皆さんにお祈りくださっていた入院と手術のことですが、無事に手術を終え、木曜日に退院してまいりました。皆さんのお祈りに、心から感謝申し上げます。さっそく張り切って昨日(金曜日)は仕事をしましたが、やはり術後の身体は万全ではなかったようで、今日は先ほどまでベッドで横になっておりました。午後も半ばを過ぎて、明日の準備に取り掛かられなければと思いましたので、遅ればせながらローズンゲンの黙想を最初に行おうと思いました。無理のない限り、黙想をお届けすることが出来る日は、お届けしたいと思っております。引き続きのお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことがありました。それは「神はご自分のために、生きて働いておられるのだ」ということでした。そのことについてつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、預言者イザヤを通して語られた神の言葉です。神がお選びになられたイスラエルの民たちは、ことあるごとに神とともに歩む道をないがしろにしてきたことが聖書に記されています。民たちはもしかしたら、神とともに歩むことをないがしろにしてきたという意識などなかったのかもしれません。しかし、その無自覚さが結果として神との関係が乖離するという結果を生み出してしまったのでした。
 
私も「神を信じています」とか「私はクリスチャンです」という自覚を抱きながらも、本当にその自覚は、神が期待しておられるその思いに沿ったものなのだろうかと、振り返させられることこそが大切な営みなのだとたびたび反省とともに思わされることがあります。前述のイスラエルの民のように、気づいた時にはとんでもなく神から離れている自分自身に気付かされるということも実際にあるからです。
 
私たちは神と直接会話をしたり、その息づかいというものを人と接するように感じ取ることが難しいかもしれません。だからこそ、神の言葉である聖書の言葉に丁寧に向き合い、そこに神の御心がどのようにあるかということに、心を寄せつつ、聖霊の助けをいただきながら、決して独り善がりになることなく、神の御声を聴き続けようとする真摯さというものが求められているのだとつくづく思わされるのです。
 
今日のイザヤ書にある神の声は、私たちのそのような無自覚さのせいで、神御自身が疲れてしまったことが伝えられます。私たちは神を疲れさせているなどということに対して、本当に無自覚な自分自身なのです。しかし、そんな私たちをお選びになった神は、ご自分の責任において私たち人間に、神と向き合う自覚に気付かせ、その自覚を養い育てるために、生きて働いてくださっておられるのです。
 
今日のイザヤ書のなかで、神は「あなたのために」、つまり私たちの罪を赦そうと神は言っておられないことに注目できます。神は「私のために」、つまり神御自身の責任が責任として果たされるために、私たちの罪を赦そうと告げてくださっているのです。この神の誠実さにこそ、私たちが生かされているのだということに、私は深く心を寄せて生きていきたい。そのように思わされた今日の聖句でした。
 
イエスが言われました。父なる神が働いておられるから私も働くのだと。この神の誠実に生かされてこそ、与えられた務めを神の御心とともに、神の助けによって果たしてまいりたいと心から願います。明日から新しい一週間が始まります。どうかその備えの時が、私自身の自覚を高めるひと時となりますように。神のお働きに心から感謝しつつ、皆さんの今日の残りの時にも、大きな守りt祝福がありますように。心からお祈りいたします。

18/08/2025

お知らせ


いつも「ローズンゲン黙想」をお読みくださり、ありがとうございます。

私事ですが、明日(19日)より入院をし、翌20日に心臓のカテーテル術を行います。21日に退院の予定で、短期間の入院ですのでさほど心配はしておりませんが、この間、いつもと違う生活が待ち受けておりますので、とりあえず明日より3日間、黙想をお休みいたします。
 
また元気になって帰ってまいりますので、ひきつづきのお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。皆さんの一切にも、神の守りと平安がありますように。お祈りします。

齋藤 篤

2025.8.18(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ12章4節
もろもろの民にその業を知らせ
その名が崇められていることを告げよ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章19~20節
あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
昨日はそれぞれの教会や集会で、主の日の礼拝を楽しまれたことと思います。私も朝と夜の礼拝、そして午後には代務牧師を務めている教会での礼拝がありました。3回の礼拝はこの酷暑のなかでもありますからなかなかハードなのですが、聖書の言葉から神の語る幸いを告げることのできる喜びはやはり格別なのです。昨日は仙台にあるキリスト教主義学校の生徒さんたちも何名かいらしてくださいました。夏休みの宿題のための来会ですが、年に一回でも一緒に礼拝できることは本当にありがたく、嬉しいものです。去年の夏休みにも来てくださった方が(近所だからでしょうか)今年も来てくださいました。どうぞ素敵な夏休みの終わりを迎えてほしいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、いずれも「神のみわざを告げることへの幸い」を語っている言葉であると私は受け止めました。どうして聖書の言葉を伝えるのか、礼拝で聖書の言葉が語られるのだろうか。もちろん、そこには聖書の学びも含まれていることは間違いありません。しかし、学びは私たちの幸いのためにあるということを、少なくとも語る側が第一に据えていない限り、学びは単なる教養を得るということだけに終わってしまうでしょう。
 
教養を通して、私たちは神がどのような方であるかを知ることができますし、その神が私たちにとって何が幸せへの道なのかということのために、働いていてくださっている。この「みわざ」をひとりでも多くの方々に知ってもらいたいとの願いで礼拝が行われ、聖書の学びや祈りの集会が行われる。これこそ教会の大切な務めなのだと思わされます。
 
私自身、この基本に立ち返って、今週も神のみわざを喜びを携えながら伝えていきたい。そんなことを想わされました。大切な人に神を伝える喜びが、主とともに、皆さんとともにありますように。お祈りします。

17/08/2025

2025.8.17(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編90編10節
私たちのよわいは七十年
健やかであっても八十年。
誇れるものは労苦と災い。
瞬く間に時は過ぎ去り、私たちは飛び去る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙3章10節
私は、キリストとその復活の力を知りたいのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
新しい一週間がやってきました。今日、世界中で祝われる主の日の一切に、そして各地でおこなわれる礼拝や集会のすべてに、神の守りと祝福が豊かにありますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「限りあるからこそ」というものでした。そのことを黙想としてつづってみたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダビデ王によって歌われた詩の一節です。人生の日々は豊かなものであっても、苦しみに満ちあふれていたとしても、その寿命は七十年か八十年。限りあるなかでその人生は過ぎ行くことを、彼自身の人生から感じ取ることのできる現実を歌ったものです。この世界は限りあるもの。無限などというものは存在しないのだと、私たち人間世界の限界というものを知る聖書の言葉として、言い継がれてきました。
 
私たちは「どうせ一度きりの人生だから」という言葉をしばしば用いることがあります。それは人生とは限りのあるものだという環境のなかで、それを当たり前のものとして受容していますから、そのような言葉が口から出るわけですし、そのことに疑いを挟む者など誰もいないのです。おそらくダビデもそのような現実のなかでこの詩を歌ったのでしょう。
 
しかし、ダビデは知っていました。私たちには限りはあるけれど、神は無限のなかで私たち人間とともに生きておられる御方なのだということをです。それは単に、人生八十年という物理的な人生の期間のことだけを述べているのではありません。私たちの感情や思考、行動によって出会うさまざまな出来事のなかで限界を感じることがあっても、私たちの神は無限と永遠のなかで生きておられる方なのだということへの、彼の信仰告白の言葉でもあったのです。
 
失われたものはそう簡単に帰って来ることはありません。しかし、神はご自分の無限のなかで、私たちにそのことを気づかせようとしてくださっている。このことが、後に御子イエス・キリストを通して「復活」という新しい概念を、私たち人間に知らせ、それをイエスの復活を通して実際に人々へ見せてくださったのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、使徒パウロによる手紙の一節です。彼は牢獄のなかにありました。ある意味で言えば夢も希望も失われておかしくない状況のなかで、パウロが手紙につづったのは、イエスの復活についてでした。イエスが私にとってのキリスト(救い主)であること、そのイエスが復活の主であることを「私は知りたい」と、パウロは切望しました。人間の限界ある思いを超えて働く神の永遠に、その神が与えてくださる祝福にあずかりたい。パウロの希望に満ちあふれる姿というものを、ここから読み取ることができるのだと私は思います。
 
私たちの限界があるからこそ、神が私たちのうちに光輝く。そんなことを胸にして、この新しい一週間を歩むことができますようにとお祈りします。私事ですが、今週は火曜から木曜まで心臓のカテーテル治療のため病院へ入院します。この入院と手術がその後を生きる希望となることを第一に置いて、その希望を与えてくださる神へ祈りつつ過ごしてまいりたいと思います。もしできますならば、祈りの片隅に加えてくださいますと大変感謝です。どうぞよろしくお願いいたします。
 
皆さんの新しい一週間に、永遠なる神の守りと平安がともにありますように。お祈りします。

16/08/2025

2025.8.16(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記4章7節
もしあなたが正しいことをしているのなら、顔を上げられるはずではないか。正しいことをしていないのなら、罪が戸口で待ち伏せている。罪はあなたを求める。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章3~4節
イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「私は罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。
今週も最終日を迎えました。明日への備えの一日として、皆さんが過ごされる一切に、神がともにおられることの幸いを振り返ることができますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「罪」でした。罪という言葉は、聖書全体を貫く主要テーマのひとつであり、私たちは罪を知ってこそ、人間の姿、人間を造られ、守られる神の姿というものを見ることができるといっても、言い過ぎではないと私は思っています。
 
しかし、罪という言葉に対する私たちの理解がどのようなものか。このことを私たちはしっかりと見つめ続ける必要があるのだと思わされます。罪という言葉が非常に広い意味で用いられていることもありますし、私たちが暮らしている環境のなかで罪がどのように受容されているかによって、その環境に育まれている私たちの理解は千差万別と言っても良いかもしれません。だからこそ、聖書で語る罪について、私たちはそれを理解することは本当に大切であると言えるでしょう。
 
聖書で語る罪とは「神と歩調を合わせて歩むことのできない状態」であり、「神を必要としなくても生きていくことができる」という、私たちの意識その一点に尽きます。私たちの神は、人間が神の守りを必要とし、神の思いや願い(御心)に込められた価値観を人間自身の価値観とし、神とともに歩むことを望んでおられます。それが神が計画されている「幸いな道」だからです。
 
しかし、人間は神から与えられた「自由意思」をそのようには用いませんでした。神は人間に切なる願いを抱きながらも、それを強制執行されたわけではありませんでした。あくまで自由意思を与え、人間が各々の判断と決断によって生きることができるようにされたのでした。そして、人間は神に縛られたくないという「自由」を選択した結果、罪という状態をも同時に抱えることになったのです。何か悪いことをしたから罪なのではなく、そもそも聖書で言う罪という状態を抱えているからこそ、その罪が醸し出すゆがんだ言動が結果を生み出す。この結果こそが、一般的に言われている、目に見える犯罪などの罪であるというのです。
 
イエスを裏切ったイスカリオテのユダが、罪のない人(イエス)を売り渡したがゆえに罪を犯したということを告白しました。イエスが罪のない人であるという表現は、イエスが徹頭徹尾神の御心を自分の生き方として、一貫して歩んできたことを意味しています。そのイエスを、銀貨三十枚という私利のためにイエスを殺そうとする人たちに売り渡してしまったイスカリオテのユダは自分の利益だけを考えたのです。神がないがしろにされた結果だったのです。ですから、ユダ自身が罪を犯したと告白したのは、究極的にはイエスを裏切り、売り渡したというう行動自体のことではなく、神とともに歩むことよりも自分自身の利欲を優先しようとした意識そのものであったと言えるのです。裏切りはその意識の結果起きたものなのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、カインが弟アベルを殺してしまったなかで、神から告げられた言葉の一部です。カインがアベルを殺したから罪に定められたこともそうですが、それ以前にカインが神の御心を問うよりも、自分自身の心の内に起きたアベルへの嫉妬心というものが殺人という結果を生み出したのです。この嫉妬心こそ、カインが自分自身の思いを何よりも最優先した紛れもない証拠だったのです。
 
私たちがあえて罪の状態に自分自身を置くような選択をするのか、それともあくまで神とともに歩もうという選択をするのか。それは私たちに与えられた自由によって自分自身が判断と決断をすることにかかっています。そのなかで、神が聖書を通して私たちに願っておられることを知り、理解できるように助けてくださっている。そのことに私たちが心を寄せつつ、この週の最終日を過ごすことができるようにと祈ります。どうぞ皆さんにとって良き一日となりますように。