08/07/2026

2026.7.8(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
民数記23章12節
主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書13章34節
(イエスの言葉)あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。あたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日の旧約聖書の言葉は、少し説明が必要かもしれません。そのことを最初に触れてから、今日の黙想をつづりたいと思います。
 
旧約聖書・民数記22~24章に描かれているエピソードに、こんなものがあります。モアブの王バラクが、イスラエルを呪うために預言者バラムを雇いました。しかし神の介入によってバラムは呪うことを許されず、結果的にイスラエルを祝福する言葉を三度も語ることになりました。そのときに、バラクがバラムに対して不快の念を表したときに、バラムが答えた言葉が、今日選ばれた聖書の言葉です。
 
「主が私の口に授けられたことだけを、私は告げるべきではないでしょうか。」バラムのこの言葉には、人を呪う言葉を発することは、神の御心ではないことを断言します。神の御心に適う言葉を、呪いの材料とするのではなく、人を祝福するための道具として私たちは用いることが、何よりも大切だというのです。
 
私はこの聖書の言葉に触れるたびに、ある曲を思い出します。この黙想でも紹介したことのある曲ですが、「ザ・ロマネスク」というユニットが歌った「祝っていた」という曲です。呪おうと思っていても、いくら呪おうとしても祝っていたという内容の歌詞なのですが、まさにこれこそ、バラクとバラムの物語に相通じるものがあるように思えてならないのです。(こちらからお聴きください)。
 
この「祝っていた」のように、なんとなく滑稽な状況だったら良いのですが、しかし、呪いの言葉や人を呪ってしまうような思いにとらわれるようなことがあるとすれば、そんな不幸なことはないのです。人間同士も不幸になるし、何よりも神と人間のあいだにある関係性も不幸なものとなってしまうのです。
 
だからこそ、私たちは、神が私たちに対して何を期待しているのかということに思いと心を寄せつつ、生きることがやはり求められているのです。その点で、今日の新約聖書の言葉にこそ、神の期待がどういうものであるかが、私たちの生き方を問い続ける基盤となるのでしょう。「イエスが私たちを愛したように、私たちが互いに愛し合う」。それは人間の安っぽい愛ではありません。相手を慈しみ続ける神の愛をもって、互いに愛し続けるのです。神の所在なき愛は、呪いをともなうことが往々にしてあることを、私たちは肝に銘じなければならない。これが、私が今日の聖句を通して、受けとめたいと思ったことでした。
 
今日も私たちのひとりひとりが、呪うのではなく祝うということの幸いを噛みしめつつ、神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。

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