くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編34編16節
主の目は正しき人に注がれ
その耳は彼らの叫びを聞く。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書27章19節
ピラトが裁判の席についているとき、その妻が彼のもとに人をやって言わせた。
「あの正しい人に関わらないでください。その方のために私は今日、夢で非常に苦しみました。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
主の日も終わりました。今日から土曜までの週日の日々もまた、皆さんにとって神とともにある生活において、豊かな祝福を感じることのできるものでありますように。そのことを祈りつつ、今日の聖句に心を寄せてまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ」でした。私たちの神の正しさ、そして、その正しさを私たちに示されるために、私たちのもとに神から遣わされた救い主イエスの正しさが、今日の聖句を通して、私たちひとりひとりに与えられています。
私たちは、自分自身の生活において、「正しさ」というものについて、どのようにとらえているでしょうか。私たちは生まれながらにして、正しさというものを身に付けているとは思いますが、しかし、その多くは、私たちが育った環境と出会った人々、影響を受けた物事によって形成されていくのだと私は思っています。その形成されたものが、私たちが生まれながらにして抱いている正しさというものと融合されることで、自分なりの正しさというものへの観念が生まれていくのだと思うのです。
ですから、正しさに対する私たちの思いは千差万別とも言えるでしょう。しかし、この多様性は、良い方向というよりは、むしろ正しさと正しさの衝突を生み、人間関係に亀裂が生じることで、さまざまな差しさわりを生んでいるような気がしてならないのです。この世は大体、「自分が正しい」と思って、その正しさに従って生きています。誰だってそうです。ここで問題になるのは、自分自身の正しさを貫き通すことで、多くの痛みを生じさせる可能性がいくらでもある、ということなのだと私は思います。
今日の聖句は、神の正しさ、イエスの正しさについて、それをめぐる私たち人間がどのように向き合って言ったらよいのかについて、ひとつの示唆というものを与えているような気がしてなりません。「神の正しさを神の正しさとして受け入れ、神の所在なき私の正しさを神の正しさにすり替えない態度」というものこそ、同じ正しさによって、人と人とが生きていくためになくてはならない姿勢なのだと、私はぜひ受け止めたいのです。
そのために、私たちは、聖書の言葉から神の正しさとは何かを学びつつ、その正しさが人の尊厳を奪ったり、傷つけたりしないことをしっかりと心に刻みつつ、出会う人ひとりひとりに接し、その交わりを通して喜びを体験することが大切なのだと思うのです。その過程のなかで、自分自身の正しさというものが、本当に神の正しさを体現したものなのだろうかということについて、自問自答し続けることが、大切な営みなのだと。私は今日の二つの聖句をとおして、そのことを今週のウィークデイを生きるための意識したいこととして、歩んで行きたいとあらためて思わされました。
どうか、皆さんの生活もまた、神の正しさによって生きる幸いというものを豊かに味わうことができますように。心からお祈りします。
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