くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書66章10節
エルサレムと共に喜び祝い、
彼女のことで喜び躍れ。
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に大いに喜べ
彼女のために嘆いていたすべての人よ。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章37節
いよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
日本では夏の三連休が終わり、日常に戻られた方も多くあるかと思います。酷暑と言われるなかですが、どうぞ健康が守られるように、お祈りします。私が働く仙台宮城野教会では、おととい昨日と、年に一度の「教会修養会」が持たれました。普段じっくりと学ぶことができない聖書の言葉に、耳と心を傾けつつ、参加者との良い交わりが与えられて、本当に感謝でした。気持ち新たに、教会の新しい歩みを神の助けによって踏んでまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、今日私が受け止めたいと思ったのは「賛美」についてでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
今日の旧約聖書でも旧約聖書でも語られているのは、神の人間に対する愛や慈しみが込められたその「みわざ」に対して、私たち人間の喜びであるとか感謝が、私たちを感謝へと駆り立て、その表現方法として、賛美が豊かに用いられるということです。
私たちは、その賛美を、音楽というかたちを通して、表現することが多くあるでしょう。別に賛美は歌の方法を通してでなくても、行うことのできるものです。嬉しい気持ちを神に向けることができれば、そのすべてが賛美であるからです。しかし、私たちが賛美と言えば、それはしばしば音楽のかたちを通して明らかにされるのです。
私たちが誰でも、賛美の歌を歌えるようになったのは、宗教改革以後、約500年の歴史があると言われています。それまでは賛美の歌があっても、それはごく限られた役割をもった者たちによって歌われてきたのが、キリスト教の歴史であったと言われています。それだけ、賛美は私たちにとって近いものとなりました。
昨日、私たちの教会修養会でテーマのひとつとされたのは、「届く言葉で主を礼拝する」というものでした。そのなかで、「賛美歌」をどのように私たちは考えることができるのだろうかということも、テーマのひとつとなりました。届く言葉には、私たちが「意味のわかる言葉をもって主を賛美する」というものが含まれることを、私たちが考える機会となりました。
私たちの教会では、1954年に出版された『讃美歌』を用いていますが、その曲のすべてが文語体によって歌詞がつくられています。音韻の美しさもさることながら、文語が生活言語として用いられていない現在ですから、その意味が呪文のように聞こえると、私は感じ続けてきたわけです。特に、私も含め、文語を生活言語としてこなかった世代にとっては、賛美の本来の意味というものが損なわれてしまうのではないかと思えてならないのです。
そのことについて、参加者とともに考えることができました。「慣れ」や「親しみ」、「思い出」などが、私たちの心にしっかりと根付いていますので、なかなか文語の賛美歌から、口語の賛美歌へとスライドしていくことに違和感を覚えるというご意見もあった一方で、未来志向の視点で、新しい賛美をすることの大切さというものが、未来に向かって歩んで行く教会には必要であるという意見もあり、とても良い話し合いの時を持つことができました。
礼拝という営みのなかで、私たちがいかに賛美というものについて、考えていくことができるか。私は「賛美の本質」というものを大切にしつつ、その本質が守られたうえで、礼拝に参加する人たちの思いがひとつとされるような賛美歌のあり方を、これからも求め続けていきたいと願わされました。そのことを、今日の聖書の言葉に対する黙想として、つづりたいと思いました。
これからも、私たちが主を賛美するという点において、私たちの心が豊かに神によって広げられていきますように。そのことを願いつつ、皆さんの賛美する生活の一切に、神からの守りと祝福を、心からお祈りします。
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