くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編8編2節
主よ、怒りに燃えて私を責めず
憤りに任せて懲らしめないでください。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章21節
神は、罪を知らない方を、私たちのために罪となさいました。私たちが、その方にあって神の義となるためです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。今日、それぞれの教会や集会で行われる主の日の礼拝が、神の喜びに満ちあふれますように。そのことを祈りつつ、今日のローズンゲンに選ばれた聖句から黙想を得たいと思います。
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐテーマは、「神の怒り」であると私は受け止めました。どの宗教でも、神仏の怒りというものがテーマになることがあります。聖書にも、神の怒りについて触れている部分が数多くあることは、皆さんもご存知の通りであると思います。
私たちは「神のかたち」として造られたと聖書にあります。つまり、私たちの性質というものは、神をモデルとしています。私たちも怒ります。その怒りがいろいろなところに向けられるでしょう。世の中に対して、人に対して、そして自分自身にすら怒りが向けられることがあるのです。
しかし、ここで考えたいのです。「私たちは神が怒るような仕方で怒っているのだろうか」ということをです。この問いに対する答えは「NO」であると私は感じ、考えています。そもそも怒りというものは、正しいことが正しく機能されていないときに起こる感情であると言って良いでしょう。ただ、その正しさというものが、何に基づいた正しさなのかということを、私たちはよく考える必要があるのです。
今日の新約聖書の言葉には「神の義」という言葉が登場します。神の正しさということですが、しばしば、私たちの正しさと神の正しさというものが符合しないことがしばしばあるのです。神の正しさと思い込んでいても、実は自分自身が気持ち良いと思う、自分の思いどおりになるような正しさを、私たちは大切にしてしまうのです。
その結果、自分の思いどおりにならないと、いとも簡単に怒りを発してしまいます。そして、その怒りというものがいろいろなところに向けられたときに、関係性がゆがみ、壊れていくのです。この関係性のゆがみこそが「罪」の根源であると言って良いのです。
神は、ご自分の怒りというものを、たやすく人間に向けられることはなさいません。かつてはそういうこともありました。しかし、イエス・キリストという、神との関係性において完璧に生きた存在をもって、十字架の犠牲とする「怒り」が、神御自身に向けられたのでした。神はご自分の怒りを自分自身に向けることによって、その正しさというものを行使されたのでした。
私たちは、自己正義に生きるものではなく、神の正義によって生きる者とさせられるのです。神の正しさが私たちと神、私たち人間同士、そして私たちと世界をつなぐ、なくてはならないものなのです。この関係性なしには、世界は決して平和になることはありませんし、神の怒りはまさに、ご自分がつくられ、愛されたこの世界のために、いたずらに人に向けられることなく、自分自身に向けられたということを、じっくりと噛みしめたい。これが、私が今日得た黙想でした。
今日から始まる七日間の旅路も、そのような神の姿勢に支えられながら、私たちは歩むことができます。どうか、その先駆けとなる今日の一日も、神の正しさを心に染ませながら歩むことができますように。皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。
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