03/07/2022

2022.7.3 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編66編16節
神を畏れる人はすべてここに来て、聞け。
神が私に成し遂げてくださったことを語ろう。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ガラテヤの信徒への手紙2章20節
パウロの手紙:
私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自身を献げられた神の子の真実によるものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今週も一週間の始まりを、私たちは迎えることができました。世界中の教会や集会で、主の日の礼拝が執り行われます。そこで、神の言葉、また聖餐がおこなわれることで、神が人間を祝福してくださることが明らかにされます。その祝福を受け取って、私たちは神の喜びを携えて、新しい一週間の旅路のスタートを切ることができます。どうか、世界中のイエスを主と信じるすべての群れと人々に、そのような神の祝福が豊かにありますことを、心からお祈りいたします。
 
神は礼拝を通して、私たちにご自分の祝福と喜びを分け与えてくださる。そのようなことを私たちは信じ、期待して教会に集うことと思います。その期待が期待通りになることを願います。しかし、私たちはそうでないこともあります。重く、苦しいものを抱えながら、教会に行くこともあるでしょう。本当に礼拝を通して、喜びや祝福を味わうことができるのだろうか。そんな思いを持つこともあるでしょう。実に礼拝に集う私たちは、その一人ひとりがさまざまなものを持ち寄っています。
 
その持ち寄った思いというものを、私たちは別に人に明かしたり見せたりしなくても、礼拝に集うことができます。そして「神と私」という関係性をもって、個人的に励まされたり慰められたりすることが可能です。それはそれで良いことです。
 
その一方で、私たちが「一つどころに集うことの意味」というものもまた、確認する者でありたい。今日の聖書の言葉を通して、そんな黙想が与えられました。教会という信仰共同体の場は、私と神という関係性の集合体です。つまり、私たちと神という関係性も成り立つ場であることを、私たちは是非大切にしたいのです。
 
神の祝福や喜びというものがスーッと私たちの思いや心に入る場合もあるでしょう。しかし、とてもそんな気分になれないという場合もあるでしょう。そんなときに、神の御業が語られ、イエス・キリストの真実というものが明らかにされたとき、それを受け取る私たちのなかに、ひとつの思いへと促される。それは「私だけではなく、神の恵みがあの人に同じように届きますように」という「とりなしの心」というものです。
 
教会という場は、私だけのためにあるのではなく、私たちを含む、神が愛しておられるすべての人たちのためにあることを考えれば、礼拝というものも、私だけが恵みを受ける場ではないのだと。互いに祈り合い、神の祝福と喜びに基づいて互いにそれを分かち合うことにこそ、礼拝が礼拝として成立するのだと、改めて考えさせられます。
 
礼拝はどうしても「聖徒の交わり」というものを意識しながら進められることに乏しさというものを感じることが、私のなかにもときどきあったりします。今日の礼拝でも神の言葉が語られ、そして聖餐の食卓を通して互いに同じものをいただきます。それが単なる礼拝儀式ではなく、互いがとりなし合い、喜びを分かち合えるような場でありたいし、その中心に神がそのような祝福をお与えくださっていることを、心から感じとることができる場でありたい。そんなことを心から願いつつ、今日の礼拝に向かいたいと願い、祈ります。
 
どうぞ、私たちが神からいただく今日の礼拝の一切に、そのような豊かさがありますように。世界中の教会・集会の一日のために、そこにかかわるすべての方々のために、お祈りいたします。

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