詩編139編9~10節
暁の翼を駆って、海のかなたに住もうとも
そこでも、あなたの手は私を導き
右の手は私を離さない。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書28章20節より
イエスの言葉:
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の新約聖書の言葉は、マタイによる福音書の一番最後を飾るイエスの言葉です。私は世の終わりまで「いつもあなたがたと共にいる」と、イエスは弟子たちに告げられました。
イエスが生まれるときに、母マリアの婚約者であったヨセフに天使は語ります。その子は「インマヌエル」と呼ばれると。インマヌエル。それは「神は私たちと共におられる」という意味の言葉です。この言葉の通り、イエスはいつまでも、私たちと共にいてくださることを弟子たちに約束されたのでした。
イエスによるインマヌエルの約束というものの原型を、イエスをこの世界に遣わされた父なる神に見ることができるというのが、今日の旧約聖書におけるダビデ王の詩の一片です。たとえ日没の太陽の向こう側に、あなたが翼を広げて行ってしまうことがあろうとも、私の手をしっかりと捕まえて、私と共にあなたはいてくださるのだというこの詩は、まさにインマヌエルそのものであると。
この神との関係性こそ私たちの命を活かす源なのだと、インマヌエルにまつわる今日の聖書の言葉が私の心にしみわたるとき、さてはて私はインマヌエルという言葉をどのように受け止めているのだろうかと黙想させられます。神が共にいてくださるということが、どれだけ私の生きるため励ましとなり、慰めとなっているのだろうかと。
私のことを正直に言えば、自分自身のことで、また人間関係のことで苦しむときに、どうしても私という人間、相手としての人間ばかりに関心が行ってしまうばかり、神が共にいてくださるという思いに導かれることが薄くなっているのではないかと、しばしば気づかされることがあります。つまり、神がインマヌエルと私に語りかけてくださり、導こうとされておられるのに、私自身がそれをはねのけてしまっている場面というのを、幾たびも経験してしまうのです。
もっとインマヌエルの神に、もっと信頼を寄せて生きたい。しかし、自分自身のかたくなさがそれを許さないで拒否してしまう。そんな相反する感情と思いが入り混じってしまうのです。それはある意味、人間が神との関係性を考えるうえで永遠のテーマになるのかもしれません。
しかし、私たちのそのようなアンビバレンスな感情があるにもかかわらず、神は私たちと共にいてくださると約束し続けてくださり、私たちに語りかけてくださっている。私たちをそのみつばさでしっかりと守りながら、私たちの人生をしかるべきところへ導いてくださる。そのことに私は今日の一日も安心を得て生きていきたい。そのように願わされ、祈らされました。
一週間の最終日、この一日が明日という主の日への良い備えの日となりますように。インマヌエルの喜びを心のうちに温めつつ、皆さんおひとりおひとりにとっても、素敵な一日となりますように。お祈りいたします。
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