詩編127編3節より
見よ、子どもたちは主から受け継いだもの。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書9章36~37節
イエスは一人の子どもを連れて来て、彼らの真ん中に立たせ、抱き寄せて言われた。
「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私ではなくて、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の御言葉に触れたときに「ああ、明日だったらドンピシャだったのになあ」と思わされました。日本では明日5月5日はこどもの日。まさにこどもの日にふさわしい聖書の言葉だと思ったからです。
しかし、そのあたりは考えよう。こどもの日を迎えるにあたって、私たちはどのような態度でいることが大切なのかという備えのために、今日の御言葉が与えられたのだと思えばそれで大いに良し!というわけです。ポジティヴシンキングって、本当に大切だなと思わされます。
こどもは、神が与えてくださった贈り物であると歌ったのは、ダビデ王の息子ソロモンでした。自分自身も父ダビデが受けた多くの祝福を受け継ぐ者として、父同様に神から多くの祝福が注がれました。その経験が、彼にこのような歌を歌わせたのだと感じさせられます。
こどもの感覚を排除する世界。ここにはどんなに大人が立派な振る舞いを見せたとしても、そこには何の意味もありません。私たちはどれだけこども、または若い人たちの感覚というものを、自分自身のなかで真剣に受容しているだろうか。そのことは大切な問いであると私は思います。
教会に若い人が来ないと言われて久しい現在ですが、そのことを嘆く前に「どうして来ないのか」ということを、私たちは真剣に考えたことがあるだろうかと、私も自戒を込めて思わされます。若い方々、こども、いや、そういう人たちだからこそ、なんのためらいも無く、イエスのところへ駆け寄ることができる。つまり、ピュアであり、正直だということです。
つまり、行きたいところには行くし、かかわりたいところにはかかわる。それがこどもであり若い人たちです。もし、教会に足を向けない、教会に来ないというのであれば、そこには何かがある。その原因をつくっているのは、実はそのことを嘆いている私たちの態度そのものなのではないかと自省したいのです。
教会という場は、さまざまな世代の人たちが集う場ですから、こどもであろうが大人であろうが、その価値観に優劣はありませんし、どの思いも大切にされてしかるべきです。そのうえで、未来の世界を担うこどもたちを大切にする。父なる神の親心、イエスの心をもって、私たちは自分が育てられるのと同時に、こどもたちを大切にする。そういうところには必ず、こどもや若い人たちであふれる教会となっていくのだと。誤解を恐れず申し上げれば、やれ高齢化など言っている場合ではないのだと思うのです。
今日の新約聖書にあるイエスの言葉とは、そういうことを私たち大人がどれだけ理解し、自分自身の生き方としようとしているのかということを問わせているような気がしてなりません。こどもの日を前にして、今日一日、私はそんなことを黙想しながら歩んでまいりたいと願わされました。
どうぞ、明日のこどもの日が、本当の意味で祝福された一日でありますように。そのための今日の一日が豊かに祝されますように。お祈りいたします。
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