イザヤ書42章10節より
主に向かって新しい歌を
地の果てからその誉れを歌え。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙1章23節
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。この福音は、天の下のすべての造られたものに宣べ伝えられています。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧約聖書の言葉に「地の果て」という表現が出てきます。地の果てとはどこを指す言葉なのでしょうか。
詩編が歌われた場であるエルサレムから見る地の果てとはそんなに向こうの話ではないでしょうし、欧米の方々からすれば、地の果てとは極東という名前が付くほどである日本のことを指しました。私たち日本に住む者にとっては、自分たちが地の果てなどと思っているわけではないでしょうから、地の果てとは、特別どこかの地域を指しているわけではないことは明白です。
そこで、私はこのようにとらえてみたいと思いました。それは「私の知らないところ」ならば、そこはすべて「地の果て」なのだと。そう考えますと、物理的な近さ遠さを指すのではなく、私たちの感情が、知識がもたらすものが遠近をつくっている。そう考えたいのです。
そうしますと、どんなに近くにいる人でも私たちが知らなければ、その距離はものすごく遠い存在となるでしょうし、たとえ物理的に遠くても、心情的に近さを感じる相手がいるということは、私たちの生活でもしばしばあることです。
そして、それが良い結果を生み出すこともあれば、関心の低さゆえに身近にあるものを見過ごしてしまったり、冷淡な態度をとってしまうことが、もしかしたらあるかもしれません。誤解を恐れず申し上げれば、近いと思っている神の存在すら、知らぬ間に遠ざけたりする私たち人間の現実があるかもしれません。
今日の旧約聖書の言葉は、たとえ私の知らないところ、関心の及ばないところ、関心のいかないところであっても、神を賛美する歌声が響いているのであれば、私たちはその現実をどのように受け入れることができるか、というひとつの問いを与えているのではないかと思うのです。私たちは、関心が低ければ低いほど、そこには何もないような評価をくだしてはいないだろうかという問いでもあります。
しかし、現実はそうではない。すべての場、すべての人が神への賛美をささげているという現実、そこに神の守りと導きがあるという真理を、私は神の御心に基づいて肯定的に受け入れたいと思うのです。こういう態度こそ、神の平和をもたらすことを受け入れるに相通じると思えてならないのです。
今日の新約聖書の言葉は「福音の希望から離れないでください」というものです。希望から離れることとは、私たちの関心の度合いを示す言葉なのではないかとも思うのです。どんなに物理的に近くても、心が離れてしまうような状況に、私たちはどれだけ神が与えてくださる希望を抱きつつ、地の果てにまでも生きて働いてくださる神の声に耳を傾けることができるだろうか。そんなことを思わされます。
今日は憲法記念日です。憲法議論が政治のなかで繰り広げられようとしている今、私たちの関心はどこにあるのか。そんな意味でも、神の言葉と聖霊の助けを通して発せられる神の御声に、じっくりと聴き、識別し、自分の生き方としたいと黙想させられました、決して自分の好き嫌いで近づけたり、遠ざけたりすることのないように。
皆さんにとっての一日が、近くにいてくださる神の恵みにあふれるときとなりますように。お祈りいたします。
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