05/05/2022

2022.5.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書42章6節
主である私は義をもってあなたを呼び
あなたの手を取った。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙3章12節
キリストにあって、私たちは、キリストの真実により、確信をもって、堂々と神に近づくことができます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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昨日から、日本基督教団東北教区総会へ参加するために山形へ来ています。教会会議が行われ、そこで活動報告や活動計画、決算予算や、今回は4つの選挙がおこなわれます。コロナ禍ゆえ対面での開催は3年ぶりとのことです。私もこの教区での総会参加は初めてですが、それぞれの教区にそれぞれの顔があるのだとつくづく思わされる、そんな総会出席です。
 
さて、教会会議に必要なものはなんだろうか。それは、神がこの教会会議を用いて、どのようにご自分の御心を現されているか。そのことを、議員である参加者が祈りつつ、その御心を求めるべく聴きとり、聴きとったところに従って発言をするという、基本的なところで成り立っているのだと考えています。
 
それはなにも教会会議だけに限られたことではありません。私たちの人生のあらゆる場面で、私たちの言動は神の御心に聴いて、そのために聖書の言葉や聖霊の導きというものがあって、あくまで本質に立つところに基づいて決定がなされていく。これがキリスト者としての生き方であると思うのです。
 
そういうときに必要なものこそ、今日の聖書の言葉に示された「神の義(正しさ)」であり「キリストの真実」であると。この神の正しさやキリストの真実ゆえに、私たちは神の御心によって自分自身が捉えられ、キリストの真実によってキリストとつながることができるのだと、今日の聖書の言葉は、私たち一人ひとりに伝えていると。
 
特に、新約聖書で書かれている「キリストの真実」ですが、この真実という言葉、元々のギリシア語ではピスティス、つまり「信仰」としばしば訳されている言葉が用いられています。信仰とは私が信じるその姿を表現するときに用いる言葉です。
 
しかし、信仰の主体は私ではありません。主体が私になってしまうと、神の御心をすっ飛ばしたところに中心を置いてしまう危険がいくらでもあります。私が信じる、私がこう思う、私が信じてやまない、私が、私が、といった具合に。
 
そうではなく、キリストが私たちの救い主であり、私たちをご自分の御心で導いてくださる。そこに私たちが自分の姿を知らされるときに、時には軌道修正が求められ、時には大きな変革や反省が求められる事がある。しかし、それだからこそ、キリストが本当にしておられることに気づかされ、キリストに近づきつつ、キリストとともに歩むことができるのだと。まさに信仰とは「キリストの真実」が明らかにされ「神の義」が中心に置かれることなのだと思えてなりません。
 
教会会議も、私たちの人間関係も、そして私自身の生活も、そういうところに基づきたい。そのために今日の一日も歩みたいと願わされました。
 
どうか、今日一日の歩みが、神とともにあり、キリストとともにある時となりますように。心よりお祈りいたします。

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