28/02/2026

2026.3.1(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ヨシュア記23章11節
あなたがたは生きていくために、あなたがたの神、主を愛するようにひたすら心がけなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一5章3節
神の戒めを守ること、これが神を愛することだからです。その戒めは難しいものではありません。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
新しい一週間を迎えました。今朝は十分に黙想をつづる時間がありませんでしたので、夜になってしまいましたが、簡単に今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句からの観想を書き留めたいと思います。
 
今日の旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「神である主ヤハウェを愛する」でした。神を愛するということは、決して難しいものではありませんと、今日の新約聖書・ヨハネの手紙の一節では述べられています。この言葉に、私たちはどのような印象を抱くでしょうか?
 
神を愛することは、実に難しいとお感じになられるのではないでしょうか? 神を愛したくても愛せない自分自身がいる。そんなことを感じる自分自身が私にもあります。それこそ、私たちが神に向き合うことのできない「罪」の根源というものであるかもしれません。
 
しかし、私たちが神を愛そうとする前に、神は私たちのことを愛してくださるという前提があるからこそ、私たちはそのことを聖書の言葉から知り、神が私たちひとりひとりを信頼して今日も生かしてくださっているということを、自分自身のなかで想い巡らすことができるのだと思います。
 
愛するとは大切にすること。私たちがどんなに周囲から、社会から大切にされていないと感じたとしても、私たちは神によって大切な存在とされているという自覚が、慰めを生み、励ましを生む。生きていくことができる希望が私たちのなかから芽ばえるならば、それが神を愛するという私たちの思いへと揺り動かしていくのです。これが、旧約の時代からずっと、神の民たちの土台となったものなのです。
 
私たちが十分に神を信頼できなかったとしても、神は私たちに「大切にする」ことの意味というものを、あらゆる場面を通して気づかせてくださる。神がそのようにしてくださるという思いが、神を愛するということを「決して難しいもの」という私たちの意識から解放させてくださるのだ。これが、今日の聖書の言葉が、私たちに伝えようとしていることなのであって、私たちはこの希望に生かされ、生きる者でありたいのです。
 
今日も残り少ない時を私たちが過ごす時に、この事実を思い巡らすことができますように。そして、今日の休息の時を経て、また訪れる朝の光を、喜んで迎えることができますように。そのことを心から祈りつつ、皆さんとともに神を愛する喜びを味わってまいりたいと思います。どうぞ素敵な夜のひとときをお過ごしください。

27/02/2026

2026.2.27(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
ネヘミヤ記1章6節
ああ、主よ、どうかあなたの耳を傾けて、私が今、あなたの僕たちのために昼も夜もあなたの御前で祈るこの祈りを聞いてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章7~8節
まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでも放っておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日、日本中で曇り空の一日になりそうですが、私たちの心や思いを曇らすような出来事や物事があるならば、神が私たちに晴れ間の心地よさを与えてくださいますように。そんなことを願いつつ、今日のローズンゲンに示された聖句に耳と心を傾けたいと思います。
 
今日選ばれたふたつの聖句に共通する言葉は「昼も夜も」でした。旧訳聖書では、昼も夜も神に祈る人に、耳を傾けてくださいと願う信仰者について、新約聖書では、どんなに非人道的な裁判官であっても、寡婦の熱烈な祈りには耳を傾けるだろうというたとえ話を引き合いに出しつつ、私たちの神は私たちの願いに必ず耳を傾けてくださるという、イエスの言葉が語られています。
 
昼も夜も、という言葉に、私たちはどのような印象を抱くでしょうか? 絶え間なく、どんな時でもあきらめることなく、呼吸するようになど、いろいろな印象が浮かび上がってきます。私はいつも思うのですが、私たちはたとえ祈ることがなかったとしても、神は私たちの思いをすべてご存知なのだから、祈ることそのものに意味はあるのだろうか、という問いに対して、そうであったとしても、神に祈ることはやはり大切なのだと。
 
子どもが親に対して、今日あったことを、「あのね、あのね」と一生懸命話そうする姿こそ、神に祈る私たちの姿なのかなと、私はイメージしたいのです。こどもは自分自身のうちにとどめておくというよりは、少しでも知って欲しい、わかって欲しい、理解してほしいと願い、そのことが果たされることによって安心感を得ることを心から望みます。私たちはこのようなこどもでありたい。人は聴いてくれなかったとしても、神は聴いてくださるのです!そんな思いをもって、神に祈る一日というものを営みたい。これが、私の受け止めたいと思ったことでした。
 
忙しいさなかにあったとしても、今日も私たちの一日をともに歩んでくださる神が、祈りを通して私たちに安心感を与えてくださいますように。その安心感こそ、私たちひとりひとりを生かすもといとなりますように。心からお祈りします。

26/02/2026

2026.2.26(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
箴言4章18節
正しい人の進む道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章14節
しかし、義のために苦しみを受けることがあっても、あなたがたは幸いです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も神のみことばが、私たちの心にしみわたる時に、私たちの生きる慰めや励みとなり、力となっていきますように。そんなことを願いつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をしてまいりたいと思います。
 
今日のふたつの聖句に共通する言葉は「正しさ(義)」でした。正しさは私たちを幸いなものとするということを、この聖句は私たちに伝えています。しかし、その正しさとは何なのでしょうか?
 
私たちは誰でも、正しさというものを抱きながら生活しています。しかし、その正しさはまさに千差万別と言えるでしょう。正しさは、人に良かれ悪しかれ他者に影響を及ぼします。人のために正しさが働くこともあれば、自分自身を守るために正しさが主張され、発揮されることもあります。正しさという言葉が世の中のゆがみやねじれをただすこともあれば、自分のうちにある悪を正しさという言葉にすり替えて、悪が助長されることもあるでしょう。
 
だからこそ、本当の正しさとはどこにあるのかということに、私たちは思いを寄せることが大切なのだと思います。私たちには、ひとつの「正しさ」が提示されました。それは、まさに「神の正しさ」というものです。神は正しいお方である。この定義を事実と認め、その正しさによって生きる者こそ、たとえ苦しくても心の幸いが与えられ、その正しさによって生きるときに、神の正しさを帯びた者として、朝日の光、真昼の輝きのように、この世に対して、隣人に対して生きることが可能たらしめるというのです。これが、今日の聖書の言葉が伝えようとしていることなのです。
 
自分の主張を補強するために、独り善がりな正しさを前面に打ち立てるのではなく、神の正しさの前に自らを低めて生きようとしたときに、神は私たちに輝きを与えてくださることを信じて、この一日を歩んでまいりたいと思い、願わされます。そのような連鎖と連結こそ、この世の中のゆがみを矯正してくださる神に対する信頼を高めるものとなるのでしょう。
 
どうか、今日もそのような一日を過ごすことができますように。自らの正しさに生きるのではなく、神の正しさの前にみんなが恩恵を受けることができますように。そんなことを心から祈り、一日を過ごすことができますように。皆さんの生活が、素敵なものとなりますよう。心からお祈りします。

25/02/2026

2026.2.25(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書42章6節
わたし、主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書17章5節
すると、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という声がした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
三寒四温とはよく言ったものだというくらい、暖かくなったり寒くなったりと、天気が安定しないこの頃ですが、そんななかでも健康が守られ、健全に神とともに歩むことができますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったこと。それは「握られた手を、私たちは握り返すことができるか?」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
私たちは握手をすることがあります。握手は、握られる手を私たちが握り返すことで成り立つ行為です。つまり、どんなに強く手を握手はられたとしても、その手を握り返さない限り、握手となることは決してありません。それは私たちの握力の問題ではありません。私たちが「手を握る気持ち」というものが、本当にあるかどうかというところにこそ、握手という行為が指し示す本質があります。
 
神は私たちの手を握ってくださった。これが、今日の旧約聖書のことばが私たちに伝えていることです。それは、私たちを造り、私たちを大切にし、それゆえに私たちひとりひとりを招かれようとする神の思いそのものである、ということです。神は私たちにつねに手を差し伸べて、私たちをしっかりと守ろうとしておられる、ということなのです。
 
そのような神の招きに対して、私たちはどうあることが大切なのでしょうか?しっかりと握り返すことができます。たとえ、握るだけの力が無かったとしても、握りたいという気持ちを相手に伝えることもできるでしょう。その一方で、差し伸べられた手を振り払うこともできるでしょうし、握られていることを「無かったことのように」して、歩むこともできます。つまり、私たちの側に、その選択が委ねられているということなのでしょう。
 
そのことが、今日の聖句が言わんとしていることなのだと、私は受け止めました。イエスが、弟子たちとともに暗闇の山へ出かけた時に、夜の空はまばゆく光りました。その光のなかから聞こえたのは、父なる神の声でした。その神から語られた言葉が、今日の新約聖書のみことばです。神は言います。「これに聞け」と。
 
イエスが私たちのために与えられたという事実は、まさに「神が差し伸べられた手」の具体的なかたちでした。その手であるイエスの言葉と行いを私たちが受け取り、私たちがその手を握り返すことができるかどうか。これこそ、「これに聞け」という神の私たちに対する語りかけであり、期待なのであると。四旬節2週目を迎えた今日、私たちひとりひとりに「神と握手すること」の大切さを伝えているような気がしてなりません。
 
伝えられたことを、私自身が自分自身にとって大切なものとして、しっかりと握り返したいという思いを大切にして、神とともに歩む者でありたい。これが、今日の私が受け止めたいと思ったことでした。皆さんのひとりひとりの手が、神としっかり握り合わされることで幸いな思いへと導かれることができますように。そのことを祈ります。どうぞ素敵な一日をお過ごしください!

24/02/2026

2026.2.24(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編140編13節
私は知っている
主が苦しむ人の訴えを取り上げ
貧しい人のために裁きを行うことを。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章15~16節
もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい」と言いながら、身体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。今日も、私たちを命の道へと導かれる神が、皆さんとともにいてくださり、その行く道を守り、祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「貧しい者に裁きを与える神」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
貧しい者への「裁き」とは何でしょうか。そこには、あくまで神の「公正」が十二分に働いていると私は考えています。貧しくされた者が貧しくされたままでいいはずがないのです。神はそもそも、誰もが神とともに生きることで幸せな日々を営めることを、心から願っているからです。
 
しかし、現実はそうではありません。貧しくされる者がますます貧しくされていくのです。神がおられるのに、どうしてそのようなことが起きるからでしょうか。それは、人間が「神になりたがる」からだと私は思います。神になろうとしている人間こそ、人から豊かさというものを奪い取り、大切な尊厳までも剥奪しようとするからです。
 
人間が神になることそのものが「罪の本質」です。神のようになれるという悪魔のささやきに、最初の人間夫婦はまんまと乗せられてしまいました。それ以来、神とともに歩む機会が与えられて、そのことで喜んでいるはずなのに、心の片隅では、自分自身が神よりも一番と考えてしまうようになっているのです。それが悲しきかな、人間の持っているさがであり、神に背を向けて歩むことを、自分自身で許してしまっているのです。
 
話は戻します。世の中に貧しさがあるのは、神の責任ではありません。私たち人間の側に、与えられた自由の誤用があるからです。だからこそ、私たちは神の公正な判断と、助けというものをどうしても必要とせずにはいられないのだと、私は思うのです。
 
神の公正さは、貧しいものにも豊かにするだけの力が働くことで、たとえ物質的に乏しかったとしても、精神的な喜びが私たちに与えられます。しかし、もし物質的な面でも豊かにされるとするならば、神の思い願いに私たちが進んで協力することによって、神の助けを心から認める者となることでしょう。果たして私にそれができているのか。そんなことを黙想しつつ、神が私たちを豊かにされることに、具体的な言動をもって表現していきたい。これが私の黙想でした。
 
今日も、すべてを見守られる神が、皆さんとともに歩んでくださいますように。そのことを願い、心からお祈りします。

23/02/2026

2026.2.23(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章7節
声を響かせ、賛美して言え。「主よ、あなたの民をお救いください」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68節
イスラエルの神である主は、ほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖われた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。

今日のローズンゲン黙想ですが、去る2月16日に間違って本日の聖句黙想をしてしまいました。ですので、今日はその再掲をしたいと思います。誠に申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いします。

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今日も、皆さんの一日を導かれて、私たちの歩みにともなってくださる神が、ご自分の言葉を通して、私たちを整えてくださいますように。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「救い」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エレミヤ書の一節でした。エレミヤ書に記されていることは、神によって選ばれ、守られていた国民でありながらも、そのうえにあぐらをかきつづけていたイスラエルが、その代償として辛酸を舐めなければならなかったうえで、なおもその民をご自分の民として愛し、神の民として再生させようとする神の思いというものが、預言者エレミヤを通して明らかにされる、という物語です。
 
そして、今日の聖句はまさに、神がイスラエルにある人々を再生させようとして、民たちに語りかけている箇所です。そのメッセージは、自分自身を賛美しつつ「救ってください」と叫びなさい、というものでした。このような嘆願が、嘆願される側のほうから嘆願すべき側に対して語られているということが、とても不思議に感じながらも、どこまで民の再生を願い、そのために愛を注ぎ続けようとしている神がおられるのかと、そのように感じてならないのです。そんなことをしてまで、私たち人間のために備えてくださる方の譲歩を思わずにはいられません。
 
本来ならば、私たちが自分たちの至らなさに気付き、一から再生すべく感じ、考え、行動するというのが、責任を取るべき側の務めでしょう。しかし、そのすべすら見いだせない、どうして良いかわからないという環境のなかで、神はそんな民たちが五里霧中のうちにもがき苦しむことのないように、私たちが歩むことのできる道を備え、そのナビゲーションすら明らかにしてくださるというのです。本来、そんなことをする必要すらない神御自身が、ご自分を譲歩させて、私たちに迫っておられるのです。
 
これを、私たちは「贖い」という言葉で表現することができるのだと思います。贖いという言葉は、元来「身代金」を指す言葉です。私たちのために、私たちが本来の姿に戻されるために、神が私たちをそのような束縛状態から解放させるために、身代金をこれまでもかというくらい払ってくださっている。身銭を切って私たちを救い出そうとする神の態度が、贖いというかたちとなって明らかにされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父となったザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所の冒頭部分です。神がイエス・キリストという救い主を与えるにあたって、その道備えをする務めにあたるヨハネが生まれたことを、ザカリヤは神に感謝しつつ、この賛美の言葉を述べました。神は私たちのもとを訪れて、私たちのために身代金を支払ってくれたのだと。この身代金こそ、救いの物語のために、神が私たちの意識にかかわらず与えてくださったすべてであるというのです。
 
私たちの反応の鈍さに迫り来る神。その神が今日も私たちとともにいてくださる。このことを心の希望として、一日を歩みたいと願わされました。皆さんにとっても、行く道を示してくださる神の守りと祝福が、存分にともにありますように。心からお祈りします。

22/02/2026

2026.2.22(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書29章19節
苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い
貧しい人々は
イスラエルの聖なる方のゆえに喜び踊る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二8章9節
あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
今日も一日の夕べが訪れました。朝の時間に黙想をつづることができませんでしたので、簡単ではありますが。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想をつづりたいと思います。
 
イエスが十字架に架かられたことを心に思い巡らす四旬節(レント)の最初の日曜を、私たちは迎えました。それぞれの教会や集会で、礼拝が持たれて、神のみ言葉を通して、今週の日々を歩むにあたって考える良いきっかけが与えられたのではないかと思います。
 
私たちのために十字架上で、その命をささげられたイエス。そのイエスの「貧しさ」について、今日の聖句は私たちに告げています。貧しさによって豊かになる。この考え方は世の中のあり方と「あべこべ」な論理であると誰もが思うでしょう。しかし、そのあべこべな論理こそ、実に「神のみ業」として、私たちが自分自身の限界ある理解を超越して起こされるものなのだと、思えてならないのです。
 
大切なのは、この世界でまかり通っていることが、神の視点からすれば、それが決して「当たり前」のものではない、ということです。その当たり前でないものを、私たちがいかに神への信頼とともに心から受け止めることができるだろうか。ということなのでしょう。神の働かれるスペースに、私たちが身を委ねるとは、そういうことなのだろうと。それによって豊かさを味わうことが可能となることを信じたい。それが、私の黙想です。
 
今日も夜がやってまいりました。どうか、神がこの夜のひと時も、夜の休息のときも、神が祝福してくださいますように。心からお祈りします。

21/02/2026

2026.2.21(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書43章18~19節
先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章17節
(パウロの手紙)だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
この一週間も最終日を迎えました。この七日間の旅路を導いてくださった神が、私のどこにおられたのか、私はその神の導きに応えつつ歩んでいたか、どんな祝福を神が備え、与えてくださったか。そんなことを想いつつ、今日選ばれた聖句に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「神の助けによって未来志向に生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神が私たちに指し示してくださるのは、神のみ国の一点に尽きると言えるでしょう。私たちはその完成に向かって、神の備えられた道を歩む民であることを知らされます。それはやがて来たる終末の時まで続くことを想わされます。そこにこそ、未来にある幸いを見つめる「未来志向」というものが、確かに存在することを私たちは心から信じて歩みたいのです。
 
実際に、今日の聖句のなかにも、過去にあったことにこだわりを抱き続け、そこにしがみつくのではなく、神が与えてくださる「新しさ」が、いかに貴く、素晴らしいものであるかについて力強く語られていることが分かります。未来志向というのは、私たちの能力や努力で勝ち取るものでは決してなく、あくまで神が与え、指し示し、導いてくださるものなのです。
 
しかし、私たちはこの聖書の言葉に触れるときに、「過去をないがしろにする」ことは決して勧められていないということをも、大切にしたいと私は考えています。過去の歴史を私たちは決して忘れてはならないのです。そうしないと、私たちは過去に学ぶことなく、同じ轍を踏んでしまうのです。歴史はそうやって同じことを繰り返していることも事実なのです。
 
だからといって、昔のことにしがみ付いてもならない。それを神は決してお望みで無いことも確かなのです。だからこそ、神は昔のことを指し示しつつも、神とともに歩む未来志向の思いというものを、私たちに余すところなく提示してくださるのだと。私たちはそのことを心から信頼して、神である主とともに歩みたいと心から願わされるのです。これが私が受け止めたいと思ったことでした。
 
明日の主の日に向かって歩む者として、そのことを心しつつ、祈りつつ、神の助けをいただきながら、一日を歩むことができますように。神が皆さんの一日を守り、祝福してくださいますように。心からお祈りします。

20/02/2026

2026.2.20(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編40編12節
主よ、私に憐れみを閉ざさないでください。
あなたの慈しみとまことが
絶えず私を守ってくださるように。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ユダの手紙2節
憐れみと平和と愛を、神があなたがたに豊かに与えてくださいますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、こんばんは。
毎朝お届けしている黙想ですが、今日は夜になってしまいました。今朝は、外出地から仙台への移動をし、その後職場(教区センター)へ出勤しましたので、黙想をつづる時間をなかなか取ることができませんでした。
 
しかし、職場では朝にローズンゲンを開いて朝の祈りの時を持ち、夕方には、テナントとして入っているキリスト教書店(エッサイの木)で、ローズンゲンを開いて終わりの祈りの時を持ちます。そこでみ言葉の分かち合いを、ともに祈る仲間たちと味わっています。そのことを、遅くなりましたが今日の黙想としてつづりたいと思います。
 
私は昨晩、日本基督教団小田原教会の牧師であった、豊田通信(とよだ・みちのぶ)牧師の前夜式に参列しました。あまりにも急な発病と、その闘病生活の末、あっという間に神のみもとに先週召されていきました。豊田牧師とは20年間にわたって、カルト宗教対策で大変お世話になりました。つい最近まで、一緒にこの問題について、これからも続くものと思いつつ、活動していました。
 
それだけに、自分自身のなかで現実を受け止めるだけの速度に全然付いていくことができませんでした。自分自身のなかに大きな緊張を抱えつつ、弔いの場へ向かいました。そこで、司式の牧師が語る言葉のひとつひとつに耳と心を傾けるなかで、ひとつのことにあらためて気づかされました。神は、この同労者を大きな憐れみのうちに招き入れて、慈愛を注ぎ続けてくださっていたのだということをです。
 
カルト対策活動というのは、はた目からしたら決して報われることの多いものとは言えないかもしれません。牧師という仕事も、決して自分自身が得をするような生き方を与えるものではない。そんなことはいくらでも感じるわけです。しかし、報われなければ報われないほどに、損をすればするほどに、神の憐れみと慈しみは、これでもかというくらいあふれ、注がれるのです。私は先生にそのような思いを感じずにはいられませんでした。そうしたら、自然に涙があふれるのを感じました。葬儀に参列してめったに涙することはないのですが、昨晩は特別でした。
 
こうやって、神は私たちのひとりひとりをしっかりと守ってくださる。天に在る者も地にある者もすべて。そんな憐れみに支えられつつ、私は豊田牧師の遺志というものをしっかりと引き継いで生きる者でありたいと願わされました。これが私の黙想です。
 
今日も夜が更け、また朝がやって来ます。どうぞ神が与えてくださる良き休息が、私たちとともにありますように。そして、明日の日への備えが祝福されますように。心からお祈りします。」

19/02/2026

2026.2.19(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編66編8~9節
もろもろの民よ、彼らの神をたたえ、その栄光を轟かせよ。神は私たちの魂を生かし、その足をよろめかすことがない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章5~6節
忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの父なる神を崇めさせてくださいますように。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
四旬節(レント)2日目の朝を迎えました。私は例年、この40日間の旅路のなかで、何か読み通せるようなものを1冊、読むことができたらと思い、その年ごとに書籍に当たってきましたが、ここ数年はそのことからも何となく離れていました。ですので、今年はそのことに久しぶりに取り組もうと思い、久々ではありますが、『人生を導く5つの目的~自分らしく生きるための40章~』(リック・ウォレン、尾山清仁訳)を読むことにしました。1日一章ずつ読むことができるので、こういう時にこそ読み通すことができると思いました。ここでも観想を述べることができれはいいなと思ったりしています。楽しみです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「キリストの価値観によってひとつとなる」ということについてでした。その黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句は、新約聖書・ローマの信徒への手紙にしたためられた、伝道者パウロの言葉からでした。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ」という部分です。ここで私はハッとさせられることがありました。私は日頃から、イエス・キリストに倣う者として、イエスの価値観に生きることの大切さと幸いについて、繰り返し繰り返し述べているわけですが、そのような思いを抱かせるのは誰かということについて、この聖句は大切なことを教えていることにあらためて気づかされました。
 
私たちにそのような思いを抱かせるのは、他ならぬ「神」であると、パウロは述べました。その神のことを、パウロは「忍耐と慰めの源」であると、私たちに伝えています。私たちの神は、私たちに対してキリストに倣う者となるべく、ひいてははるか昔から神に従う者となるべく、どれだけの忍耐を私たちに示し、どうしても従いえない私たち一人ひとりの心を慰めながら、私たちにともなってくださった、今もなおともなってくださるのだと。
 
私たちは、そのような神の私たちに対する態度を知ってこそ、そのような神に従い、それを私たちに体現されたキリストのように生きたい、キリストに倣う者として立てられるということを知るのだということを大切にしたいと思ったのです。何かマニュアルがあって、その通りに従っていればそれでよい、というわけではありません。その動機であるとか、根拠というものを大切にしたい。それが、私たちの神が私たちに対して示された忍耐であり、慰めであるというのです。
 
それは、私たちの命の救い主であるイエス・キリストが架かられた十字架における忍耐そのものであると私は受け止めたいと思いました。主イエスの十字架を見つめ、そのことを前にして自分自身を見つめる営みのなかで、この忍耐を見つめたいと思ったのです。
 
今日の一日が、そのような忍耐に支えられたものでありますように。そのことを心から願いつつ、皆さんの主にある守りと平安を、心からお祈りします。

18/02/2026

2026.2.18(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編119編41節
主よ、あなたの恵みが私にもたらされますように。あなたの救いがみことばのとおりに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書4章36節
人々は皆恐ろしくなって互いに語り合って言った。「一体この言葉は何であろうか。イエスが権威と力とをもって命じると、汚れた霊たちが出て行く。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は「灰の水曜日」です。イエスが私たちと神の関係が回復されるために十字架に架かられた、そしてその関係を執り成してくださった「あがない」の出来事を想い起こす期節です。「40」という苦難を象徴する数にちなんで、イースターに先立って日曜を除く40日間を「四旬節(レント)」としました。その初日となる今日が「灰の水曜日」です。灰は悔いることの象徴として、古代より用いられてきたものです。この期節が実際に聖書に記されているわけではありませんが、信仰の先達たちが、自分たちの信仰生活をより具体化しようとして行われるようになったこの習慣を、私たちは継承しています。今日から始まる40日間の旅路を、自らのあり方を見つめつつ、十字架の主イエスとともに歩んでまいりたいと思います。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「言葉」でした。具体的には神の語られる言葉であり、実際に生ける「神の言葉」となられた救い主イエス・キリストの語られた言葉に言及した聖句が、本日の聖句として選ばれています。
 
私たちは、神の言葉を聖書の言葉を通して、それも単なる活字ではなく、聖霊の助けをともなって「生きた言葉」として私たちに与えられています。その言葉を、私たちは実際に神が語られた「現実味のある言葉」として受け取っているでしょうか? そんなことを灰の水曜日にあたって想わされます。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一片は、そのような神の言葉が実際に、私にとっての救いの言葉となりますようにという嘆願がささげられているものです。神のお言葉の通りに、私たちが神の守りに支えられて、その日を生きる活力となりますようにという切なる願いが、この詩編の言葉にあふれています。私たちはそのような心からの祈りを、神にささげているでしょうか?
 
そして、今日の新約聖書の言葉は、悪霊に取りつかれている人の差しさわりを、ご自分の宣言によって取り除くことができたイエスに対して、人々の反応が記されています。イエスの言葉に権威と力を感じた人たちによる驚きがありました。イエスもまた、ご自身が「神の言葉」として、この世界で父なる神のみ心を一身に背負い、それを完璧に成し遂げた人物でした。そのクライマックスが十字架刑の出来事からの復活、そしてイエスをかしらとする教会の形成でした。
 
だからこそ、私たちは教会という場所が、神の言葉によって生かされる場であるということを、教会に集められた誰もがアーメンと心からそのことを信じ、認めつつ、自分自身のあり方というものを虚心坦懐な思いをもって、この40日間も過ごしてまいりたいのです。
 
その初日である今日の一日もまた、神の守りに支えられながら、神の言葉によって祝福を得、生きる者でありますように。その歩みのために、心からお祈りします。

17/02/2026

2026.2.17(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記29章28節
隠されたことは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、とこしえに私たちとその子孫のものである。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章2~3節
それは、彼らの心が神の秘儀であるキリストを深く知るようになるためです。知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
最初に、皆さんにお詫び申し上げなければならないことがあります。昨日のローズンゲン黙想ですが、2月16日(月)のものではなく、翌週の2月23日(月)のものであることのご指摘を受けました。ご指摘くださった方には深く感謝しつつ、皆さんにはご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ありませんでした。
なお、黙想はこのままにしておきます。そして、2月23日に2月16日の聖句黙想を掲載したいと思います。似たような間違いを繰り返し、まことにお恥ずかしい限りです。今後ともお付き合いのほど、よろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「隠された」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。私はこの言葉を、「私たちの想像や現実をはるかに超越した神のみ心」というふうに捉えたいと思いました。
 
私たちは、究極的に神のみ心というものを知ることはできません。知ることはできないけれど、すでに与えられた聖書の言葉や、歴史が織りなした神と人間との物語を通して類推をして、それが神のみ心と「信じて」行動をするのです。もちろん、そのような私たちの行動には、聖霊のお導きというものがありますから、私たちは祈って、神のみ心を求めるということが行われるその営みのなかで、神のみ心により近づいた言動ができることを心から望み、また信じてそうするのです。
 
しかし、だからと言って、私たちが神のみ心を100%理解し、それを実行することは絶対にあり得ません。たとえ神のみ心が示されたとしても、私たちの認識のゆがみが、それを改変させてしまうことなど、いくらでもあるのです。私たちが「罪びと」である以上、私たちの世界に完璧は無いのです。完璧にことを成し、そして生きられたのは、イエス・キリストただお一人なのです。
 
だからこそ、私たちでは完璧に理解することのできない神のみ心には、必ず「隠された部分」があるということを、私たちは心から認めて、神が働かれるスペースに対する深い信頼を寄せることこそ、私たちの信仰生活には大切な営みであるということなのです。それは、自己絶対化というものを避ける大きな助けとなります。自己絶対化とは「自分が神となる」ことなのです。
 
隠されたという言葉は、新約聖書の原語であるギリシア語では「ミュステリオン」という語が用いられています。現在でも「ミステリー」という英語が用いられますが、そのもととなった言葉です。そういう意味で言えば、神のみ心は実にミステリーなのです。しかし、ミステリーがやがて明らかにされるときが来る。その時に、それは私たちの確信となって、私たちの現実の世界に、神がともに臨まれることを知れるようになるというのです。
 
私たちは神が働かれるスペースというものを、自分自身のなかで大切にしたいと思います。目の前で起きる出来事に一喜一憂するのではなく、そのなかで、神が最良の指し示しを私たちに与えられるということに心から期待しつつ、神のミステリーに心を寄せたいと願わされました。皆さんのすべてに働かれる神の守りが、やがて平安へと豊かに結び合わされることを、心からお祈りします。

16/02/2026

2026.2.16(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章7節
声を響かせ、賛美して言え。「主よ、あなたの民をお救いください」と。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章68節
イスラエルの神である主は、ほめたたえられますように。主はその民を訪れて、これを贖われた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も、皆さんの一日を導かれて、私たちの歩みにともなってくださる神が、ご自分の言葉を通して、私たちを整えてくださいますように。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「救い」でした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、エレミヤ書の一節でした。エレミヤ書に記されていることは、神によって選ばれ、守られていた国民でありながらも、そのうえにあぐらをかきつづけていたイスラエルが、その代償として辛酸を舐めなければならなかったうえで、なおもその民をご自分の民として愛し、神の民として再生させようとする神の思いというものが、預言者エレミヤを通して明らかにされる、という物語です。
 
そして、今日の聖句はまさに、神がイスラエルにある人々を再生させようとして、民たちに語りかけている箇所です。そのメッセージは、自分自身を賛美しつつ「救ってください」と叫びなさい、というものでした。このような嘆願が、嘆願される側のほうから嘆願すべき側に対して語られているということが、とても不思議に感じながらも、どこまで民の再生を願い、そのために愛を注ぎ続けようとしている神がおられるのかと、そのように感じてならないのです。そんなことをしてまで、私たち人間のために備えてくださる方の譲歩を思わずにはいられません。
 
本来ならば、私たちが自分たちの至らなさに気付き、一から再生すべく感じ、考え、行動するというのが、責任を取るべき側の務めでしょう。しかし、そのすべすら見いだせない、どうして良いかわからないという環境のなかで、神はそんな民たちが五里霧中のうちにもがき苦しむことのないように、私たちが歩むことのできる道を備え、そのナビゲーションすら明らかにしてくださるというのです。本来、そんなことをする必要すらない神御自身が、ご自分を譲歩させて、私たちに迫っておられるのです。
 
これを、私たちは「贖い」という言葉で表現することができるのだと思います。贖いという言葉は、元来「身代金」を指す言葉です。私たちのために、私たちが本来の姿に戻されるために、神が私たちをそのような束縛状態から解放させるために、身代金をこれまでもかというくらい払ってくださっている。身銭を切って私たちを救い出そうとする神の態度が、贖いというかたちとなって明らかにされたのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、洗礼者ヨハネの父となったザカリヤの賛歌と呼ばれる箇所の冒頭部分です。神がイエス・キリストという救い主を与えるにあたって、その道備えをする務めにあたるヨハネが生まれたことを、ザカリヤは神に感謝しつつ、この賛美の言葉を述べました。神は私たちのもとを訪れて、私たちのために身代金を支払ってくれたのだと。この身代金こそ、救いの物語のために、神が私たちの意識にかかわらず与えてくださったすべてであるというのです。
 
私たちの反応の鈍さに迫り来る神。その神が今日も私たちとともにいてくださる。このことを心の希望として、一日を歩みたいと願わされました。皆さんにとっても、行く道を示してくださる神の守りと祝福が、存分にともにありますように。心からお祈りします。

15/02/2026

2026.2.15(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記50章17節
(ヨセフの兄たちがヨセフに懇願する言葉)どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章32節
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださるように、互いに赦し合いなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。これから始まる七日間の旅路もまた、私たちと共に歩んでくださる神が、どのような指し示しを私たちに与えられるのでしょうか。神に期待しつつ、今日も神の言葉に聴いてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「赦し」でした。旧訳聖書の箇所は、ヤコブの愛する息子であったヨセフの10人に兄たちが、彼に対して行った謀略を詫びているシーンですが、兄たちはその行いを「神に対する罪」ととらえていました。そのうえで、ヨセフに赦しを願っていることが分かります。また、新約聖書では、「互いに赦し合いなさい」という勧めの言葉が与えられています。どちらも「赦す」ということについて書かれた聖句なのです。
 
さて、私が現在担当している講座で、おととい「愛の特質としての『赦し』」について学ぶ機会がありました。テキストとして用いている『サーバントリーダーシップの原則 ー権力によらないリーダーシップ』(ジェームズ・ハンター、地引網出版)には、第一コリント書13章にある「愛」について、そのひとつの特質である「赦し」について解説されていました。
 
赦しとは何か。テキストにはこのようにありました。「恨みを捨てること」と。
 
どうしても赦せないことがある時、その赦しというものを放棄することは、本当に難しいのです。これを捨てられたらどれだけ楽だろうと思うし、そのことを願うのです。しかし、なかなかできません。思い出してしまうのです。忘れられないのです。赦せない感覚を抱くのは、体力を消耗させ、心を疲弊させます。そんなことなど嫌だと分かっているのに、それを手放すことのできない自分自身を発見してしまうのです。私もその代表的なひとりなのです。
 
これは到底、人間のわざでは成し得ないことなのだと私は思っています。究極的には、神にしかできないことなのだと。私の限界をはるかに超える方である神が、私がしっかりとしがみ付いている恨みの感情を手放すことができるように、私たちの心をときほぐしてくださるのだ。そのことにただ希望をもって歩むことが必要なのだと。私はそう願いたいし、それをなしてくださる神に、心からの信頼をもって期待したいのです。
 
前のローマ・カトリック教皇であるフランシスコは。人間の悲しみには二種類あることについて言及しました。一つは、キリスト教的な生活のためになり、神の恵みのおかげで喜びへと変わる、回心の歩みの一部となる悲しみであり、もう一つは常に復讐を思い描き、健全な生活も。キリスト教的生活も生み出さない、心を壊疽させてしまう悲しみであると。
(詳しくはこちらをごらんください)
 
まさに赦すという行為は、私自身だけでは実現することのできないものなのだということを、明快に私たちに知らせる示唆だと私は思いました。だからこそ、今日も神が与えてくださった御言葉に聴き、赦すことを手放せない自分自身を神の前にさらけ出したいのです。そのことを神は、すべて受け入れたうえで、私たちに新しい命の道を与えることを信じたいのです。
 
無理やり赦そうとして、自分自身の心に蓋をする必要はどこにもありません。心を楽にして、神にそのことを打ち明けて、神が必ずや自分自身のうちにある恨みや悲しみというものを、和らげてくださる日がやって来るということに希望を抱き続けていく。私たちに今与えられていることなのだ。私は今日の聖句から、そのようなことをメッセージとして聴きたいと思いました。
 
この新しい一週間もまた、そのような神の守りが私たち一人ひとりとともにありますように。心からお祈りします。

14/02/2026

2026.2.14(土)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編97編10節
御自身に忠実なる者たちの命を守られる方は、逆らう者たちの手から彼らを助け出してくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録9章31節
こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この七日間の旅路を、私たちはどのように歩むことができたでしょうか? この旅路を同伴してくださった神がおられたことを、私たちはどのように感じることができたでしょうか? また、感じることができなかったでしょうか? それぞれの思いを胸に刻みつつ、この一日を過ごすためにも、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、黙想を深めてまいりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、神である主ヤハウェの思いや願いに忠実に歩みたいと心から願う人による告白のことばです。その表題は「賛歌。歌。安息日のために。」(詩編92編1節)とあります。この時代は一週間の最終日を「安息日」として、この日を礼拝の時としていました。まさに、七日間の歩みを振り返る時であり、一週間のなかで私が神とどのように歩むことができたかを思い起こす時でもありました。そのなかで、神が私の生活にどのように関わられたかをじっくりと味わうなかで、このような詩がうたわれたということです。
 
「逆らう者」とあります。何に逆らうのでしょうか? 神に忠実な者に対して逆らうのでしょうか? もちろん、それもあるかもしれません。しかし、実は神に一番逆らっているのは、何を隠そう「私自身」にあるのだと、私は受け止めました。それは、私たちの神に対するイメージと大きく関係するわけですが、神が私たちに幸いを与えようとしてなしておられる数々の出来事に、私たちは意識的に、また無意識のうちに「逆らって」いるのではないか。神に忠実に歩もうとすればするほど、自分自身がそれに抗っていることに気付かされるのです。
 
ですから、神は私たち自身のそのような心からも助けの手を差し伸べてくださるというふうに、私は自分自身のこととしてこの聖句を読みたいと思ったのです。神の思い願いを自分自身が受け取って、神が与えてくださる幸いに身を委ねるためにです。私たちが、神とともに歩みたいという思いが、ほんのひとかけらでもあるのであれば、神は大いに助けの手を差し伸べ、私たちのそのような思いを祝福し、守ってくださるのだと。
 
このような思いの集合体こそ、教会の本質であると私は信じ、受け入れたいのです。自分自身のありようを見つめ、もし、神の思い願いというものに背を向けている自分自身を見つけることができるならば、神は聖霊の力によって、その思いを軌道修正してくださるからこそ、信仰共同体である教会がますます祝福されるのだと。少なくとも聖書を通して私たちに伝えようとする初期の教会の姿は、そのようなものであったことを、私たちは今の教会に、自身の信仰生活に対して「リアル」に感じとることができるならば、それは大きな幸いになるのだろうと思えてなりません。
 
神である主を十二分に信頼できていないゆえに、思い誤りや選択の間違いがあったのだと、私は自分のこの一週間を振り返っては思わされるばかりです。しかし、だからこそ、また新たな道が与えられるのだということに希望を抱きつつ、来週への備えのひと時としての今日の一日が、神から与えられた素敵な一日であることを望んで歩みたいと願わされました。これが私自身の黙想です。
 
皆さんのこの一日が、神の守りと祝福に包まれますように。心からお祈りします。

13/02/2026

2026.2.13(金)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
サムエル記上12章15節
もし主の声に聞き従わないならば、主の手はあなたがたの先祖を攻めたように、あなたがたを攻めるだろう。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
コロサイの信徒への手紙2章6~7節
あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい。キリストの内に根を下ろし、その基の上に建てられ、教えられたとおりに信仰によって強められなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。
今日も私たちとともに歩んでくださることを約束された神が、私たちの行く道を示し、守り、祝福してくださいますように!
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神とともに歩む幸い」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書のことばは、イスラエルの指導者であったサムエルが、その生涯の終わりに神が自分に委ねられたイスラエルの民たちに対して語った言葉の一節です。サムエルは、はるか昔にエジプトから、今いるこの地に導かれた神が、私たちに対してどのように取り扱われたかについて、その歴史を語ります。神はつねに私たちとともにいてくださったのだと。
 
ただ、こうも言っています。もし、神の語られる言葉に歩調を合わせずに、自分の好きなように歩むならば、必ず自分自身がその代償を支払うようになるだろうと。サムエルは、このことを「主(である神)が攻めるだろう」という表現を用いています。神が私たちに対して刃を向けるのでしょうか?
 
そうではありません。「主」というのは神の名前です。「私は(あなたがたとともに)いる」という名前の意味を持たれた方です。その神が、私たちを攻めるとはどういうことでしょうか。神は、私たちがご自分とともにいてくださることでこそ、多くの幸いを人々に与えておられることに気付いて欲しいと願っています。人間はどうしても、幸福はわが手柄だと豪語し、そこに神の関わりというものを無視してしまうのです。これが人間が営んだ歴史の常でした。
 
しかし、神はそんな人間の傲慢さが渦巻いていたとしても、なおも人間に近づき続けることをやめられませんでした。人間がその驕り高ぶりのゆえに辛酸を舐めなければならないことがあったとしても、そんな人間には神が必要なのだということを彼ら自身が気づけるように、ともにいてくださった。それが神がおられることの真実なのです。まさに、神は私たちの心に攻められるのです。しかし、それは命の犠牲をともなう攻撃ではなく、私たちの命を活かすための攻撃であるということを、私は是非この言葉から受け止めたいのです。
 
私たちは今、命の救い主であるキリスト・イエスが与えられています。キリストもまた、自分自身が犠牲となることで、私たちの命を守られたのです。そして、今日も守ってくださっています。私たちはそのことに気付けないこともあるかもしれません。しかし、キリストは私たちの心に気付きが与えられることをただ願いつつ、私たちのために今日も働いてくださるのです。そのことに私たちもまた、神がともにおられることの幸いを味わえるような一日でありたい。これが私が受け止めたいと思ったことでした。
 
皆さんの一日が、神とともにある幸いを感じ取り、それゆえに喜びがあふれる時となりますように。心からお祈りします。

12/02/2026

2026.2.12(木)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
イザヤ書44章22節
私はあなたの背きの罪を雲のように
罪を霧のようにかき消した。
私に立ち返れ。
私があなたを贖ったからだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一3章5節
イエス・キリストは罪を取り除くために現れたのだということ、そして御子の内には罪がないのだということを、あなた方は知っています。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの行く道を導いてくださる神が、ともにいてくださいますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「罪」についてでした。そのことの黙想をつづりたいと思います。
 
そもそも「罪」とは何か。今日の旧約聖書の言葉はそのことを明確に示しています。それは「神への背き」である、ということです。神が私たちのために与えられた「よいもの」に対して背を向けて、わが道を歩もうとするならば、それは「自分自身が『神』となること」への始まりであり、それが「罪」であると、聖書は一貫して私たちに伝えています。
 
それは、神が私たちに示し続けてくださった愛といつくしみ、憐れみ、忍耐、そのことが私たちの目に見えるように、命の贖い主、救い主として与えてくださったイエス・キリスト、そのイエスが新たな信仰共同体をつくられ、それが教会というかたちとなって現在まで継続されていること、その教会を導く聖霊の働き。それらすべては、神が私たちに与えられた「よいもの」である、ということなのです。
 
それらよいものを「よいもの」として受け入れ、「よいもの」として私たちが預かったものを健全に用いてこそ、神と歩調を合わせる生き方となるのでしょう。しかし、この世界において、それを私たち人間は健全に用いていないのです! 自分の都合の良いように解釈して、自分自身で、自分好みの神をつくりあげてしまうのです。自分自身の神をつくりあげたときに、私たちは神に背を向けて歩んでいることに、もはや気づけないでしまっているのです。
 
だからこそ、私たちは自分自身の信仰のあゆみというものを、じっくりと検証する必要があるのです。自分自身の心のうちにあるものを、正直にさらけ出したときに、その正直な思いに神は必ず応え、ご自分が与えられた道というものを歩むことができるように、導いてくださるのです。そのために、イエス・キリストが私たちにために与えられました。具体的な生き方というものを指し示されました。罪の道を私たちが歩むことのないようにです。
 
ですから、私たちはイエス・キリストの提示された道というものを、自分の生き方とすることが、何よりも大切なことなのだと。これが、今日の新約聖書が示しているメッセージであると私は受け止めました。私自身も今日の歩みのなかで、そのことを神の助けを得ながら、祈りつつ体現していきたいと願わされた次第です。
 
少しでもゆがみのない世界となることを心から望みつつ、私たちのひとりひとりが主とともに歩むことができますように。この一日のすべてに、神のよいものがあふれますように。祈りつつ歩むことができますようにと、祈りたいと思います。どうぞ素敵な一日をお過ごしください。

11/02/2026

2026.2.11(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章20節
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあらまれずにはいられない。ー主のことばー

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章2節
神はあらかじめ選ばれた御自身の民を退けたりなさいませんでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は国民の休日ではありますが、全国の各地で「信教の自由」について考える集会がおこなわれます。あらためて「神を信じる生活」とはどのようなものであるかについて、考えるひと時が与えられていることを心に思いつつ、その一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
そのようなななかで、今日のローズンゲンにしめされたふたつの聖句に心と思いを寄せたいと思います。私はこれらふたつの聖句によるテーマを「神の願い」と受け止めました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
神の願いとはなんでしょうか。ご自分の民とともに歩むことに他なりません。ただ、神の願いと裏腹に、人間が好き勝手なことをしてしまい、神の願いがないがしろにされるような生き方を営んでいるようでは、せっかくの神の願いは台無しになってしまうことでしょう。
 
私たち夫婦には子どもが与えられていませんので、子育ての経験のない私がこんなことを言うのは的外れになってしまうかもしれませんが、親が子に対して、自分の願いや期待というものを子に寄せることは、周知の事実でしょう。しかし、その子が親の願いに沿わない生き方をしたとしたら、それゆえに子の人生というものが悲惨に満ちあふれるものであるならば、親としては大いに悲しみ、心を痛めるということもしばしばあるのではないかと私は思うのです。「親の心子知らず」とはよく言ったものです。
 
ただ、子は決して親の独占物ではありません。子には子の意思があり、親にはそれを縛り付ける権利も義務もありません。だから、親がどんなにアドバイスをしたとしても、最終的には子が自分で考え、気づき、その気付いたことに基づいて行動してくれることを、親はただ見守りながら、その子の幸せのために関わり続けるしかないのです。
 
私たちが日常で感じ、経験するこのようなことこそ、神と私たちの関係性になぞらえることができるのだと私は思います。今日の旧約聖書の言葉は、神に大切にされながらも、神の思い願いをないがしろにし続けてきたイスラエルの民が、自分のしてきたことに気付いて、それを悔やみ、あらためて神のもとに帰りたいと心から願ったとき、その思いに神が応えられた。それはまさに、神が人に示されたあわれみであったことを、今日の聖句から知れるのです。神はそうなることをただ望みつつ、忍耐をもって私たちとともに歩んでくださるというのです。
 
私たちの世のなかでは、神が私たちに示された姿勢というものに、私たちもまた神の子どもとして親である神に、真心をもって立ち返ろうとする時に、そこには必ず健全な親子関係というものが芽ばえ、幸いがあふれるということを心から信じたいのです。
 
神は決して私たちを退けることなく、私たちが気づくのを待っておられる。今日の新約聖書の言葉が言わんとしているメッセージです。ゆがみがあるこの世界、人間関係のなかで、私もまたこの神の言葉をただ受け流すのではなく、私たちの神との立ち位置や距離感というものを、聖書の言葉と聖霊の助けによって、じっくりと検証していきたい。そんな風に私は受け止めたいと思ったのです。神の願いは、私たちが神とともに歩むことで、少しでもゆがみが矯正されて、健全かつ幸いな道を歩めることだからです。
 
今日の一日の歩みのなかで、少しでもそのことを感じ取れる幸いが私たちのあいだにありますように。そのことを心から願い、また皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。

10/02/2026

2026.2.10(火)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記32章11節
(ヤコブの言葉)私は、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるには足らない者です。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙一1章16節
(パウロの手紙)しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神の憐れみと慈しみに生きる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
今日の聖句は、神の憐れみと慈しみを受けたふたりの人物の心境が描かれています。ひとりはイスラエルの民の祖となったヤコブ、もうひとりは、伝道者パウロです。このふたりが、神に出会い、キリストに出会うなかで、どのような心の揺らぎであるとか、その決意というものを読み取ることができると、私は思いました。
 
ヤコブは、神とともに歩むその人生のなかで、神のスケールの大きさに圧倒されます。どんなに疑っても、迷っても惑っても、神が「私はあなたを決して見捨てない」(創世記28章15節)という約束によって、神とともに歩む幸いというものを味わい続けてきました。そのようななかで、ヤコブは神に告白します。私はあなたのそのような憐れみを受けるには足らない者、つまりそんな資格がないくらい貧しく、乏しく、ふさわしくない者であるという、ヤコブの謙虚な言葉が、神に向けられました。
 
神はそんなことなど承知のうえで、にもかかわらず、ヤコブの人生の旅路を守り続けました。ヤコブには相も変わらず人生の苦しみや痛みがありました。人との関係に悩みました。しかし、神がただ注がれる憐れみと慈しみによって、ヤコブは神とともに歩む道に幸いを見い出します。まことに頼りない人生かもしれません。しかし、神とともに歩むということによって、ヤコブの人生は神に祝福を存分に受けました。それは、ヤコブの謙遜な告白に、神が十分に答えられたことを示すものでした。
 
私たちの人生は、つねに痛みと苦しみをともなうものです。この苦痛に耐えられなくなるのです。いたたれなくなこともあります。穴があったら入りたく、その環境から逃げ出したくなることもあるでしょう。しかし、繰り返しますが、神はそんな私たちの心境など百も承知のうえで、私たちとともに歩むことを心から願っているがゆえに、私たちのあり様に忍耐を示して、寛容をもって私たちに接し続けてくださる。この事実を、私たちがどのように受け止め、また心から応答することができるかというところに、今日のもうひとつの聖句が示す肝というものを感じるのです。
 
今日の新約聖書の言葉は、パウロが神の憐れみを受けた者として、どのような生き方を指し示されているかについての告白の言葉です。どのような告白か。「キリストの憐れみによって私が『手本』となる」ということでした。
 
パウロは、決して非の打ちどころのない立派な人間であるというわけではありませんでした。人一倍自分が、神と歩調を合わせることのできない者であることを自覚していました。キリストによって救われたという事実と、自分自身のうちにあるさまざまな感情とのあいだにあるズレに、大いに悩み苦しみました。私など、キリストの前にあってなんとふさわしくない人間なのか。パウロが記した手紙の随所には、そのようなパウロの思いがつづられていることが分かります。
 
しかし、そんな私にキリストは寛容を示し続けているではないか。良いものの、数多くの出会いというものを与えてくれているではないか。そして、現にキリストの救いの言葉に私自身が生かされているという現実があるではないか。私が生かされているのがキリストのおかげであるならば、私自身もまた、自分が救われているということを自分の生き方をもって示し続けていくことこそが、私の生き方なのだ。どんなに失敗をしたとしても、神の憐れみに抗う自分自身に気付いたとしても、それでも私はキリストによって生かされていることを、大切にして生きたいのだ。そんなパウロの心というものを、このひと言から読み取ることができるのです。
 
ヤコブしかり、パウロもそうであったように、私たちは決して立派な人間ではありません。しかし、神がそんな私たちを愛し、ご自分の道へと導いてくださるということを、私たちは今日の一日もまた心に感じつつ、神の御前に正直な者でありたいと願いつつ、その時を過ごすことができますようにと祈りたいと思います。私たちひとりひとりが今日も、神の守りと平安に生きることができますように。心からお祈りします。

09/02/2026

2026.2.9(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた2月1日の旧約聖書のことば
レビ記19章33節
もしあなたがたの地で、寄留者があなたのもとにとどまっているなら、虐げてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた2月1日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章14節
(イエスの言葉)私の命じることを行うならば。あなたがたは私の友である。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
衆議院議員選挙が終わりました。自由民主党が単独3分の2の議席を獲得したニュースで、朝から持ちきりです。どんな理由や背景があれ、これが「国民の意思」なのだということを、強く感じさせられました。政権を担う与党、それに対峙する野党がそれぞれの使命というものに、真摯に向き合って欲しいと思います。それに、私自身としては、ひとりのクリスチャンとして、イエスがこの地に示されたその価値観を自分の生き方として大切にする者として、支持できるところは積極的に支持していきたいし、支持できないことは毅然とした態度を明らかにできるよう、世の中の動きに敏感な者でありたいと、改めて思わされた次第です。
 
そのようななかで、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、その思いを高めるものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスの言葉でした。イエスの命じられる言葉に同意し、それを実践する者ならば、イエスの友としていただけることの幸いを、イエスは私たちに語られています。イエスの命じられる言葉とは何でしょうか。それは「神がつくられた人間の尊厳が大切にされること」以外になにもありません。私は「神がつくられた」というところに、強調点があると思います。造り主である神は、ご自分の思いや願いをつくられた万物、そして人間に込められました。
 
つまり、神の思い(つまり神のみ心)が明らかにされてこそ、尊厳や人権というものがゆがみなく働くということを、私たちがどれだけ真剣に受け入れることができるかということが、とても大切であると私は思っています。神が不在でも、人権や尊厳を語ることができるし、友という言葉を用いて、人間関係を構築することは可能です。しかし、これらの言葉をめぐって、どれだけの衝突があり、いさかいがあり、人間関係の崩れの元となるかということをも、私たちはよく知っています。神にある尊厳、神にある人権、そして、神があって初めて友という言葉の本質が大切にされて、本当の友としての関係がつくりあげられると私は信じたいのです。
 
今日の旧約聖書の言葉は、「寄留者を守る」という、神の命令の言葉でした。寄留者、つまり立場の弱い人たちを守るという、誰もが受け入れることのできる言葉でしょう。しかし、誤解を恐れず申し上げれば、この言葉がどれだけこの世界で大切にされているかと言えば、それは甚だあやしいものと言えるのではないでしょうか? 弱い者を守ると言いながら実際にはそれになり得ていない世の中があるのです。私は、ここに「神不在の世界」があると私は思えてならないのです。
 
私は思います。神を信じていないから神不在というわけではなく、神を信じていても神不在の世界はいくらでも存在します。だからこそ、神のみ心はどこにあるのかということに、真摯に向き合うということが、この聖書の言葉が与えられた者としての務めなのだと強く感じさせられます。だからこそ、今日もこの言葉を胸にして、その言葉の示す本質というものを大切にして、自分の生活を、日本の未来に向かって歩む一日を大切にしていきたいと願わされました。
 
 神の言葉に聴き、それを自分の胸に手を当てながら、その言葉を大切にすることのできる一日でありますように。皆さんの一切に、神の平安と祝福をお祈りします。

08/02/2026

2026.2.8(日)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた2月1日の旧約聖書のことば
ホセア書6章4節
お前たちの愛は朝の霧
すぐに消えうせる霧のようだ

旧約聖書に応じて選ばれた2月1日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章9節
(イエスの言葉)私の愛にとどまりなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい週が始まりました。今週はどのような七日間が待ち受けているか、心を弾ませながら迎えられたらと願いますが、どんなことがあっても、私たちの行く道を守ってくださる神が、私たちの旅路にともなってくださいますように。お祈りします。
 
さて、今日のローズンゲン黙想ですが、私が間違えて、今日のものを2月1日に掲載してしまいましたので、こちらをクリックしてお読みくだされば幸いです。ということで、今日は2月1日の聖句の黙想をしたいと思います。ふたつの聖句に共通するワードは「愛」でした。
 
ギリシア語で愛を表す言葉は9種類ある。私が講師をしている大学の授業で、そんなことを学生たちにそんなことを教えています。それらの愛のなかで、もっとも有名であり比較しやすい愛は「アガペー」と「エロース」であると言われています。アガペーとは、聖書全体を貫いている神の愛、イエス・キリストが私たちに示された愛であり、自分の利益を差し置いて他者のために働く愛のことであり、エロースとはしばしば「性愛」と訳されるものではありますが、元来は自分の欲求を充足させる、つまり自分の利益のために、他者にそれを求める愛であって、アガペーと対極のものであると言われています。
 
そういう意味で言えば、これらふたつの愛について、2月1日の聖句の旧約聖書部分はエロースの愛であり、新約聖書部分はアガペーであると言えるでしょう。エロースの愛は、その一瞬一瞬については燃え上がるような情熱があるかもしれないけれど、熱が冷めたら跡形もなくなってしまうものなのであり、アガペーの愛は、決して消えることなく、私たち人間のために働き、私たちにともない続けてくださる愛であるというのです。
 
私たちはそのアガペーに支えられているからこそ、エロースの愛もまた、バランスの取れた仕方で用いることのできるものなのかもしれません。エロースがアガペーを上回った時に、人間関係、そしてなによりも神との関係において、ゆがみやひずみが生じてくるのでしょう。そのことを心にとどめつつ生きることの大切さというものを、是非受け止めたいと思いました。
 
どうぞ今日の一日も、アガペーを私たちに示してくださる神が、私たちを愛にあふれた道へと導いてくださいますように。心からお祈りします。

07/02/2026

2026.2.7(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章6節
その主権は増し、平和には終わりがない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章14節
キリストは、私たちの平和。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。今週90歳の誕生日を迎えた私たちの教会メンバーの方が、こんなことをおっしゃっておられました。歳をとればとるほど、あっという間に時間が過ぎてしまう、と。しかし、その方はまだまだできることがあるのだと、意欲が十分におありなのです。私はその方の姿勢に大いに学ばされました。あっという間に過ぎてしまう時だったとしても、その時をも次の時へとつなぐ大切な時としているのだと。来週につなぐ今日の一日を、聖書の言葉によって始めることの幸いを望みつつ、今日も神のみ言葉に聴きたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉に共通するワードは「平和」です。神の子の世界に対する願いであり、価値観そのものと言える言葉に間違いありません。しかし、神が望まれる平和とは何か。そのことを私たち人間が考えるときに、私たちの価値観というのは千差万別であることに気付かされます。
 
ある人は平和のために非暴力を訴えます。しかし、ある人は平和のためには暴力もやむを得ないと考える人もいます。戦争などにいたっては「平和のために戦う」という大看板を掲げて、人の命を犠牲にするのもいとわない態度が、私たちの世の中に渦巻くこともありますし、実際にそのような光景が今日も繰り広げられています。そのようななかで、私たちはどのような「平和」を心から望み、その平和を実践するものであることが大切なのでしょうか。これは私たちにとっての永遠のテーマと言えるでしょう。
 
聖書が伝える平和とは、神が望まれる平和であり、その平和観というものは、イエス・キリストによって具体的に示されました。誤解を恐れず申し上げれば、父なる神が推し進めた平和は、自分の民を守るためにしばしば戦争という手段を是認されました。つまり、そこには命の犠牲があったことを、私たちは否定できません。歴史を通じておこなわれてきた戦争の多くは、「神の御意思によって」と信じた人間によって展開されてきたことを、私たちは認めざるを得ません。
 
だからと言って、私たちはこの神の姿勢というものを、あえて自分自身が実践する必要があるのでしょうか。私は決してそうは思えないし、思いたくはありません。結局のところ、神は平和に対する解決の最終手段として、自らのひとり子であるイエス・キリストを私たちにお与えになられたという事実を、私たちは真剣に受け入れなければならない。私は堅く信じたいのです。
 
イエス・キリストは、人の暴力に刃を向けて対抗するというよりは、むしろそれに耐えて、決して暴力的にことをなすのではなく、神の平和というものを完璧にまで実践されました。ここにこそ、私たちが目指すべき平和のモデルというものがあるのです。暴力のない世界こそ、私たちが心から愛する神の平和に対する価値観であることを、今いちど心に刻みたいと私は心から願わされます。
 
暴力なき闘いというものがあることを、私は信じたいのです。その時にどうしても必要なのは、「神が守ってくださる」ということへの深い信頼の念であって、そのことをキリストの視点から、日々の営みに活かそうとする私の判断と決断なのだと。一週間の終わりにあたって、そのような思いを抱きつつ、来週の歩みへと進んでいきたい。これが私が今日の聖句を通して受け止めたいと思ったことでした。

この世界に平和が訪れますように。そのために、まずは私自身の心が、平和な思いへと神が導いてくださいますように。その導きに従って、今日も健やかに歩むことができますように。そんなことを心から祈りつつ過ごしたいと思います。皆さんの一日にも、平和の主なる神がともにいてくださいますように!

06/02/2026

2026.2.6(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ダニエル書9章7節
主よ、あなたは正しい方です。しかし、今日このとおり、私たちは、恥辱に直面しています。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書25章45節
そこで、王は答える。「よく言っておく。この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日も皆さんに生活を与えてくださった神が、皆さんをご自分の道へと豊かに導いてくださいますように。皆さんの神にある祝福と平安を、心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「恥辱とはなにか」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、ダニエル書9章の一節でした。バビロニア帝国によって捕虜の身とされたユダヤの民のなかから、神の言葉を預かり、それを伝える預言者として立てられたダニエルが、民族を代表して神に祈りをささげている。その祈りの言葉の一部が、今日の聖句となっています。
 
なぜ、私たちは祖国を追われ、辛酸をなめ、恥辱を味わっているのだろうか。ダニエルはその理由を「自分たちの父祖が神の思い願いに沿って生きなかったから」と自覚し、神と歩調を合わせなかった先祖たちの「罪」を、今自分自身が自覚的に負い、神へざんげの祈りをささげているのです。
 
しかし、ダニエルはそのような悲惨な状況にあっても、神が私たちを愛し、憐れみ続けてくださっていることも自覚していましたから、そのことも祈りのなかで感謝の言葉としてささげていることが、他の節から読み取ることができます。そして、それは「神である主の正しさ」から来るものであることをも、ダニエルはよくわかっていました。
 
決して人にその責任を被せるのではなく、その責任から逃げるのでもなく、神への感謝の念を忘れることなく、神とともに歩むことの幸いを自覚しつつ、その幸いを心から願う祈りを、ただ謙虚に神へささげたのでした。今、自分自身が神の御前にあって弱く、小さくされた者なのだというのが、ダニエルの偽らざる心境だったのです。
 
この謙遜な意識があったからこそ、ダニエルは同胞のために祈ることができたのでしょう。同胞が神によって救われることを信じつつ、接することができたのでしょう。このモデルこそ、今日の新約聖書の言葉に相通じるのかもしれません。
 
この最も小さな者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしなかったのである。イエスは弟子たちにそのようなことを弟子たちに語りました。今日の新約聖書の言葉です。「この最も小さな者の一人」とは誰でしょうか。周りを見渡す前に、まず自分自身がそのような者であるという深い認識があるならば、決しておごり高ぶることなく、神の憐れみの心をもって、他者に接することができるのだと、私は受け止めたいのです。
 
神の憐れみが行きわたるとき、それはイエスの心に応えることにもつながるのだ。私に対してしたかしなかったかというのは、イエスが私たちに示してくださったその価値観と生き方に、私たちがいかに応答しているかということへの問いが、私たちに与えられているということなのだと、私は受け止めたいのです。
 
今日も、そのような言葉が私たちの心に浸みわたり、神にまなざしを向けて祈り、自分の心を整え、新しい一日の旅路を歩むことができますように。神の守りと憐れみを、心からお祈りします。

05/02/2026

2026.2.5(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編16編1節
神よ、私を守ってください。私はあなたを頼みとしているのです。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙二3章3節
主は真実な方です。あなたがたを強め、悪しき者から守ってくださいます。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は朝から慌ただしくしておりましたので、一段落した夕方に黙想をつづっています。朝に読んでくださる皆さんには、申し訳ないかぎりです。静かな夕べのひと時に、今日の聖句に心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日選ばれた旧約聖書と新約聖書をつなぐ言葉は「主の守り」でした。神である主が、私たちひとりひとりを大切なものとして守ってくださる。今日の聖書の言葉は、それ以上もそれ以下もなく、ストレートにその言葉を私たちに伝えているのです。
 
以前も紹介しましたが、この『日々の聖句(ローズンゲン)』の出版元は「ヘルンフート兄弟団」という、18世紀のドイツで誕生した信仰共同体です。チェコ・ポーランド・ドイツの国境近くにあるヘルンフートという小さな村で、この土地の領主であったツィンツェンドルフ伯爵が、迫害から逃れてきた信仰者を庇護したことで共同体が誕生しました。
 
この「ヘルンフート(Herrnhut)」という地名が、「主の守り」という意味を持つものなのです。神である主がこれらの信仰者たちをしっかりと守ってくださる。この信仰にたった人たちが、この地に住むようになったのでした。
 
しかし、主は守ったとしても、そのことを信仰者が心の底から実感するまでは時間がかかりました。彼らは自分たちの信仰観の違いから、その関係は徐々に悪くなり、とうとう修復不可能というところまできてしましました。
 
そのようななかで、彼らはともに祈りをもっていたときに、聖霊の導きを受けます。そして気づきました。「私たちをひとつにするのは『神の言葉』である」と。ここから、その日を生きる「合言葉(ドイツ語でローズンゲン〔複数形〕)」となる日々の聖句が誕生しました。以後、300年近くにわたって、その日の聖書の言葉が「くじ」などによって選ばれています。
 
このエピソードから、私たちは聴くことができます。どんなに主が守ってくださるという事実があったとしても、そのことを私たちが実感するということこそ、大切なのだというのです。神が真実な方であることを、私たちの心や思いが、時に阻み、拒み、ゆがめて自分の都合の良いように解釈してしまうのが、私たち人間なのです。ヘルンフートの人たちがそうであったようにです。
 
しかし、彼らは気付くことができました。主の守りは主の言葉によって、聖霊の導きによって私たちが感じ取ることのできるものなのだと。そのことを実感したいからこそ、私たちに日々神の言葉が与えられているのだということに、今日も私たちは少しでも想うことができるのであれば、そこには神の豊かな守りが、私たちにとっての大きな励みとなるのだと。そのことを、夕べのひと時に再び感じ取りたいと願わされました。
 
今日も残り少なくなりました。どうぞ皆さんのそれぞれの夜の予定が、主の守りによってますます祝福されますように。心からお祈りします。

04/02/2026

2026.2.4(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書17章7~8節
主に信頼する者は、水辺に植えられた木のように、流れに向かって根を伸ばす。干ばつの年が来ても心配せず、絶えることなく実を結ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書15章5節
(イエスの言葉)私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっているなら、その人は豊かに実を結ぶ。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日も触れましたが、暦のうえでは立春。今日から春が始まるとはありますが、東北は2月が一番寒さ厳しいときであるという認識が私にはあります。今日は春のような天気であるとの予報のようなので、小春日和の気分を少しでも味わいたいと思います。皆さんの一日が、神様による祝福があふれますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神につながれて、そしてつながる」ということについてでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
 
「つながれる」と「つながる」という言葉に、私は注目したいと思うのです。「私たちがつながろうとするから、神がつながってくださる」ではありません。「神が私たちにつながってくださるから、私たちはつながることができる」のです。
 
私たちは往々にして、この主客を逆転してしまうことがあるのです。神は私たち一人ひとりに「自由意思」というものをお与えになられました。ですから、私たちはどのように感じ、思い、行動するかは、何かに束縛されることなく自由にされているという大前提があります。
 
ただ、この前提に基づいた私たちの感情や思考、言動というものが、この世界をゆがませていることも、紛れもない事実なのです。その原因は、私たちの「自由の誤用」にありますし、その自由には「責任」がともなうということに耐え切れず、いとも簡単に放棄してしまうことで、そのゆがみはますます顕著なものとなってしまう。これが世界の、そして私たちの現実なのです。
 
だからこそ、「私が神につながって生きる」という言葉に触れたときに、つながろうとしている神は、どのような方で、どのような思いと願いをもって、私たち一人ひとりを取り扱ってくださるのだろうかということに、思いを深く寄せたいのです。その神を知ったときにこそ、私たちは、神によってつながれているその手を、どうするかという判断と決断にいたるのだと私は思うのです。
 
今日のローズンゲンに示された聖句は、どちらも「水源」と「水脈」について言及するものでした。ここで言う水源とは、紛れもなく私たちの神であり、その神が私たちに与えられた救い主イエスのことを指します。その水源からあふれ出す水が、水脈を通って命を潤すとあります。水脈とは、私たちの自由意思や意識認識のことを指すのでしょう。
 
私たちは、各々に与えられた水脈を整えるということに、注意を傾けることの大切さというものを、今日の聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのです。水脈が壊れていたり、簡単に毒を入れることのできるようなものであるならば、良いことは何ひとつないのだということを、私は心に留めて、今日の一日を歩みたいと思わされました。
 
神の水源、私たちの水脈が、命を活かす水として、私たち一人ひとりを潤すものとなりますように。神の守りと平安を、心からお祈りします。

03/02/2026

2026.2.3(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言17章5節
貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章5節
神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日は節分。暦のうえでは冬と春との境目にあたる一日ですが、まだまだ寒さが募る日を、私たちは今日も過ごすことになりそうです。しかし、「冬来たりなば春遠からじ」の言葉にもあるように、春は着実に近づいている。実際の天気のみならず、もし、私たちの心に「冬の季節」があるならば、必ず芽吹く春がやってくる。そんな気持ちを抱きながら、今日の聖書の言葉にも心を傾けていきたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「貧しさ」についてです。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
今日選ばれたふたつの聖句は、いずれも私たちの貧しさについて、神はどのように思われているかについて書かれたものであると私は受け止めました。貧しさを決してあざけったり喜んだりすることを望まれない。また、私たちの貧しさに神はイエス・キリストという信仰の実体をお与えくださり、神の世界・価値観を豊かにお与えになられるのだと、聖書の言葉は私たちに示しているのです。
 
昨晩のことです。親しくしている近所のある方と会話をしていました。その方はクリスチャンではありません。しかし、その方の姿勢から多くを学ばされることが多く、とても考えさせられるひと時をいただきました。その方は言います。「人のことを悪く言えば、それは最終的に自分に返ってくるのだ」と。
 
心をブスッと刺されるひと言でした。人の不幸は蜜の味と言いますし、貧しさというものを笑いのネタにすることもあるでしょう。しかし、そのようなことをすればするほど、良いことなど何ひとつないのです。その方の話を聴きながら、私は、神との関わりについて心のなかでいろいろ思い巡らせていました。
 
神は本来、貧しさなどというものを望んでなんかおられない。しかし、どうして貧しさがあるのだろうか。その原因の100%が、私たちの持つ「心の貧しさ」に起因しているのだと私は改めて思わされました。私自身の心の貧しさが、人から豊かさを奪い取って、その人が貧しくされている姿を見ては、あざけったり喜んだりするのだと。春が来るのを待つ前に、人の春を奪い取って、自分だけが春になろうとする態度こそ「貧しさ」なのだと。そんな風に感じたのでした。
 
貧しさを望んでおられない神がおられるのに、私たちが貧しさにしがみつき、貧しさを抱え込んでいる姿そのものが、結果的に神の思いをそしるものとなるのだと、私は受け止めました。だからこそ、神が与えてくださる豊かさとは何なのかということに、じっくりと心を寄せて、その豊かさによって生きるということを大切にしたいと思ったのです。
 
神は、イエス・キリストという実体と、イエス・キリストを通して明らかにされた「生き方の証明」を、私たちに惜しみなく与えられました。それが具体的に豊かさとして、私たちに示されていることを思えば、私たちが神の豊かさを受けることができるとすれば、それは、イエス・キリストの生き方から、私たちが大いに学ぶところがあるということなのだと思うのです。
 
自らのうちにある「貧しさ」というものを見つめ、それに気づいたときに「幸いである」とイエスは言われました(マタイ5章)。貧しさが良いとは言いません。貧しいからこそ、神の豊かさをより一層求めたいのです。冬来たりなば春遠からじ。そんな思いをもって、節分の一日を過ごすことができますように。神の豊かさが私たちのあいだに豊かに注がれることを願い、心からお祈りします。

02/02/2026

2026.2.2(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
士師記3章9節
イスラエルの子らが主に叫び求めたとき、主はイスラエルの子らのために一人の救助者を起こして、彼らを救われた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙10章35節
ですから、自分の確信を捨ててはいけません。この確信には、大きな報いがあります。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
最初にお詫び申し上げなければならないことがあります。昨日(2月1日)に掲載しました黙想ですが、一週間後(2月8日)の聖句であることに、あとで気付かされました。まことに申し訳ありませんでした。2月1日の聖句黙想については、大変申し訳ありませんが、2月8日に掲載したいと思います。どうぞお許しくだされば幸いです。よろしくお願いします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、私たちのために世界を平和へと導く指導者が、必ず与えられることを約束するものでした。旧訳聖書・士師記で言及されているのは、最初の士師となったオトニエル、新約聖書・ヘブライ人への手紙で触れられているのは、私たちの救い主イエス・キリストでした。
 
あらためて「士師」という言葉について考えてみたいと思いますが、「裁き人」という言葉にも訳すことのできるものです。裁きという言葉を聞くと、断罪することだけを目的としているように聞こえてしまいそうですが、実際には何かを、誰かを罪に定めるというのは、裁きがもたらす働きの一部にしかすぎません。
 
裁き人の使命とは、世の中に散在する善悪を「判断」し、その判断に基づいて、人間がそもそも有している「良心」が活かされるべく働きかけ、人民にひとつの基準を提示して、その基準に基づいて統治するというものです。イスラエルにおける最初の士師となったオトニエルは、そのような使命を神から与えられました。
 
オトニエルにとって、その基準とは「父なる神のみ心」そのものでした。イスラエルをエジプトの奴隷状態から導き出した神、民をこよなく愛し、戒め、良いものを与え続ける神、この神の基準が、オトニエルが士師として生きるために、なくてはならないものでした。
 
オトニエルによって、混雑したイスラエルの民は平安を得ることができました。自分たちの命と生活が救われました。このことが、究極的にこの地に住むすべての人たちにも与えられたのは、イエス・キリストが私たちに与えられたことによってでした。今日の新約聖書の言葉は、イエスというキリスト(救い主)が与えられた私たちの態度について、言及している言葉なのです。
 
イエス・キリストという実体が、私たちのために示してくださった証明こそが、私たちの信仰そのものであり、平安のうちに生きる確信となるのです。目の前の出来事に囚われることなく、希望をもって、キリストが与えてくださる信仰を確信あるものとして、しっかりと握りしめたい。これが、今日の聖句から黙想したことでした。
 
私たちの今日の生活もまた、裁き人が提示してくださる良心のありかたについて、神の助けを十分にいただきつつ、自分自身の確信とすることができますように。神が皆さんを守り、平安を与えてくださいますように。祝福を心からお祈りします。

01/02/2026

2026.2.1(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編126編3節
主は、私たちに大きな業を成し遂げてくださった。私たちは喜んだ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録2章46~47節
そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間がやってまいりました。この初日、世界中のすべての教会や集会で行われる礼拝をはじめとする祝祭のすべてが、神の祝福に包まれますように。心からお祈りします。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句、特に新約聖書の言葉は、今日礼拝の機会をいだだく私たち一人ひとりにとって、是非心にとどめたい聖書の言葉であると、私は受け止めたいと思いました。そのことについての黙想をつづりたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉である、使徒言行録2章の終わりにある言葉は、聖霊の力に満たされ、支えられたクリスチャンが、どのような生活を営んでいたかについて記したものです。私たちはこの言葉の「どこ」に注目することができるのでしょうか。
 
ごく初期のクリスチャンは、互いのものを持ち寄って、その財産を共有する関係性をもって信仰生活を歩んでいました。しかし、大切なのはそこではないと私は考えています。そうではなくて、互いに神をあがめる「喜び」を共有していたというところに、私たちは注目すべきであると考えています。その姿は、周囲から「好意」を持たれるほどでした。
 
神が与えてくださる喜びを共有することができたのは、まさに聖霊様の働きに他なりませんでした。人間が集団となると、喜びに満ちあふれることはそう簡単ではないということは、私たちは経験からよく知っているはずです。人と人とがそれぞれの思いが衝突することはしばしばあるからです。実際に、新約聖書に収められている多くの手紙は、教会に少なからず問題が発生していたことが記されている通りです。
 
喜びは自己努力では実現することができません。だからこそ、神の助けがどうしても必要なのです。それが「聖霊の働き」なのです。聖霊の働きは、私たち各人の思いが、神の価値観によってひとつとされるために、なくてはならないものなのです。この出来事を見逃してしまうと、いとも簡単に、私たち個人の感情がぶつかり、思いがばらばらになってしまうのです。
 
私たちは神から与えられた個性や賜物というものを、大切にするのは本当に重要なことです。それらを互いに尊び合うことができるとすれば、その土台となる「キリストの価値観」を自分のものとする必要があります。この土台があってこそ、個性が輝き、それぞれに与えられた賜物を活かしあうことができるのだと。これは私自身の働きではなく、神が成し遂げてくださる業そのものなのです。
 
これを人の力だけでしようとすると、必ずゆがみが生じます。もし、私たちの間に何らかの問題が生じるのであれば、まず、私自身の心が、心から生じる思いや行動が、どこに因るものなのかを、神との対話のなかで、聖書の言葉に聴きながら、真摯に問うことが必要なのでしょう。私たちは、聖霊様の助けが聖書の言葉に乗せられて私たちの心に運ばれるときに、そこには、神が与えてくださる喜びを、初期のクリスチャンのように、必ず味わうことができるのだと、心から神に期待して、家庭で、教会で、社会で、自分に与えられている分というものを、今日も果たすことができるのです。
 
私自身が周囲から好意を寄せられるために、そのことをするのではありません。あふれだす喜びと行為は、神が私たちに十分に関わってくださった結果なのです。そのことを心ぼ希望として、今日という一日を、今日から始まる一週間を始めてまいりたいと思いますし、神が私たちに良いものを与えてくださることを信じて、歩みたいと願わされました。
 
皆さんの歩む一日に、神が喜びを確実に授けてくださいますように。そして、私たちが聖霊様の助けを、存分にいただくことができますように。神にある守りと平安を、心からお祈りします。