くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言17章5節
貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヤコブの手紙2章5節
神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
******
皆さん、おはようございます。
今日は節分。暦のうえでは冬と春との境目にあたる一日ですが、まだまだ寒さが募る日を、私たちは今日も過ごすことになりそうです。しかし、「冬来たりなば春遠からじ」の言葉にもあるように、春は着実に近づいている。実際の天気のみならず、もし、私たちの心に「冬の季節」があるならば、必ず芽吹く春がやってくる。そんな気持ちを抱きながら、今日の聖書の言葉にも心を傾けていきたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「貧しさ」についてです。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
今日選ばれたふたつの聖句は、いずれも私たちの貧しさについて、神はどのように思われているかについて書かれたものであると私は受け止めました。貧しさを決してあざけったり喜んだりすることを望まれない。また、私たちの貧しさに神はイエス・キリストという信仰の実体をお与えくださり、神の世界・価値観を豊かにお与えになられるのだと、聖書の言葉は私たちに示しているのです。
昨晩のことです。親しくしている近所のある方と会話をしていました。その方はクリスチャンではありません。しかし、その方の姿勢から多くを学ばされることが多く、とても考えさせられるひと時をいただきました。その方は言います。「人のことを悪く言えば、それは最終的に自分に返ってくるのだ」と。
心をブスッと刺されるひと言でした。人の不幸は蜜の味と言いますし、貧しさというものを笑いのネタにすることもあるでしょう。しかし、そのようなことをすればするほど、良いことなど何ひとつないのです。その方の話を聴きながら、私は、神との関わりについて心のなかでいろいろ思い巡らせていました。
神は本来、貧しさなどというものを望んでなんかおられない。しかし、どうして貧しさがあるのだろうか。その原因の100%が、私たちの持つ「心の貧しさ」に起因しているのだと私は改めて思わされました。私自身の心の貧しさが、人から豊かさを奪い取って、その人が貧しくされている姿を見ては、あざけったり喜んだりするのだと。春が来るのを待つ前に、人の春を奪い取って、自分だけが春になろうとする態度こそ「貧しさ」なのだと。そんな風に感じたのでした。
貧しさを望んでおられない神がおられるのに、私たちが貧しさにしがみつき、貧しさを抱え込んでいる姿そのものが、結果的に神の思いをそしるものとなるのだと、私は受け止めました。だからこそ、神が与えてくださる豊かさとは何なのかということに、じっくりと心を寄せて、その豊かさによって生きるということを大切にしたいと思ったのです。
神は、イエス・キリストという実体と、イエス・キリストを通して明らかにされた「生き方の証明」を、私たちに惜しみなく与えられました。それが具体的に豊かさとして、私たちに示されていることを思えば、私たちが神の豊かさを受けることができるとすれば、それは、イエス・キリストの生き方から、私たちが大いに学ぶところがあるということなのだと思うのです。
自らのうちにある「貧しさ」というものを見つめ、それに気づいたときに「幸いである」とイエスは言われました(マタイ5章)。貧しさが良いとは言いません。貧しいからこそ、神の豊かさをより一層求めたいのです。冬来たりなば春遠からじ。そんな思いをもって、節分の一日を過ごすことができますように。神の豊かさが私たちのあいだに豊かに注がれることを願い、心からお祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿