02/01/2026

2026.1.2(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編115編13節
主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も大いなる者も。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一3章9節
悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたからです。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用

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皆さん、おはようございます。昨日は元日をそれぞれのご予定で過ごされたと思います。私は、午後から「仙台キリスト教連合」主催の新年合同礼拝へ出席しました。超教派の地域教会連合体です。会場はカトリック教会で、説教者は聖公会司祭、実にエキュメニカルな礼拝の機会をいただきました。「キリストにあってひとつ」であることの大切さを改めて思わされた次第です。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するキーワードは「祝福」でした。この祝福について黙想をつづりたいと思います。祝福とは何でしょうか。祝福の源である神が、私たちを生きる喜びへと導いてくださるために無くてならないもの。これが「祝福」です。
 
今日の聖句、旧約聖書・詩編115編に記されているのは「主を恐れる者」が神からの祝福を受ける者である、というものです。恐れるとは恐怖ではなく畏怖のことです。報復されること、断罪されることを恐れて神に向き合うのではありません。神のスケールの大きさゆえに、私たちはただ神の御前にかしこまるしかない。そのような畏れ多い気持ちは、むしろ親近感を私たちのうちに呼び起こすものであるかもしれません。私のためにもっとも大切で、もっとも良いとされる道を備え、提示される方。この方こそ私たちの神なのです。
 
その神が私とともにいてくださることへの深い信頼が「主を恐れる」という言葉に集約されています。そのような方と一緒にいるからこそ、自らの姿というものを振り返り、吟味し、よりふさわしい形をもって生きようという思いを、私たちのうちに起こさせる源泉となるのでしょう。そのような思いを、私たちの神はよくご存知になられたうえで、私たち一人ひとりに祝福を存分に注いでくださるというのです。神は確かに怖い方なのでしょう。しかし、その怖さにびくびく震え上がることがあるとすれば、私たちは自分自身に何らかの後ろめたさのようなものを抱えているのかもしれません。食べてはならない木の実を食べた後、神が怖くてなかなか姿を現わすことができなかった、あの人間夫婦のようにです。
 
それで大切なことは、祝福を神からいただいた私たちの自覚というものが、他者に対しても神の祝福をもって相対し、他者のために祈り、行動する思いへと揺り動かすものがあるということです。これこそ、今日の新約聖書で言わんとしていることなのではないかと思わされました。侮辱されることは気持ちの良いことではありません。私も時々侮辱されることがあります。特にSNSが人々のあいだに広がるなかで、自分自身の発言というものに責任を取らなくても、自由に発言できる市民権のようなものが簡単に手に入るようになりました。だからこそ、いとも簡単に人を侮辱する、それに同調する風潮というものが高まっているのだと、私も自戒を込めて思わされます。
 
だからこそ、投げつけられた侮辱に対して侮辱で返すのかということが問われているのだと。侮辱するのは簡単です。しかし、神からいただいた祝福を抱いた生き方をすることからは離れてしまう。侮辱ではなく健全な建設的批判をし、その批判にも神の祝福がきらりと光るような言動を心がけたい。私の2026年における抱負のひとつにしたいと思わされました、あらためて良い聖句だなと感じました。
 
どうか、今日の一日も神が与えてくださる祝福にふさわしい生活を実践することができますように。心からお祈りいたします。

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