05/12/2025

2025.12.5(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編85編8節
主よ、慈しみを私たちに示し
救いを与えてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書4章22節
救いはユダヤ人から来る。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日も自宅でゆっくりと休んでいたため(午前中は教会の祈祷会に参加して、参加者の方々に祈っていただきました!)、昨日よりもなお体調が戻ってきた実感があります。ちなみに昨晩、現在お怪我をされておられる教会メンバーの方とお話をしていましたが、「今日の祈祷会でも祈りましたよ」とお話しましたら、その方から「祈りの力を感じます!」とのお返事をいただきました。とても心強い思いが、自分自身を内側から元気にされていくのを感じているとのことでした。神に見守られていることの幸いを噛みしめながら、今日も御言葉に聴きたいと思います。
 
今日の聖書のことば、特に新約聖書の言葉は、決して「ユダヤ至上主義」を謳ったものではないということを、最初に申し上げたいと思います。言葉というものは時に恐ろしい力を発揮することがあります。あるフレーズを「切り取る」ことによって、その文脈を無視した言葉の意味というものを利用することができるからです。今日の新約聖書の言葉などは、私たち人間の救いというものがユダヤ(イスラエル)から来る、などと聞けば、現在世界の話題となっているイスラエルによる武力行使を正当化するような言葉にも聞こえてくると思うのは、私だけでしょうか。
 
イエスがこの言葉を語られたのは、いわゆる「サマリア人の女」に対してでした。サマリア人はユダヤ人にとって忌避されていた存在でした。そのような存在であった人物に対して、イエスは「救いはユダヤ人から来る」と仰せられました。しかし、その意図は、決してユダヤ人をサマリア人に勝ったものとして言いたいのではありませんでした。むしろ逆であり、サマリア人に神の救いが豊かに臨むことを示すイエスの意図が大いに含まれていたことを示すひと言だったのです。
 
サマリア人の女は、この会話に続いて、霊と真理をもって父なる神を礼拝する時が来たことを実感します。そして、目の前におられるイエスこそ、私にとっての救い主であることを確信するにいたりました。そこにはユダヤ人であるイエスに対する、民族的優劣のようなものは何も見い出せません。ただ、神の御子であるイエスを何の妨げもなく受け入れる一瞬があったことを私たちに思い起こさせるのです。
 
私たちは見えるところで、人と人とを分け隔てます。優劣を定めて格差を決め、他者に対してゆがんだ見方をしてしまう存在なのです。しかし、神の目から見たら、そんなことは甚だくだらないことで、私たちはそういう些細なところで一喜一憂してははしゃいでみたり落ち込んでみたりするような哀れな存在なのだと思うのです。
 
しかし、そんな私たちに神は憐れみを示してくださいました。イエスという救い主を与えてくださることによってです。私たちの哀れな姿から少しでも逃れることができるように、そして、ゆがんだ見方から私たちを解放させるために、イエスは私たちのもとに来てくださいました。そのイエスが今日も、私たちとともに生き、そして働いてくださる。本当に感謝なのです。このイエスとともに歩みたい。そんな思いに導かれたことは言うまでもありません。
 
今日の皆さんの大切な一日が、そのような神の憐れみにしっかり守られながら歩むときでありますように。お祈りします。

1 件のコメント:

  1. 共有ができませんので、ここで、コメントさせて頂きます。斎藤篤牧師の健康がもとに戻りますように。そして明日の礼拝の為に宣教メッセージが整えられますようにお祈り致します。

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