くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編84編11節
あなたの庭で過ごす一日は
私の選んだ千日にもまさる。
神の家の戸口に立つことは
悪の天幕に住まうにもまさる
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書2章49節
すると、イエスは言われた。「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるはずだということを、知らなかったのですか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。一週間も今日で最終日を迎えました。皆さんにとってのこの七日間、どのような出会いがあったでしょうか。さまざまな出会いのなかで、そこから私たちが神によって生かされていることの幸いを振り返ることができますように。そんな思いをもって、今日のローズンゲンにしめされた御言葉に心を傾けてまいりたいと思います。
今日示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは、「私たちにとって最高の出会いというものでした。そのことについての黙想をつづりたいと思います。
私たちが日々出会うさまざまな出来事や人々があったりいたりします。私自身も、今週の日曜から始まった七日間は、実に多くの出会いがありました。教会での出会い、月曜には他教会の方々との出会い、そして火曜からは台湾にある多くの方々との出会いがありました。どれもこれも、私自身の心が躍る喜びにあふれた出会いであることは間違いありませんでした。
しかし、私は思うのです。それら数多くの出会いのひとつひとつに、私たちの神である主との出会いがその時ごとに与えられているということをです。私たちは物理的に出会いを経験します。しかし、そのことを単なる「出来事」だけでとらえるのではなくて、一見すると何の意味ももたらさないような出会いの機会であったとしても、そこにどのような意味があるのか、どのような意味が神によって与えられているのかということに思いを寄せることもできるのです。そのことを通して、私たちは出会いはまさに神との出会いなのだという実感へと導かれるのだ。私はそのように受け止めたいのです。
今日の新約聖書の聖句は、少年であったイエスが神殿で神との出会いを喜びのうちに経験したことについてのエピソードが収められています。両親はイエスはどこへ行ってしまったのだろうと心配しました。しかし、そんな心配をよそにイエスは神との出会いを通して、自分が今ここにあることを喜んだのでした。神殿をただ詣でるということ以上に、その意味をイエスは問うたがために、喜びを味わうことができたのでした。その思いこそ、今日の詩編の一片にもありますように、主の家で過ごす一日は、千年にもまさる喜びを人に提供しているのだということができるのでしょう。
私は、ついつい見逃してしまうような些細な出来事であったとしても、そこには神との出会いが必ず備わっているのだということをしっかりと受け止めたいと思いました。このことに気付くことのできる心が、神によって養われることを心から願いつつ、今週一週間の締めくくりを楽しみたいと思います。今日は研修地の台南から南の高雄へ移動します。そして、明日の高雄での礼拝に備えたいと思います。
皆さんの一日のためにお祈りします。
斎藤篤先生の台湾でのお働きの上に主の加護がありますように。
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