04/08/2024

2024.8.4(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編135編6節
主は何事も御旨のままに行われる
天と地において
海とすべての深い淵において。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙12章11節
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。そして8月最初の日曜日です。私の属する日本基督教団では、この日を「平和聖日」として、平和を心から想い、平和を与えてくださる神を礼拝する日曜日として長年大切にし続けてまいりました。まさに、聖書に書いてある通り、神は平和を愛し大切にしておられる。それは、今日のローズンゲンに示されているように、神の御旨に他なりません。
 
今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節には、神である「主」は、何事もご自分の計画にしたがって行われると歌っています。しかし、私たちはここで考えることができます。なぜ神は何事もご自分の計画を遂行されるはずなのに「御旨」のとおりに実現しないのか。特に平和について考える時、私たちは平和とは逆行するような出来事がこの世の中で、私たちのあいだで、そして私の心にも起き続けていることを、現実の課題として考えさせられているのです。
 
御旨とはなんでしょうか。それは「御心(みこころ)」という言葉でも表現できるものであると考えることができるでしょう。私たちは神の御心を問い、尋ね、これぞ神の御心であると信じて、日々の生活のなかで言動を働かせます。こうして私たちは神の御心に仕える者として生きることができるのです。
 
さて、ある牧師がこんなことを言っているのを聞いたことがあります。それは「御心病」というものです。あることを祈り求めているときに、神の御心が与えられるまであれこれ探し、待ち続けるということがあります。しかし、神の御心を求めていると言いつつも、結局のところは自分の思い通りになるまで、私が納得する答えが得られるまで、「これは神の御心ではない」「あれも神の御心ではない」と、ただ待ち続けるという。それを「御心病」というのだそうです。
 
神の御旨と言いながら、結局自分自身の好みや願望をただ神の御心に押し付けているだけなのだと。これでは、神がご自分の御心を差し出されても、それを自分自身で拒否し、はねのけてしまう。これが人間の病理であるというのです。
 
神が差し出される私たちへの思いは、必ずしも私たちの願望と一致するとは限りません。いや、誤解を恐れず言えば、かなり多くが自分の思いとは別な形で動くことが多くあるわけです。大切なのは、自分の願いとは違うことが展開として進んだとしても、結果としてベストであったということが、私たちの信仰生活のなかでは実に多くあるということなのです。
 
神は私たちの平和のために、人間の思いによらず遂行されようとします。そのときに私たちはどのようにそれを受け止めることができるのでしょうか。神の御心ではないと決めつけて、それを排除するのでしょうか。それとも、自分の思い通りではないけれど、聖書を通して、燃える聖霊の導きにしたがって、そこに聴従することができるのでしょうか。
 
平和というのは、自分自身が良い、自分自身が正しいということだけでは成り立ちません。私たちの生きる社会、共同体のなかで、適当な距離感を保ちつつ、互いの領域を妨げることなく、神の示される光を誰もが浴びることができるように、互いに相務めつつ、神の御心に仕えることができるのだと私は思います。
 
平和とはそういうものなのだ。神が私たちに与えてくださる本当の平和とは何か。そんなことを黙想しつつ、素敵な一週間のスタートを切りたいと思います。皆さんの新しい一日に、神が与えてくださる守りと幸いが、ともに豊かにありますように。お祈りします。

1 件のコメント:

  1. 御心を判断する基準は何なのでしょう。私は、主イエスがここにいらっしゃったら、なんとおっしゃるであろうか、ということだと思っています。その基準で旧約聖書の場面を考えると多くの場合が、罪の表現になります。それでよい、と思います。

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