01/08/2024

2024.8.1(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ヨエル書2章11~12節
主の日は大いなる日で
甚だ恐ろしい。
誰がこれに耐えられよう。
しかし、今からでも
心を尽くし、
私に立ち帰れ――主の仰せ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書1章14~15節
イエスは神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
8月を迎えました。猛暑を超えて酷暑のなかにある皆さんの日々が、健康が神様によって守られますように。災害の地にある方々の生活が守られますように。お祈りいたします。
 
さて、旧約の時代に生きた預言者も、イエスの時代に生きた洗礼者ヨハネやイエス本人もそうなのですが、それらメッセージの中心にあったもののひとつにあったのは「神に立ち帰ること」「悔い改める」こでした。神から引き離されていた人間の、自分自身ではどうすることもできない、根本的な解決を見い出すことのできない状態にあって、そんなみじめな人間の姿というものを神は「私のもとに帰っておいでよ」と招き入れてくれるのです。
 
この神の招きに、私たちは進ませていた歩みを一旦止めて、自分自身の姿というものを見つめることができるのです。こうして思い直しが起きて、自らを受け入れてくださる神の方向へと新しい歩みを始めることができる。これが「立ち帰り、悔い改める」ことの意味であると私は思います。
 
もちろん、方向転換する過程のなかで、自分自身の姿を悔いることもあるでしょう。しかし、そのことで自虐的になり過ぎるのも、私はいかがなものかと思うのです。そうではなく、神の招きに対して自分自身を整えながら、新しい歩みを踏むことのできるほうが、希望に満ちあふれた、実に清々しい営みなのではないか。悔い改めという言葉が、自分の罪というものを最大限に悔いて、意識させることを主眼とするのではなく(悔恨の念を持つのが悪いのではありません)、悔恨の念に囚われるのではなく、神の招きの先に見える「神の国」の喜びへと、私たちの軸足を向けることの幸いというものを味わい知りたいのです。
 
神の国、つまり神の示される価値観に生きることは、自力でなんでもかんでもしようという呪縛から解き放たれます。自分がどんなに歯を食いしばってもできないことに悔やむのではないのです。神の助けが差し出されていることに、私たちは全身を向けて神に良い意味で依存するならば、私たちはその助けで健やかに生きていくことができるのだと。そのために預言者をはじめとする人たちが、そしてイエスご自身が私たちに語られました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と。
 
今日も神の守りと祝福が皆さんとともにありますように。お祈りします。

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