02/02/2023

2023.2.2(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書1章12節
私は、私の言葉を実現するために見張っている。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書5章17節
(イエスの言葉)私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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律法の完成者であるイエス。イエスの宣教活動は、伝統固守にこだわるあまり、本質からかけ離れてしまった律法の理解に、光を投じるものでした。そのイエスの姿勢に惹かれ、多くの人たちがイエスのもとに集まってきました。そんな人々を前にして、イエスは語られました。なぜ私があなたがたの前に来たのか、ということをです。
 
私が来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
そのように、イエスは人々に伝えた「律法の解釈と運用」というものは、決して「新しい」ものではありませんでした。だからと言って律法学者やファリサイ派などの人々によって固守されてきた伝統でもありませんでした。イエスが人々に伝えたかったことは、ずばり「神の御心」がどこにあるのかということで、その御心の本質というものを、イエスはただ人々に伝え、示し、その道にただただ生きられたのでした。
 
教会の「謎ルール」という言葉があります。教会やクリスチャン家庭、そして信仰者個人において大切にしている「私なりの信仰のスタイル」というものがあります。何気なくとらえ、受け止め、そして日々行っているそれらの信仰生活の様式。しかし、突き詰めて考えてみれば、それら行動の「根拠」を、見い出すことができなかったりする場合がないでしょうか。
 
ある人は、それを聖書の言葉を用いて答えることがあるでしょう。しかし、用いられた聖書の言葉を、神の御心に基づいてそれを解釈し、運用しているだろうか。そうしているつもりで、実は自分自身の願望に引き寄せて、その言葉に込められた本質をゆがめてはいないだろうか。そして、自分なりのルールをつくりあげて、それをさも神のご託宣のように扱ってはいないだろうか。そんなことを私自身、御言葉に触れるたびに問わされます。
 
こうしてつくり上げた数々のルールが、謎ルールとなっていく。なぜと根拠を求められても、説明することもできない。聖書の言葉がそう言っているのだからと言いつつも、何となくつじつまの合わない、そんな矛盾を感じながら、聖書の言葉に向き合わなければならない。聖書の言葉を用いるならまだしても、そこにすら至らない私たちの謎ルールが存在していないだろうか。実は、自戒を込めつつも、教会にはそんなルールで満たされていることが、決して少なくないように感じるのです。
 
おそらく、イエスの時代の律法学者やファリサイ派の人々というのは、自分たちの側に引っ張り込んだ、そういった謎ルールをいっぱいに抱えながら、それを披露し、人々に守ることをなかば強要していたのではないだろうかと思います。そこに現れたのがイエスでした。イエスは、律法や預言者によって表された「神の言葉」を否定し、廃止するつもりは毛頭ありませんでした。あくまで、神の言葉の本質を明らかにすることによって、それを完成させる者として、この世界に、そして私たちの前にやってきたのだと。そのように人々に告げられました。
 
律法をはじめとする神の言葉に示された本質。それは「神の愛(アガペー)」です。自分を犠牲にしてでも大切にされる、他者への愛そのものです。イエスは、心と魂と思いを尽くして神を愛することと、隣人を自分のように愛することこそ、律法全体を包含する本質なのだと宣言されました(マタイ22:36-40)。この愛が、実際私たちの生活に及んだ時に、私たちにどのような変革をもたらし、この世界をつくりあげる土台となっていくのか。じっくりと黙想しつつ、今日という一日を歩んでいきたいと願わされました。
 
神が、ご自分の言葉を実現するために「見張っている」と、本日の旧約聖書にはありました。見張っているとは「見守っている」ということであると、私は受け止めました。監視しているというよりは、私たちの動向を見守りつつ、私たちをご自分の言葉と聖霊の助けをもって、ご自分の道へと導かれるのだと。そういう神に見守られながら、本質が与える喜びというものを味わっていきたい。そのように感じさせられます。
 
皆さんの一日が、神の言葉が与える本質を通して、自分が神に愛され、見守られていることを少しでも感じとることができる時でありますように。心よりお祈りいたします。

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