01/02/2023

2023.2.1(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書1章3節
私に立ち帰れ。そうすれば、私もあなたがたのもとに帰る――万軍の主は言われる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙二3章9節
(主は)一人も滅びないで、すべての人が悔い改めるように望み、あなたがたのために忍耐しておられるのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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決してあせらず、あわてず、あきらめずに、私たちが気づくのを待っていてくださる神がおられる。本日の聖書の言葉を通して、私が受け止めたことです。
 
あせらない、あわてない、あきらめない。これは、カルト宗教対策にあたろうとする家族や周囲のひとりひとりが、カルト宗教信者に対して抱くべき態度と姿勢を示す合言葉として、長年用いられてまいりました。カルトという脅威に対して、ただ辛抱強く、愛と和らぎをもって向き合っていくことが、結果として良い結果を生み出しています。愛する者がカルト宗教から解放されて、また、それを受け止める私たちひとりひとりの意識も変えられて、新しい生活を営むことができている。そのような実例に出会えるのは、本当に嬉しいことです。
 
本日のような聖書の言葉に出会いますと、カルト宗教対策のモデルとして、神の私たち人間に対する姿勢があるのではないか。そんなことを思わされます。辛抱強く私たちが気づくのを待っておられる神の姿勢です。これは間違った信仰から改宗させるとかという意味では決してありません。私たちが本来持たされた人間の良心とか、人権や尊厳のようなものが、社会のゆがみによって奪われ、損われていくときに、それが回復されていくことを願い、私たちに言葉と助けを与え、ただただ辛抱強く待ちながら、私たちに向き合い続けてくださる神がおられるのだ。これが、本日の聖書の言葉に言われることに相通じるメッセージのように思えてならないのです。
 
そういう神を前にして、本日の聖書の言葉で語れている「立ち帰る」とか「悔い改める」とは、一体どういうことなのだろうかということを黙想させられます。私たちはこれらの言葉を、「罪からの」というまくら言葉をつけて用いているように思います。罪から立ち帰る、罪からの悔い改め、といったようにです。それは間違いないと思います。しかし、あえて誤解を恐れず申し上げるならば、「罪からの」という言葉が、私たちにそのイメージというものを重苦しくさせているのではないだろうか、とも思ったりしています。
 
立ち帰るとか悔い改めるという言葉を意識するときに、私たちの罪ばかりを見つめる前に、まず、そのような私を両手を広げて迎えてくださる神が待っておられるという事実を、私たちが受け止めることが大切なのだと感じるのです。向かい入れてくださる方がおられるからこそ、私たちは自分自身というものを安心して見つめることができるのではないでしょうか。見つめることで、立ち帰ること、悔い改める(方向転換する)ことの意味を自分のものとすることができるのだと。イエスから名を呼ばれた徴税人ザアカイが、その意味を知ったように。。
 
今日も与えられた新しい命とともに、主なる神が私たちを迎えてくださる。迎え入れられる私たちが自分自身を見つめることで、主と共に生きる喜びを味わうことができますように。皆さんの一日が豊かなものでありますように。お祈りいたします。

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