01/01/2023

2023.1.1(日) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編42編3節
神に、生ける神に私の魂は渇く。
いつ御前に出て、神の御顔を仰げるのか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章8節
誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 
2023年最初のローズンゲンの言葉はどのようなものだろうかと、期待をもって開いたとき、詩編42編3節が選ばれていたことに、私は「おやっ?」と思いました。なぜならば、詩編42編はいわゆる「嘆きの詩」としてよく知られている箇所だからです。特に、本日の聖句である3節は、神を求めてさまよい歩き、飢え渇きを感じるほどに、ただ嘆きのなかにある詩人の様子がダイレクトに描かれているからです。
 
しかし、この聖書の言葉こそ、私たちが2022年の一年を振り返り、新しい年2023年を望む言葉として、これほどふさわしいものなのではないかと感じさせられました。終わりの見えないCovid-19感染症のなかで、2022年も過ごさなければなりませんでした。ウクライナとロシアのあいだに起きた戦争も、戦いが行われるなか新しい年を迎えなければいけません。まさに、その渦中にある世界中の人々が「私たちはいつ、神の御顔をあおいで、平和を喜べるときが訪れるのでしょうか」と、嘆きたくなるような気持ちにさせられる。もちろん、私たちもです。
 
私たちは平和という命の水を、思い存分飲みたいはずなのです。降りかかる禍(わざわい)から、人と人とのあいだに起きる不和から解放されて、涸れた谷からほとばしる水の流れを喜びたいはずはのです。しかし、それが叶わない。ただ嘆きのなかを歩まなければならない私たちに、神はどのように導いてくださるのだろうかと。そんなことを思いながら与えられる新約聖書の言葉に、私は再びハッとさせられました。
 
本日の新約聖書の言葉は、イエスによる有名な「山上の説教」の一節です。求め、探し、叩くところには、与えられ、見つかり、開かれるのだと、イエスは私たちに語られています。私はこのように受け取りました。神が与えてくださる希望を忘れることなく求め続け、与えられている出来事の意味というものを神の御心に基づいて探し続け、そして神の御心を信じて歩むという意味で、自分の生き方において叩き続ける人生の日々。
 
そうすれば、主よ、いつまでですかと嘆きたくなるときでも、私自身、前を向いて神様のなさることに期待して、日々与えられる神の御言葉を握りしめながら、聖霊による慰めと助けによって、この2023年という一年を歩んでまいりたいと願わされました。私個人としては、昨夏以降世間を騒がせている「カルト問題」に、この1年間も携わり続けることになると思います。終わりはまだまだ見えませんが、それでも扉の向こうから光明が差し込んできているようにも感じる最近ですから、さらにその光が差し込んでくることを望みたいと思います。
 
皆さんにとっての2023年が、そのような素晴らしい時となりますように。心よりお祈りいたします。重ねて、本年も聖書の言葉を真ん中にしてのお交わりのほど、よろしくお願い申し上げます。

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