03/10/2022

2022.10.3(月) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書45章9節より
災いあれ、陶器のかけらにすぎないのに
陶工や、自分を造った者と言い争う者に。
粘土が自分を形づくった者に
「あなたは何を作るのか」と言ったりするだろうか。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章9~10節より
天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

******
 
本日の旧約聖書の言葉であるイザヤ書45章には、私たちの主なる神が陶工として、そして私たちが陶工によってつくられた陶器にたとえられています。
 
そのなかで、預言者イザヤは神から預かった言葉をもって、私たちを「陶器のかけらにすぎないのに」と表現しています。陶器のかけら。それはどういった意味を示すものなのだろうか。私は考えました。私たちが普通、陶器のかけらと言えば、すでに割れてしまって陶器としての役割すら持てないもの、そのひとかけらというイメージなのかもしれないと思ったのです。本来つくられた目的とは随分違ったかたちになってしまったというのです。
 
しかし、このかけらは陶工に対して不平不満をぶちまけます。お前はなんていうもろい陶器をつくったのだと。何をつくったつもりなんだと。そして言い争おうとする陶器のかけらの姿があります。
 
神がおられるのに、どうしてこの世はこんなに悪いんだ。神がおられるのに、どうして私たちを幸せにしないんだ。昔から、神の正しさというものがどこにあるのかと、苦しみが私たちを襲うたびに問われてきた問題です。いわゆる「神義論」というものです。しかし、どうなのでしょう。私は思ったのです。自分のことを棚に上げて、神のされることにあれこれ注文をつけ、不平をもらし、責任を押し付けようとしているのではないかと。
 
誰かのせいにすることで、自分自身を振り向かない。これは、私たちが普通に使っている、この世を乗り切るための術なのかもしれません。なんでもかんでも自分のせいにしていたら、身がもちません。しかし、なんでもかんでも人のせい、神のせいにしていたのでは、何にも解決しないというのもまた事実です。自分自身が欠けた陶器のような存在。そう、そういうのを、キリスト教では長い歴史のなかで「罪」という言葉で表現してきました。
 
私は正直言うと、罪という言葉に重さゆえに、罪という言葉に代わる、しかし、その意味を十分に表すような言い方はないだろうか。そんなことを模索していますが、いまだこれと言った言葉が見当たりません。しかし、今日の「陶器のかけら」という表現は、とてもしっくりくるのです。そう。私たちは好むと好まざるとそういう存在であることを、神と向き合うなかでじっくりと認識できればと、私なんか思ったりします。
 
神は、私たちが陶器のかけらの「まま」でいる現実を良くご存知でありながら、ご自分が本来私たちに与えられた姿というものを、ご自身の目的のなかで明らかしようとされておられます。そのことに、私たち一人ひとりができることとは何だろうか。かけた状態を自覚しつつも、ご自分のかたちに似せて私たちを創造された神に、その本来の目的があなたの知恵と力によって回復しますようにと祈り、神のなさることに期待して、今日という一日を精一杯生きることなんだろうと思わされます。
 
神の世界がこの地に訪れますように。あなたのお名前が世界に輝きわたりますように。この地上に、あなたの思いで満たされ、それが分かち合われるときに、この世界に本当の平安がやって来ますようにと、イエスが教えてくださった「主の祈り」を祈りつむぎつつ、今日を歩みたいと願わされました。そのような連鎖が、少しでも多くの神による喜びを感じとるひとときとなりますように。お祈りいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿