01/10/2022

2022.10.1(土) #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書53章5節より
彼が受けた懲らしめによって
私たちに平安が与えられた。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ペトロの手紙一2章24節
キリストが自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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負う必要のないものを、あえて負われることで、誰かが平安を得ることになる。そのために、自ら進んでいばらの道を歩まれた。それがキリストであった。
 
今日私たちに与えられたふたつの聖句を通して、あらためてイエスという人物の、神の御子としての使命を果たすべく、私たちのために示された人生というものを、深く考えさせられます。
 
明らかに「損となる生き方」と言われてもおかしくない。受けなくてもよい憎しみやうらみを受け続けるというのは、正直たまったものではありません。私だったら、そのことで簡単に愚痴り、不条理を訴え、自分自身の正当性を訴えることでしょう。もちろん、それは悪いことではありませんし、権利を主張することはとても大切なことです。しかし、そんなことを連続して経験するのは、やはり疲れてしまいます。本当だったら、そんなことは無いほうがどれだけ楽なことか。そう感じるのです。
 
誰かが得をし、誰かが損をする。お互いに正義を主張した結果、衝突をして疲れ果ててしまうような生活というのを送るときに、そのことを通して明らかにされるのは、私たちのもつ「認知のゆがみ」です。私はいわゆる聖書で言われている「罪」とは、この認知のゆがみそのもののことであると思っています。このゆがみがさまざまな苦しみを生じさせる原因をつくっているのではないかと思えてならないのです。
 
イエスは、ある意味で言えば、人々の認知のゆがみによって多くの苦しみを浴び続け、十字架につけられたのだと思うのです。そして、自分自身が苦しみの極みに立たれることで、私たちのゆがみとは一体何なのだろうか。いったいどうしたら、私たち自身がそのゆがみに気づき、ゆがみを共存しながら、そこから少しでも解放される道を歩むことができるのかを、私たちに提供してくださったのだと。
 
私たちの抱く正義は本当にもろく、危険で、人を簡単に苦しみへと追い込みます。しかし、自ら苦しみを受けて、私たちのために働かれたイエスの正しさは、人を苦しみには絶対に導きません。平安を私たちが味わうことができるためになされたことである。そんなことを胸にしながら、一週間の最終日を歩んでまいりたいと願わされました。
 
どうか、皆さんの一日に、イエスが与えてくださった平安が、ともに豊かにありますように。お祈りいたします。

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