02/09/2022

2022.9.2 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編67編8節
神が私たちを祝福してくださいます。
地の果てに至るまですべての者が
神を畏れ敬いますように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録4章11節
「私たちの主、また神よ
 あなたこそ
 栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
 あなたは万物を造られ
 万物はあなたの御心によって存在し
 また造られたからです。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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創造の祝福。
 
私が、今日ふたつの聖書の言葉を通して感じ取ったフレーズです。神が天地万物を創造されたときすべてを祝福されたという、創世記の言葉に基づく神の御心です。
 
ですから、私たちは聖書の言葉を通して神の御心を受け取る者として、聖書を読むという営みは、究極的には神の祝福をいただくことができる営みに直結するということであると私は考えています。
 
聖書にもいろいろな読み方があります。昨日、私が働く教会で行われた聖書研究会で、十戒のひとつである「あなたは姦淫してはならない」という言葉について、参加者の皆さんと話し合いをすることができました。
 
~してはならない、と聞けば、私たちはどうしても破ってはいけないものというイメージが先にわいてくるかもしれません。いわゆる行為そのものを禁じるための言葉としては分かりやすいわけです。
 
しかし、大切なことは、その言葉の根底にある精神、聖書の場合は神の御心がどういうところにあるのかを問うことです。「なぜ」を問う営みというものが、私たちに求められるのだと。なぜ姦淫してはならないと神は言われたのだろうか。そこに、神による「創造の祝福」があることに、私は注目したいのです。
 
姦淫というものは、いわゆる「その人に持たされている性の尊さを奪い、搾取する行動」であると私は考えます。神が創造とともに人間へ与えられた愛と慈しみの込められた命、からだ、性、人権、財産、パートナー、仲間などは、私だけでなく、私の隣にいる人、向こう側にいる人、たとえ名前や存在を知らなくても、神がよくご存知であるそういう人にも、同じように与えられているのだと。だとしたら、そういう人の持たされている宝とも言えるべきものを、そう簡単に奪い取って良いのだろうか。いや、良いはずなどどこにもない。姦淫という行動だけに集中するのではなく、その動機や根拠、精神というものに私は目を留めたいのです。
 
行動というものは心がなくても習慣や惰性で行うことができる場合だってあるのです。そして、そのことを表面的な部分だけで周囲が評価する。しかし、そこに心はあるのか?神の愛という土台があるのか?神の祝福はあるのか?と問い続けるのです。聖書の言葉だってそうです。御言葉どおりに忠実にと言いつつも、言葉尻だけをとらえ、文字面だけを追い求めるような聖書の読み方は、イエスが律法学者やファリサイ人といった人たちへ痛烈に批判したそれに相通ずるものであると、私は思えてならないのです。
 
話は戻って、神は私たちをただ祝福するためにご自分の言葉を与えられました。決して束縛するためにではありません。そのうえである種の秩序というものを与えられたとするならば、それを盾にするような聖書の言葉を運用する仕方ではなく、なぜを問う営み、動機を探ることによって神が語られる御心の本質を探る営みこそ、大切なのではないか。そう考えてなりません。神の祝福を本質で受け取るところには、必ず、おのずと調和が生まれてくるということを、私は今日の黙想を通して受け取りたいと思いました。
 
神の祝福が、今日の一日にもともに、豊かに働きますように。お祈りいたします。

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