01/06/2022

2022.6.1 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編7編9節より
主はもろもろの民の裁きに当たられる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙二5章10節
私たちは皆、キリストの裁きの座に出てすべてが明らかにされ、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業に応じて、報いを受けなければならないからです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日のふたつの聖書の言葉に共通するのは「裁き」という言葉です。この裁きという言葉を聖書から見るたびに、裁きという言葉に対する固定観念というものが取り除かれたうえで、裁きという言葉に向き合う必要があることを思わされます。
 
裁きというと、やはり私たちは「何か罪をおかしたときに、その罪に対する償わなければならないことを判定される場」という風にとらえてしまうのではないかと思うのです。また、自分が悪いと責められているような場面や状況も、裁きという言葉で表現することがあります。
 
確かに、そのことは間違いではありません。裁きの大切な意味のひとつです。ただ、それは意味の「ひとつ」であってすべてではない。裁きとは「判断・判定・ジャッジ」であると、私はやはりとらえたいと思うのです。少なくとも、聖書で語られている裁きとは、総合的にそういうことを指すのだと、私は受け止めたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は「めいめい体を住みかとしていたときに行った仕業」への裁きのことについて書かれていますので、この世界の終末、また死後の世界を指すものであるととらえることができますが、私はこうも思うのです。裁きというものは私たちの生活の一瞬一瞬で常に起きる者なのではないかということをです。
 
それは、私たちが常に罪の意識を抱かなければならないという意味ではありません。そうではなく、私たちの生き方に対して、主なる神はいつもご自分の言葉と聖霊なる神の助けを授けてくださることによって、私たちは神の判断、判定に見合った生き方を営むべく、いつも整えられて生きることができるのではないか、ということです。
 
同時に、今日の新約聖書の言葉では「善であれ悪であれ」というひと言があるのは、裁きという言葉が決して消極的なものではないことを示していると言えるのではないかと思うのです。神は私たちをご自分の良いものをもって私たちに与え続けてくださる方であり、私たちがその良いものをもって幸せに生きることができるように導いてくださる方であるというのが、聖書に示された一貫したメッセージです。
 
ですから、私たちは良い意味で「神の裁きに喜び、神の裁きに生きる者」でありたいと、私は受け止めたいと思いました。神の公正さが豊かにあふれることで、私たちが本当の意味で幸せになれるとしたら、本当にそれは素晴らしいことなのだと思わされます。
 
そのような神の裁きに心から信頼しつつ、今日も歩むことができますように祈ります。

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