01/05/2022

2022.5.1 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
イザヤ書55章9節
天が地よりも高いように
私の道はあなたがたの道より高く
私の思いはあなたがたの思いより高い。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
コリントの信徒への手紙一13章9~10節
私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の新約聖書の言葉に登場する「一部分」「部分的」という言葉について、黙想を深めてみたいと思いました。
 
今日の新約聖書の言葉は、この手紙を書いたパウロによって「神の愛とは何か?」ということが一通り語られた後で、この言葉が出てきます。神の愛がなければ、どんなに知識に優れ、特技があり、実践に長けていても、そんなものは「一部分・部分的」なのだと言うのです。
 
原版で用いられているドイツ語聖書(ルター訳2017年版)によると、この一部分・部分的という言葉は、stuechwerkという単語が用いられていました。この単語、「中途半端」という意味で用いられる言葉です。
 
私たちの知識は中途半端、預言も中途半端。とても面白い表現だなと思わされました。私自身、聖書の言葉に触れることをある意味専門職としている者ですが、実は私が触れている聖書の知識なんていうものは、ほんの一部分であり、実に中途半端なものなのだと痛感させられることがあります。とても「私は聖書の知識に精通している」などとは言えません。
 
しかし、私はほんのちっぽけな知識や経験を、自分を誇らせるための材料として利用してはいないだろうか。その結果、他者との間に優劣をつけて変な優越感にひたったり、他者を見下げるような態度に出ていないだろうか。そんなことを思わされます。
 
あたかも自分自身が何でも知っているような感覚は、パウロの言う神の愛から一番遠い者なのだと。愛がなければ無に等しい。愛がなければ何の益もない。騒がしいシンバルのようだと、私たち人間の傲慢を明らかにしようとするパウロの思いを、真摯に受け取りたいと思わされました。
 
神の言葉は、神の愛を知らせるために与えられたものであることを本当に理解したときに、神の愛を自己愛にすり替えることはないだろうし、本当の意味で他者を隣人として神の愛で愛することもできるし、そのために聖書の言葉が豊かに用いられる。教会もまた豊かにされ、この世にその豊かさが分かち合われていく。まさにこのイメージなのだと思います。
 
中途半端なところにとどまるのではなく、神の崇高さにあずかりたい。そのために私はどのように生きることが必要か。そんなことを胸に刻みながら、今日という一日を歩んでまいりたいと思いました。どうか、皆さんの一日も、神の完全な愛によって豊かとされる一日でありますように。お祈りいたします。

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