詩編57編4節より
神が慈しみとまことを送ってくださいますように。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録14章17節神はご自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天から雨を降らせて実りの季節を与え、あなたがたの心を食物と喜びとで満たしてくださっているのです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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私は16年前の春、神学校を卒業して、静岡にある教会へ赴任しました。これが、私の伝道牧会者としての最初の任地でした。6年間、数々の失敗を重ねながらも、信徒のかたがたをはじめ、当時関わることのできた皆さんには、本当にお世話になりました。実に思い出深い6年間でした。
南を見れば駿河湾、北を見れば富士山。温暖で自然も多く、海の幸山の幸に恵まれ、率直で温かい人柄に触れることのできるこの場所で、私は実にのんびりと過ごすことができたわけですが、そういうなかで、聖書に書かれた神を言葉をいただき、伝え、分かち合うとは、どういうことなのかというのを、日々考えたものでした。
今日の聖書の言葉に出会い、私はそのときのことを思い出しました。どんなときにも、私たちに良いものを与えてくださる神が、ともにいてくださったのだということをです。
静岡での6年間は、私を未熟さをさらけ出した日々であったことは間違いありません。しかし、そのたびに神が、ご自分の言葉を通して、慰め、励まし、赦しへの道を歩ませてくださったのだと。
そして、そのことは次の任地であるドイツでも、そして、今いる東京でも、ますます神の恵みというものを感じずにはいられない自分自身に気づかされています。
時を経るごとに、経験や対処法のようなものは身についたかもしれません。しかし、だからと言って、失敗や過ちというものが減っていったわけでは決してありません。
今、東京の任地を離れるにあたって、その7年間を振り返らされているわけですが、実に己の罪深さや不信仰というものを痛感させられます。あの時、こうしていればよかった、ああするべきではなかったのではと、いろいろと思わされます。
しかし、そのような後悔の念を後悔だけに終わらせず、そこにも大きな意味があったのだと、祝し続ける神がおられる。だから、どんなことがあっても、そこに神の恵みがあったことに感謝して、私は今、この地を去ることができると信じたいのです。
慈しみとまことを、余すところなく注いでくださる神に、今日もついていきたい。その言葉に聴き従いながら、聖霊の助けを感じられるような一日でありますようにと祈って、今日の歩みを始めてまいりたいと願います。
皆さんの歩みも、神がともにいてくださる恵みというものを、十分に感じられる一日でありますように。お祈りいたします。
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