02/03/2022

2022.3.2 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
申命記28章2~3節
あなたがあなたの神、主の声に聞き従うとき、あなたは町にいても祝福され、野にいても祝福される。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書11章28節より
幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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月曜日に引き続き、昨晩もある神学校で、異端・カルト宗教への対策についての講義をしてまいりました。特に昨日は、カルト宗教による被害に遭われている方々に対して、私たちがどのようなアプローチができるか、そんなことを受講生の皆さんと考えることができました。
 
そのなかで、私は「傾聴することの大切さ」が、カルト被害者やそのご家族の皆さんに対して、対策する者が抱くべき、もっとも大切な姿勢であることをお知らせしました。
 
私自身もいつも失敗し、反省しながらも、「聴く」ということの大切さについて知らされます。じっくりと、耳と心を傾けることによって、相手の言わんとしていること、言葉に現れない気持ちを理解するように促される。
 
促されることによって、より深い相互理解を持つことができる。相互理解のあるところにこそ、あらゆる誤解や齟齬、問題というものから、解放される環境が生まれるのだと。「聴」という漢字が、「耳と十の目と心で成り立っている」と誰かが言われたのも、納得できます。
 
さて、そう考えますと、聖書の世界では、昔から「聴く」ということを大切にし、それを伝え続けているのだなと、本日与えられた聖書の言葉から明らかにされていると、私はあらためて感じさせられました。
 
神の言葉に聴き、それに従うこと。いわゆる「聴従」の作業は、私たちに祝福を与えると、聖書の言葉は約束しています。これは、神が人間に対する祝福の約束なのですが、果たして、私たちは神の言葉に聴従することに、本当に幸いというものを感じ取ることができているのだろうか、と思ったりするのです。
 
カルトの世界は、神の言葉を用いて、最終的には人間の幸福というものを根本的なところから奪い取ります。神の言葉を用いて脅迫するのです。脅迫におびえて神の言葉に聴従しなければならないという切迫感を生むのでは、そこに聴従の意味はまったくありません。
 
しかし、聴従することの幸いが分かっているならば、それが自分自身にとって心地よい言葉なのか、ときには耳の痛いアドヴァイスなのか、慰めや励ましに満ちたひと言なのかは、自分自身で黙想しながら、神の言葉を受け取ることができるのだと、私は思うのです。
 
そういう神の言葉の聴きかたをしたい。そういう受け取りかたによって、今日も神の助けによって幸いない者でありたいと願わされました。そういう幸いな世界が、今日もすべてを包み込み、私たちを平和へと導いてくださいますように。お祈りいたします。

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