01/03/2022

2022.3.1 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編40編17節より
あなたを尋ね求める人すべてが
あなたによって喜び楽しみますように。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
使徒言行録2章46~47節より
彼らは、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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教会という場が、どういうところであることが期待されているのだろうか。
 
昨晩と今晩、私はある神学校で「異端・カルトへの対策 ~脱カルト後のケアと回復について~」というテーマのもとで、講義を担当しています。昨晩、多くの神学生のかたがたとともに、健全な教会なかたちとは一体どのようなものかについて、考えることができました。
 
なぜ、このようなことを申し上げたかと言いますと、いわゆるカルト宗教と呼ばれる団体の特徴として、特定の組織もしくはリーダー、自分に絶対服従させ、支配できる信者を獲得するために、最初は過剰なまでに人に愛情や関心を注ぎ、あれこれ世話をして、見せかけの喜びや楽しみを当人に味わわせるということがあります。
 
そういう意味では、今日の新約聖書の言葉にある、教会が誕生した約2000年前のモデルを踏襲しているように見せることによって、「聖書の通りにこの教会は実践しているのだ」と思わせ、人を安心させます。しかし、そこに大きな落とし穴があります。
 
先ほども申し上げましたが、カルトの特徴は、その目的が「特定の組織もしくはリーダー、自分に絶対服従させ、支配できる信者を獲得する」ことにあります。そのために、聖書に書かれている愛とか喜びというものを巧みに利用して、人々の心や思い、行動を徐々に支配していくというのです。
 
ですから、見た目には、その教会の様子というものが、ともに教会に集まって熱心に礼拝をし、食卓をともにし、賛美をささげ、喜びと真心があふれているようであっても、それら行動の「動機」がどこにあるのかを問うのは、とても大切なことと言えるのだと、今日の聖書の言葉は、私たちに伝えているような気がしてならないのです。
 
その動機はどこにあるのでしょうか。今日の旧約聖書では、私たちの喜びの動機こそ「主を尋ね求める」、つまり、神の思いや願いという御心を尋ね求めるところにこそ、神が私たちに喜びや楽しみというものを与えてくださるのだと、今日の聖書の言葉は私たちに語りかけます。
 
つまり、私たちが無理やり喜びであるとか楽しみ、一致している風の言動をつくりあげなくても、神が私たちに何をお望みなのかということを、聖書の言葉から丹念に聴き取って、自分の今ある心と祈りつつ比較して、本当に神が与えてくださる御心に生きたいと願えば、それはおのずと、民衆に好意を持たれるような教会として育てられていきます。
 
今日の新約聖書にある初期の教会は、神の御心によってひとつとされていたということであり、神のご支配だけによって、人々が喜びや楽しみというものを感じることができる、ただひとつの理由であり、その証明に他なりません。
 
私は、昨日の講義のことを思い起こしながら黙想しました。聖書と聖霊の力を通して与えられる神の御心に忠実に生きるならば、誤った人間の支配欲から解放され、教会という場が、実に喜びと楽しみに満ちた場になるのだと。そういうことを信じて、教会の営みに仕える牧師でありたいと強く願わされました。
 
教会が与える本来の目的に心を注ぎつつ、教会という存在が世界の平和に貢献できるような場の一角でありたいと願いました。今日も神にあって素敵な一日でありますように。お祈りいたします。

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