ミカ書5章3節より
彼は立ち上がり、主の力によって群れを治める。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マタイによる福音書9章36節よりイエスは、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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イエスは深く憐れまれた。今日は、この言葉に黙想してみたいと思いました。
この「深く憐れまれた」という言葉の、もともとのギリシャ語は、スプランクニゾマイという語です。憐れむというときに用いられる言葉ですが、もともとは人間の内臓を指す言葉から派生したものと言われています。
こういうことから、別な聖書には「断腸の思い」と訳しているのもあり、「はらわたがちぎれる思い」と具体的なイメージを加えながら、イエスの思いを感じ取ることがあります。私自身も、今までイエスの憐れみとはそういうものなんだと捉えてきました。
しかし、黙想を通して思わされるのは、それすらステレオタイプになってやしないか。そういう問いでした。それで、私が注目したのは「深く」というひと言でした。
私は基本的に、自分の内臓・はらわたがどのような様子にあることを見ることはできませんし、はらわたがちぎれるような思いというものを、本当に経験したことがあるのだろうかと思わされました。内臓というひとつの例えをもってでしか、イエスのスプランクニゾマイという言葉をとらえていなかったのではないか。そう思ったのです。
そのことを強く思わされたのが、イエスの感じられた「深く」という言葉です。私たちが目を向けない、向けることのできない深いところから、イエスは私たちを見ていてくださる。私たちの薄っぺらい、浅はかな知識や意識などではとうてい推し量ることのできない深みから、イエスは私たちのそのような様を見て、憐れみの思いを持ち、そして私たちに味わい深さというものを差し出してくださっているだと。
そもそも神のご支配とは、そのような私たちの持つ心の奥深いところをもご覧になられている。私たちの動機というものがどこにあるのかを、つぶさにご覧になられたうえで、可視的・表面的な世界に捕らわれがちな人間に、本当に大切なことは何かを、神の持たれる深みをもって私たちに提示してくださっているのだと、私はそのように受け取りました。
生活の営みというものが、与えられたつとめというものが、表面的なものにあきたらず、主の恵みの味わい深さというものを、心の底から感じられるような生き方をしたい。これが私の黙想から導かれた願いでした。そのことを、心から祈りつつ、本日の主の日を過ごしてまいりたいと思います。
皆さんの主の日に、神の恵みの味わい深さがともにありますように。お祈りいたします。
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