歴代誌上16章35節より
「我らの救いの神よ、私たちを救い
集め、救い出してください。
私たちはあなたの聖なる名に感謝します。」
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章11節よりイエスの祈り:聖なる父よ、私に与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧新約聖書を貫くテーマは「集められて一つとされる」であると、私は受け止めました。そのあたりを中心に、黙想してみたいと思います。
今日の聖書の言葉にもあるように、聖書ではしばしば、神によって人々が集められるということが描かれています。人々とは、散り散りばらばらとなった者たちのことであって、それが神によって集められ、一つとされるというのです。
離散した人々は、神がご自分の手で真心を込めてつくられた人間のことを指し、アブラハムという老人を選び取って、その子孫をご自分の民とされた人間のことを指し、やがてイスラエル・ユダヤ人と呼ばれた国民を指し、やがて、イエス・キリストによる救いを通して、命の道が与えられた、私たちすべてを含む全世界の人々のことを指します。
私たちは、それぞれの生活があります。それぞれの思いや考え、心を持ちながら、行動をし、言葉を発しながら日々を営んでいます。家族・学校・会社・地域社会と、あらゆる集団のなかに私たちは組み入れられながら、一つとはなにかという問いにあたりながら生きている。これが現実です。
そのような現実のなかで、私たちは「神によって集められて、そして一つとされる経験」を、どのように自分のものとしてとらえることができるのでしょうか。イメージしやすいのは、神によって集められている場であり、私たちはそれを、信仰共同体である教会に投影することができるかもしれません。
教会では、一致をしばしば求めることがあります。同じことを一緒にやっていると、一致しているような気分になることもあるでしょう。しかし、私たちが見た目に同じことをしたからと言って、それが果たして「神が集められ、一つとされる」ことを示すと言えば、決してそうであるとは言えないでしょう。
私たちはそもそも、一致という言葉が好きなのではないのかもしれません。一致より個性を好み、一致と言えば束縛されているような気持ちになる人も、決して少なくないと思うのでです。一致は、さも軍隊のように強制的に皆同じことをされるのではないか、自由を奪われるのではないかとおびえることもあるでしょう。
しかし、神が集め、一つとするというのは、そういうことではありません。神がご自分の価値観によって人々を集めるときに、そこには、私たちが意識しなくても連帯感があふれます。神が本来抱く価値観とは、すべての民が幸福へと導かれるものだからです。そのために、神は何度も人間にチャンスを与え、究極的にイエス・キリストという救いの道を与えられました。
しかし、宗教であるとかキリスト教、世の中にある組織にそれが感じられにくいのは、運用する人間の側にある「ゆがんだ支配志向と構造」があるからだと、自戒を込めて思わされました。私は神の言葉である聖書を片手に持ちながら、本当に神が望んでおられることを胸にして生きているだろうか。もう片手で、神の価値観にそぐわない自分の価値観を押し付けてはいないだろうか。いや、神の言葉すら手離していないだろうか。そんなことを黙想させられました。
今日の聖書の言葉は、そんなのためにイエス御自身が祈ってくださっている。私もまた神の抱かれる価値観によって、見た目によらない、心の底から一つとされる経験をしたいと願って、神に謙遜な思いをもって祈りをささげたい。そして、その価値観に従って歩みたい。そんな思いに促されました。
神によって集められて、一つとされること。そこには豊かな祝福と平安があることを信じて、今日も歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神の守りがともにありますように。
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