30/03/2026

2026.3.30(月)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
申命記4章2節
あなたがたは、私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない。私が命じるとおり、あなたがたの神、主の戒めを守りなさい。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙15章18節
(パウロの手紙)
私は、キリストが私を通して働かれたこと以外は、何も話そうとは思いません。キリストは異邦人を従順へと導くために、(私の)言葉と行いを通して働かれました。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
おととい、昨日と、黙想をつづることができず、申し訳ありません。体調が優れず、昨日の礼拝での務めに集中するために、それ以外は床に伏せっておりました。しっかり休んだこともあり、随分体調も回復してまいりました。三寒四温の候、気温の急激な変化などで体調を崩しやすい時だと思います。どうぞ皆さんも、健康が守られますように心からお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは、「神の戒めをどのように私たちは受け止めるのか?」というものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
 
「神の言葉を文字通り受け止める」という態度は、キリスト教の世界で広く受け入れられている考え方であると、私は思っています。しかし、この場合の「文字通り」とはいったい何かについて、私たちは「機械的にそれを受け止め、受け入れ、守れば良い」ということを意味するかについては、私たちは慎重な態度をもって、そのことを考えなければならないと私は思っています。
 
今日の旧約聖書の言葉である申命記にある神の言葉「私が命じる言葉に何一つ加えても、削ってもならない」とは、何を加えても削ってもならないのでしょうか。私はこのように思います。それは「自分自身の願望」であると。そのことを考えるうえで、アダムとエバが神から食べてはならないと命じられたあの木の実を、みずからの願望から食べるという決断にいたった態度に相通じるものであると、私は思うのです。
 
つまり、ふたりが木の実を食べたその根底にあったものは、蛇に扮した悪魔が「あなたは神のようになれる」とそそのかした言葉を、受け入れてしまったことにありました。「神のようになれる」という態度は、まさに神をないがしろにするものでした。
 
ですから、私たちが神のようになれることを意識的・無意識的な動機にかかわらず、そのような態度を抱いたときに、神の言葉を勝手に改変しつつ解釈して、自分の都合の良いように受け止め、行使しようとするならば、それは、申命記に記された神の戒めに逆らうことになるのでしょう。
 
ただ、この場合、「神の戒めの中核にあるものはいったい何なのか」ということを明確にしなければ、大変危険な方向に私たちは進んでしまうことも、また事実であると私は思っています。神の戒めの中核とは、「神を愛し、隣人を愛する」ことにあります。そして、その愛のかたちは、神が、具体的にはイエスが私たちに示してくださった愛のかたちであって、私たちの利己的な動機にもとづく愛では決してないということを、私たちはしっかりと受け止める必要があるのだと思います。
 
今日の新約聖書の言葉で、パウロが手紙を通して語ろうとしていることは、まさにそこにあるのだと私は思います。キリストが私たちに示してくださった愛以外は、何も語るまいと。
 
神の言葉と標榜して、人々を奈落の底へ陥れるような態度を示し続けることだって大いにありうるのだと肝に銘じて、神の示された愛を明らかにするために、神の言葉に聴く態度というものを、今日も大切にしてまいりたいと願います。皆さんの一日にも、神が豊かにのぞみ、守りと祝福を与えてくださいますように。心からお祈りします。

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