くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
士師記10章10節
イスラエルの人々は主を叫び求めて言った。「私たちはあなたに罪を犯しました。私たちの神を捨てました。」
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書3章2節
(洗礼者ヨハネは)言った。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」
©日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日も私たちの一日を守り、導いてくださる神が、私たちの歩みにともない、ご自分の言葉と聖霊の導きによって、私たちに行くべき道を与えてくださいますように!
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、どちらも「罪」について語られたものでした。そのことについて、黙想をつづりたいと思います。
罪とは神を捨てること。今日の旧約聖書の言葉である士師記の一節から、私たちはこのように考えることができます。何を捨てるのでしょうか。「神の思い」を、自分自身の思いから排除、またはないがしろにし、もしくは自分自身の願望にすり替えて、さも神の願いのように思い込んでしまおうとすることが、「神を捨てる」という行為につながるということです。
私たち日本人は、神に背を向けて歩むことも、いわゆる一般的な「悪いこと」も、すべて「罪」という言葉で表現します。そのこと自体間違っているわけではないのですが、聖書で示されている罪は、神を捨てて、独立独歩の道を歩むことによって、さまざまな思い違いを生むことで、一般的悪事に至るという基本的な理解があります。
それは逆を言えば、神の願いを自分自身の生き方とし、神とともに歩もうという謙虚な気持ちをもって、自分自身が神によって変えられることをいとわないような思いがあるならば、少しでも罪の道へさ迷いこんでしまうことから、神が私たちを守ってくださいます。そうであったとしても、私たちは折に触れ神を捨ててしまうことがあるくらいですから、なおのことなのだと思います。
大切なのは、その自分自身のありようというものを、謙虚に見つめ続けること。その思いをもって、神に自らをたださらけ出すことなのだと。神の前で格好つけたってしょうがない。もうすべてを知られているのですから。神の御前に正直であること。そして、私たちを平安へと導いてくださる神がおられるということに、心から喜べるような自分自身にしてもらうべく、神に願い求めること。そして、ただ誠実であること。こういうことこそ、みずからの罪を自覚しながらも、神を積極的に捨てることから、少しでも解放されるのだと思うのです。
そのために、洗礼者ヨハネが私たちのために神によって与えられ、新たに神とともに生きるそのしるしとして洗礼という出来事が与えられ、そして何よりも、洗礼によって神の御子であることが明らかにされた救い主イエスが私たちに与えられたことを、心から感謝して歩みたいというのが、今日私が得た黙想でした。
今日の一日が、そのような感謝と喜びに満ちあふれた時となりますように。心からお祈りします。
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