くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編34編2節
私はどのような時も主をたたえよう。私の口には絶え間なく主の賛美がある。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙1章5~6節
神は御心の良しとされるままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、前もってお定めになったのです。それは、ご自身の栄光に満ちた恵みを、私たちがほめたたえるためでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日は一日雨模様の仙台ですが、雨がもたらすうるおいが、私たちの心をもみずみずしいものとしてくださいますように。そんな気持ちを抱きながら、神が与えてくださるみ言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するメッセージは、「神をたたえる」というものでした。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
「たたえる」とは何でしょうか。私たちは似たような表現で「ほめる」という言葉も知っています。では、たたえることとほめることとのあいだには、どのような違いがあるのでしょうか。その点で、ある方が興味深いことを言っていたのを思い出します。
ほめるというのは、結果に対する賞賛、しかし、たたえるというのは結果いかんにかかわらず、その過程に対する賞賛なのだと。ゆえに、ほめることよりもたたえることのほうが、より深く、より敬意のこもった私たちの表現なのだと。
なるほどなと思いました。私たちは成果主義の世界で生きていますし、もちろん、そのことも大切なのでしょうが、過程が何かと軽視されがちなのも事実です。しかし、結果の裏に涙ぐましい努力や営みというものがあるならば、そこにこそスポットを当てることの大切さがあることも、また事実なのではないかと私は思うのです。
すべてをご存知である神は、そのような私たち人間がくだす評価とは違うところで、私たちの動向を見守り、たとえ目に見えない結果が私たちをくじこうとも、神は私たちの心、そして誠意というものを大いに祝福してくださる。そのような神だからこそ、私たちもまた、目に見える事象だけで、短絡的に神を評価するのではなく、総合的に神のなさることをもって、大いにほめたたえたい。私はそのように思わされたのです。
ちょっとしたことで、神をも憎み、うらむ態度というものを、私たちは多少なりとも持っているものです。「神がいるのにどうして」と、私たちはついつい思ってしまうのです。しかし、そんな私たちの気持ちをも、神はすべてご存知なうえで、その意味というものを私たちに与えてくださり、私たちを総合的に見守ってくださるからこそ、私たちは安心を得ることができるのでしょう。
そのような安心に支えられながら、今日の一日を歩むことができますように。神が、皆さんを、そして私をも祝福してくださいますように。心からお祈りします。
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