25/03/2026

2026.3.25(水)#日々の聖句#ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
詩編9編20節
主よ、立ち上がり、人間が勝ち誇らないようにしてください。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書9章31節
(イエスが弟子たちに語った言葉)
「人の子は人々の手に渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する。」
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句LOSUNGEN』より引用

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皆さん、おはようございます。
しばらく、黙想をお休みしておりました。読んでくださることを楽しみにしてくださっている皆さまへ、大変申し訳ありませんでした。随分ご心配のメール・メッセージをいただきましたが、返信もできずままでおりました。そのことも併せて、心からお詫び申し上げます。
 
ここのところ、「言葉をつむぐ」ということについて、しばらく考えておりました。言葉で人を傷つけ、また傷つけられる現実を目の当たりにして(具体的に、私がどうこうされたというわけではないのです)、とても心を痛めておりました。そうこうしているうちに、あっという間に2週間も黙想をお休みしてしまいました。四旬節のとき、あらためて自分自身の弱さと、神に十二分に頼ることのできない罪深さというものを痛感させられた次第です。
 
しかし、このあいだにいろいろなことを考えさせられ、多くの出会いがあり、別に相談したわけでもなんでもないのですが、私の心と思いに多くの刺激が与えられました。聖霊の息吹が私のなかを吹き抜けたのでしょう。それで、今日から気持ちを新たにして、黙想を再開することにいたしました。どうぞ主にあって、今後ともよろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句は、まさに私の今の心境にしっくりとくる言葉でした。「人間が勝ち誇る」ということについて、それを我が心のうちにとどめるように働いてくださいと、ダビデ王は神に願い、祈りの言葉をささげました。勝ち誇るとはなんでしょうか。「他者より自分が優れている」という思いから生じる態度のことです。
 
それは、往々にして、私自身のうちにある「正義感」から生じることがあります。私の正義感が、他者の言動を許せなくなるのです。それはきわめて日常的な、私たちの感覚であるかもしれません。正しく生きることは良い。自分の正しさに相容れない相手に対して、批判するのも良いでしょう。しかし、その目的は「神によって建て上げてもらうこと」にあるのだと私は考えます。
 
批判するならば、創造的、建設的な批判をしたいものです。ただ人格を攻撃し、反対したい、抗いたいという欲求を充足させるためだけに、批判を展開させるのであれば、それは、もはや批判ではなく、批難というしかないのだと。あまりにも、自分と相容れないものを徹底的に叩くことで、まさに「勝ち誇る」ということを勝ち取ろうする人間の姿というものを、自分自身に当てはめて考えたいのです。神はそんなことをお臨みでないことは明らかですので、その御前に、自分自身の罪というものを、じっくりと見つめ、悔い改めて生きたいのです。神の助けによって。
 
そのことを十二分に実践されたのは、救い主イエスでした。いくらでも勝ち誇れるような機会があっただろうに、屈辱の極みを味わわれたのがイエスでした。むしろ、負けることにこそ誇りがあると言わんばかりに、イエスは十字架への道をただ歩まれた。このイエスを前に、自分自身の至らなさに悔いつつ、しかし、それに開き直ることなく、「勝ち誇らせないようにしてください」と神に祈り、神の助けによって「負ける」ことにこそ、誇りを見い出したい。神はすべてをご存知なのだから、他者をおとしめることなく、主の御前にただ誠実であり続けたい。そんなことを、今日の聖句から想わされました。
 
四旬節も終わりを迎えようとしているなかで、今日の一日もまた、自分の弱さをすべてご存知である神の助けによって、少しでも主のご犠牲にふさわしい生き方をすることができますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

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