くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
創世記50章17節
(ヨセフの兄たちがヨセフに懇願する言葉)どうか今、あなたの父の神に仕える僕どもの背きの罪を赦してください。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙4章32節
互いに親切で憐れみ深い者となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださるように、互いに赦し合いなさい。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。
新しい一週間が始まりました。これから始まる七日間の旅路もまた、私たちと共に歩んでくださる神が、どのような指し示しを私たちに与えられるのでしょうか。神に期待しつつ、今日も神の言葉に聴いてまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するワードは「赦し」でした。旧訳聖書の箇所は、ヤコブの愛する息子であったヨセフの10人に兄たちが、彼に対して行った謀略を詫びているシーンですが、兄たちはその行いを「神に対する罪」ととらえていました。そのうえで、ヨセフに赦しを願っていることが分かります。また、新約聖書では、「互いに赦し合いなさい」という勧めの言葉が与えられています。どちらも「赦す」ということについて書かれた聖句なのです。
さて、私が現在担当している講座で、おととい「愛の特質としての『赦し』」について学ぶ機会がありました。テキストとして用いている『サーバントリーダーシップの原則 ー権力によらないリーダーシップ』(ジェームズ・ハンター、地引網出版)には、第一コリント書13章にある「愛」について、そのひとつの特質である「赦し」について解説されていました。
赦しとは何か。テキストにはこのようにありました。「恨みを捨てること」と。
どうしても赦せないことがある時、その赦しというものを放棄することは、本当に難しいのです。これを捨てられたらどれだけ楽だろうと思うし、そのことを願うのです。しかし、なかなかできません。思い出してしまうのです。忘れられないのです。赦せない感覚を抱くのは、体力を消耗させ、心を疲弊させます。そんなことなど嫌だと分かっているのに、それを手放すことのできない自分自身を発見してしまうのです。私もその代表的なひとりなのです。
これは到底、人間のわざでは成し得ないことなのだと私は思っています。究極的には、神にしかできないことなのだと。私の限界をはるかに超える方である神が、私がしっかりとしがみ付いている恨みの感情を手放すことができるように、私たちの心をときほぐしてくださるのだ。そのことにただ希望をもって歩むことが必要なのだと。私はそう願いたいし、それをなしてくださる神に、心からの信頼をもって期待したいのです。
前のローマ・カトリック教皇であるフランシスコは。人間の悲しみには二種類あることについて言及しました。一つは、キリスト教的な生活のためになり、神の恵みのおかげで喜びへと変わる、回心の歩みの一部となる悲しみであり、もう一つは常に復讐を思い描き、健全な生活も。キリスト教的生活も生み出さない、心を壊疽させてしまう悲しみであると。
(詳しくはこちらをごらんください)
まさに赦すという行為は、私自身だけでは実現することのできないものなのだということを、明快に私たちに知らせる示唆だと私は思いました。だからこそ、今日も神が与えてくださった御言葉に聴き、赦すことを手放せない自分自身を神の前にさらけ出したいのです。そのことを神は、すべて受け入れたうえで、私たちに新しい命の道を与えることを信じたいのです。
無理やり赦そうとして、自分自身の心に蓋をする必要はどこにもありません。心を楽にして、神にそのことを打ち明けて、神が必ずや自分自身のうちにある恨みや悲しみというものを、和らげてくださる日がやって来るということに希望を抱き続けていく。私たちに今与えられていることなのだ。私は今日の聖句から、そのようなことをメッセージとして聴きたいと思いました。
この新しい一週間もまた、そのような神の守りが私たち一人ひとりとともにありますように。心からお祈りします。
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