くじによって選ばれた今日のの旧約聖書のことば
エレミヤ書31章20節
エフライムは、わたしの大切な子、喜びの子なのか。わたしは彼を責めるたびに、ますます彼のことを思い起こすようになる。それゆえ、わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあらまれずにはいられない。ー主のことばー
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙11章2節
神はあらかじめ選ばれた御自身の民を退けたりなさいませんでした。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日は国民の休日ではありますが、全国の各地で「信教の自由」について考える集会がおこなわれます。あらためて「神を信じる生活」とはどのようなものであるかについて、考えるひと時が与えられていることを心に思いつつ、その一日を過ごしてまいりたいと思います。
そのようなななかで、今日のローズンゲンにしめされたふたつの聖句に心と思いを寄せたいと思います。私はこれらふたつの聖句によるテーマを「神の願い」と受け止めました。そのことについて黙想をつづりたいと思います。
神の願いとはなんでしょうか。ご自分の民とともに歩むことに他なりません。ただ、神の願いと裏腹に、人間が好き勝手なことをしてしまい、神の願いがないがしろにされるような生き方を営んでいるようでは、せっかくの神の願いは台無しになってしまうことでしょう。
私たち夫婦には子どもが与えられていませんので、子育ての経験のない私がこんなことを言うのは的外れになってしまうかもしれませんが、親が子に対して、自分の願いや期待というものを子に寄せることは、周知の事実でしょう。しかし、その子が親の願いに沿わない生き方をしたとしたら、それゆえに子の人生というものが悲惨に満ちあふれるものであるならば、親としては大いに悲しみ、心を痛めるということもしばしばあるのではないかと私は思うのです。「親の心子知らず」とはよく言ったものです。
ただ、子は決して親の独占物ではありません。子には子の意思があり、親にはそれを縛り付ける権利も義務もありません。だから、親がどんなにアドバイスをしたとしても、最終的には子が自分で考え、気づき、その気付いたことに基づいて行動してくれることを、親はただ見守りながら、その子の幸せのために関わり続けるしかないのです。
私たちが日常で感じ、経験するこのようなことこそ、神と私たちの関係性になぞらえることができるのだと私は思います。今日の旧約聖書の言葉は、神に大切にされながらも、神の思い願いをないがしろにし続けてきたイスラエルの民が、自分のしてきたことに気付いて、それを悔やみ、あらためて神のもとに帰りたいと心から願ったとき、その思いに神が応えられた。それはまさに、神が人に示されたあわれみであったことを、今日の聖句から知れるのです。神はそうなることをただ望みつつ、忍耐をもって私たちとともに歩んでくださるというのです。
私たちの世のなかでは、神が私たちに示された姿勢というものに、私たちもまた神の子どもとして親である神に、真心をもって立ち返ろうとする時に、そこには必ず健全な親子関係というものが芽ばえ、幸いがあふれるということを心から信じたいのです。
神は決して私たちを退けることなく、私たちが気づくのを待っておられる。今日の新約聖書の言葉が言わんとしているメッセージです。ゆがみがあるこの世界、人間関係のなかで、私もまたこの神の言葉をただ受け流すのではなく、私たちの神との立ち位置や距離感というものを、聖書の言葉と聖霊の助けによって、じっくりと検証していきたい。そんな風に私は受け止めたいと思ったのです。神の願いは、私たちが神とともに歩むことで、少しでもゆがみが矯正されて、健全かつ幸いな道を歩めることだからです。
今日の一日の歩みのなかで、少しでもそのことを感じ取れる幸いが私たちのあいだにありますように。そのことを心から願い、また皆さんの主にある平安と祝福を、心からお祈りします。
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