エズラ記3章11節より
「主は恵み深く、その慈しみはイスラエルの上にとこしえに及ぶ」と、主への賛美と感謝をもって唱和した。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
マルコによる福音書14章26節一同は賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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今日の旧・新約聖書をつらぬくテーマは「賛美」であると私は受け止めました。神を信じる人々にとって、神が私たちとともにおられることを表現する方法として、賛美は時代を問わず、多くの人々によって用いられ、愛されてきたことは、よく知られていることです。
今日選ばれたふたつの聖書の言葉には、人々がどのようなときに賛美の歌を歌ったのかが記されています。そのことに深い黙想を求めてみたいと思いました。
まず、旧約聖書・エズラ記による、人々の賛美についてです。時は、数十年にわたる捕虜生活から解放されて、祖国・イスラエルの地に帰ることができた民たちが、自分たちの心の拠りどころである神殿が再建されようとしていたときに、ここまで導いてくださった神に向かって賛美をささげているシーンです。
長年の苦しみから解放されたとき、これまで神が私たちを決して見捨てなかったこと、神が新しい時代に向かって、私たちとともに歩んでくださること。これまでの苦労が報われるのと同時に、新しい時代に向かって希望あふれる思いに満たされた、神を信じる人々の姿がありありと浮かんできます。
一方で、新約聖書・マルコ福音書に記されている賛美のシーンは、ものものしい雰囲気のなかでイエスと弟子たちが賛美している光景を思い浮かべることができます。イエスが受難に向かいゆくなかで持たれた晩餐の席で、イエスは自分を裏切る者の存在を明らかにし、ただならぬ空気がただようなかで食卓が持たれ、その後一同が賛美をしてオリーブ山を下ったと聖書に記されています。
このとき、弟子たちはどのような思いで賛美したのだろうか。シリアスな光景が私自身を襲うとき、賛美などできるのだろうか。ついついそう考えてしまいます。気持ちを奮い起こすために賛美したのでしょうか。少なくともそれが主な理由ではありません。なぜならば、賛美の目的は「神が私たちとともにおられる」ことを明らかにするものだからです。
私たちは、どんなときでも、それが気持ちが明るいときでもふさぎこんでしまうときでも、順調であっても不調であっても、神の臨在を感じるときでもそうでなくても、仲間がいるときでも孤独なときであっても、決して変わらないことー神が私たちを見捨てず、ともにおられ、守り導かれる方であるーに、私たちがつねに帰ることができるように、賛美という素晴らしい出来事が与えられているのだと。
そう考えると、エズラの時代のイスラエル人は、自分たちは見捨てられていなかった。自分たちに解放を与え、神とともに生きる喜びを回復させてくださった。そして新しい時代へと自分たちを向かわせてくださるのだとの思いをもって賛美をし、イエスと弟子たちがともに賛美をしたことは、これから後も、イエスは私たちの主であることの確かな保証が、賛美の歌に込められていた。それは、私たちにとって何ら変わることのない事実なのだと。そのように黙想させられました。
今日も、神が私たちとともにいてくださることを胸にして、賛美できる一日でありますように。お祈りいたします。
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