詩編65編9節より
朝と夕べの始まる所に
あなたは喜びの歌を響かせてくださいます。
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ルカによる福音書8章1節イエスは神の国を宣べ伝え、福音を告げ知らせながら、町や村を巡られた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
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イエスは、町や村を巡り歩かれ、神の国のおとずれという「福音」を告げ知らせた。これが今日私たちに与えられた聖書の言葉です。
イエスがこの社会において、第一の使命とされたこの業は、私たちに何を伝えるものなのでしょうか。そのことに黙想の思いを寄せてみたいと思いました。
町や村を巡られたというイエスの活動は、エルサレムという大都市だけではありませんでした。むしろ、彼の活動の多くは、いわゆる地方と呼ばれる、都市からは地理的にも、文化的にも、もしかしたら心情的にも「遠く離れた」場所が舞台になったことを、私たちは忘れてはなりません。
エルサレムという大都市で、イエスは民たちの注目を集めますが、同時にそのイエスを自分たちの当てが外れたと、十字架につけて殺したのは、自分たちが中心だと自負していた、都市の人たちによってであったことを、私たちは忘れてはなりません。
イエスは、誰の目からも見向きもされないようなところでも、明らかにその場で生き、生きる喜びを心から得たいと願う人々のために、自分自身を費やす生き方をした。町や村をという言葉は、あの町この村という出来事以上に、イエスという人物が、注目されるところだけに視線を向けるような方ではなかったことを、明らかにしているという、紛れもない証拠なのでしょう。
そのことは、今日の旧約聖書の言葉にも表れています。「朝と夕べの始まる所」、つまりあけぼのの光が差し込む東から、あかつきの光で赤く染まる西まで、山の端山際(やまのはやまぎわ)という辺縁の部分まで、神の喜びが、人々を生きる喜びに導いてくださるという賛美を、私たちに与えるものなのだと。
その喜びこそ「神の国のおとずれ」であり「福音」の中核にあることなのですが、私はこのことを黙想したときに、私の心や思いというものを、改めてじっくりと見つめる者とさせられずにはいられなくなりました。
私は、本当に自分の心や思いというものを、隅の隅まで見つめる者とさせられているだろうか。実は、ふたをして見えないようにしていたり、気づかないふりをして強がってみたりしていないだろうか。無いことにして、他の関心に目を向けることで、そのまま放置し続けてはいないだろうかと。
イエスが、陽の当らないところに及ばなければならないことがあるからこそ、神の国の福音を宣べ伝えられたように、それは私の心のうちの隅々まで、私ですら気づかない闇の部分に光を当ててくださるのだと。そうすることで、いろいろなしがらみや傷、トラウマというものから解放してくださるように、生きて働いてくださっているのだと。
福音によって救われるとは、実はそういうことなのではないかと、私は今日の黙想を通して、改めてそのように感じさせられました。恐れと不安、臆病ゆえに小さくされている私に、今日もイエスが臨んでくださる。そのことを希望にして歩みたいと心から願いました。
一週間の最終日である今日の一日が、そのようなイエスのお働きゆえに喜びつつ生きることのできる時でありますように。お祈りいたします。
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