02/02/2022

2022.2.2 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
詩編34編2節
私はどのような時も主をたたえよう。
私の口には絶え間なく主の賛美がある。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節より
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用
 
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今日の旧新約聖書を貫く言葉は「いつも」だと、私は受け止めました。どんな時でも、いつも、どんなことでも。。。
 
この「いつも」というのは、どのようなことを指すのだろうかと、あらためて黙想させられます。今日の新約聖書の言葉は、大変よく知られているものです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい。この聖書の言葉を愛唱聖句としている方は多いのではないでしょうか。
 
ただし、私たちはよく知っています。いつも喜ぶこと、絶えず祈ること、どんなことにも感謝できるというのは、そう簡単にできるものではないということを。私たちは、そのときのコンディションによって、喜ぶことを削がれ、祈れないこともあり、到底感謝できるような状況に自分を持っていけない。そういう自分自身を痛感することもあるのではないでしょうか。
 
そのようななかで、今日の聖書の言葉は、そうできない自分自身のふがいなさを実感させてしまうものであるかもしれません。しかし、そうではありません。今日の新約聖書は、こんな言葉が続いています。「これこそ、キリスト・イエスにおいて/神があなたがたに望んでおられることです。」
 
「キリスト・イエスにおいて」。この言葉が最重要なのだと私は思います。私たちは喜べないのを無理して、から喜びを振りまいたり、ただ形式だけの祈りを唱えればよいとか、とりあえず社交儀礼的に感謝の言葉を口先だけで言えば良いというものではありません。このような思いを「キリスト・イエスにおいて」というひと言が、すべて打ち砕きます。
 
エン・クリスト。これが、キリスト・イエスにおいてのもともとのギリシア語で書かれた言葉です。キリストが私たちとともにおられ、キリストが私たちの心の奥深いところにいてくださる。そして、私たちの生き方をご自分の言葉と聖霊の働きで整えてくださるときに、はじめて私たちの内から湧き起こるものこそ、じんわりとした喜びであり、主に信頼してすべてを明け渡す祈りであり、こんな自分でも生かされていることへの感謝へと導かれるのだと。
 
神が私たちに期待しておられるこれらの行動は、その前提となるキリストという根拠が、私たちのうちにしっかりと根付いているからこそであると。今日の聖書は、私の心のうちにキリストが住んでくださっていることが、いかに私を生かす源になっているだろうか。そんな深みを探り、確かめながら一日を歩みたい。これが、今日私に与えられた黙想でした。
 
どうぞ、キリストがともにあるという実感から湧き起こる、喜びがありますように。祈りの言葉があり、賛美があり、感謝があふれますように。

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