08/01/2022

2022.1.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
ヨブ記16章19節より
見よ。今も天に私の証人がいる。
私のために証言してくれる方が高い所にいる。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヘブライ人への手紙11章1節
信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今日の旧約聖書に登場するヨブという人物は、「どうして私はこんなに苦しまなければならないのか」と、繰り返し繰り返し問い続けました。そのことを記されたのが「ヨブ記」という書物です。
 
ヨブは、まさに理不尽な仕打ちを受けました。神に挑戦状をたたきつけた悪魔のいたずらによって、ヨブは財産、家族、健康、そして友人との信頼関係すら奪われてしまいます。
 
そして、その理由をヨブ自身は何も知らされませんでした。ある意味では、自分勝手な悪魔のとばっちりを受けて、巻き込まれて、付き合わされた結果と言ってもおかしくはありません。ヨブはその真相が何も分からないなかで、本当に苦しみました。
 
私はこれまで、まるで狐につままれたとでも言えるような、まったく理由が分からないなかで、自分自身がおとしめられた経験が何回かあります。私の見えないところで、攻撃の計画が着々と進んでいたのです。ですから、あるときから態度が180度変わって、私は「いじめ」の対象となりました。
 
そのときの苦しさと言ったら、計り知れるものではありません。もし、私に改善点があって、そのことを直接忠告してくれるならば、それは愛ある言葉として受け入れることができました。私も欠けの多い人間ですから、これまで、そういう言葉に示された愛というものに助けられ、生かされてきました。
 
しかし、いじめの場合は違います。その目的に、神の望むような愛は存在しません。存在するとしたら、いじめる側の自己愛だけでしょう。自己愛は他者に犠牲しか与えません。その犠牲が、人間を理不尽な思いにさせ、苦しみの渦へと巻きこませます。改善することの猶予すら与えられないのです。
 
さて、本日の聖書の言葉は、「神は私のことをいつも見ていてくださるという真実がある。だから私は苦しくても、神のなさる希望が置けるのだ」ということを私たちに伝えようとしているのではないだろうか、あらためてそんな思いを抱かされるものでした。そして、「信仰」とはそういうことなのだと。。。
 
真実を知り、それをご自分の御心で行使される神が、私の生き方をすべてご覧になられているというのは、本当に慰めの何物でもありますせん。今日も、神がそのように私たちを見ていてくださることを胸にし、希望ある一日を過ごしてまいりたいと思います。

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