06/01/2022

2022.1.6 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた本日の旧約聖書のことば
エレミヤ書33章8節より
私に対して犯したすべての過ちから彼らを清め、すべてを赦す。
 
旧約聖書に応じて選ばれた本日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章2節より
イエス・キリストこそ、私たちの罪、いや、私たちの罪だけではなく、全世界の罪のための宥めの献げ物です。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

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今日の聖書の言葉には「過ち」とか「罪」と言う語が登場します。過ちを赦される神。罪を相殺するために私たちへささげられたイエス・キリストであるとか。この聖書の言葉を通して思い浮かぶイメージは、私たち人間が過ちや罪というものを犯す存在であるというものであるかもしれません。
 
キリスト教2000年のなかで、私たちが過ちや罪を犯す存在であることは、私たち人間のありさまを示す、もっとも重要な考え方として継承されてきたという歴史があります。過ちを犯し続ける罪人という人間観です。そのことをことさら強調することによって、その対極にあるイエス・キリストの救いというものが提示されてきました。
 
今日の聖書の言葉にも、そのようなことが記されているわけですから、それは真実の言葉として受け入れることのできるものだと私は思います。しかし、私はそのことを踏まえて思うのです。私たちは、本当にイエスの言われた「罪」とか「過ち」というものを、本当に理解しているのだろうかということを。
 
罪や過ちとひと言で断言すれば、それは伝家の宝刀・黄門さまの印籠のような効果をもたらすことができるかもしれない。しかし、その断言が本当に神由来のものなのか、イエスが本当にそのことを願われているのか。神由来、イエスの願いと言いながら、ステレオタイプに形作られた己の常識ゆえに、神やイエスの思いを排除して、己の願いで断罪していないだろうか。。。
 
大切なのは、神の主たる目的は、私たちを断罪することではなく、私たちをご自分の思いで幸いに生かすということです。そのために神は私たちのためにその御心を明らかにされるということを、私たちがどれだけ理解し、共感し、同調し、生きられるかなのだと感じます。
 
私たちの罪がどこにあるのか。それに神がどのように寄り添ってくださるのか。そんなことを黙想できるような一日でありますように。

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