くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書9章6節
その主権は増し、平和には終わりがない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
エフェソの信徒への手紙2章14節
キリストは、私たちの平和。
©ベテスダ奉仕女母の家『日々の聖句2026』より引用
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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。今週90歳の誕生日を迎えた私たちの教会メンバーの方が、こんなことをおっしゃっておられました。歳をとればとるほど、あっという間に時間が過ぎてしまう、と。しかし、その方はまだまだできることがあるのだと、意欲が十分におありなのです。私はその方の姿勢に大いに学ばされました。あっという間に過ぎてしまう時だったとしても、その時をも次の時へとつなぐ大切な時としているのだと。来週につなぐ今日の一日を、聖書の言葉によって始めることの幸いを望みつつ、今日も神のみ言葉に聴きたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉に共通するワードは「平和」です。神の子の世界に対する願いであり、価値観そのものと言える言葉に間違いありません。しかし、神が望まれる平和とは何か。そのことを私たち人間が考えるときに、私たちの価値観というのは千差万別であることに気付かされます。
ある人は平和のために非暴力を訴えます。しかし、ある人は平和のためには暴力もやむを得ないと考える人もいます。戦争などにいたっては「平和のために戦う」という大看板を掲げて、人の命を犠牲にするのもいとわない態度が、私たちの世の中に渦巻くこともありますし、実際にそのような光景が今日も繰り広げられています。そのようななかで、私たちはどのような「平和」を心から望み、その平和を実践するものであることが大切なのでしょうか。これは私たちにとっての永遠のテーマと言えるでしょう。
聖書が伝える平和とは、神が望まれる平和であり、その平和観というものは、イエス・キリストによって具体的に示されました。誤解を恐れず申し上げれば、父なる神が推し進めた平和は、自分の民を守るためにしばしば戦争という手段を是認されました。つまり、そこには命の犠牲があったことを、私たちは否定できません。歴史を通じておこなわれてきた戦争の多くは、「神の御意思によって」と信じた人間によって展開されてきたことを、私たちは認めざるを得ません。
だからと言って、私たちはこの神の姿勢というものを、あえて自分自身が実践する必要があるのでしょうか。私は決してそうは思えないし、思いたくはありません。結局のところ、神は平和に対する解決の最終手段として、自らのひとり子であるイエス・キリストを私たちにお与えになられたという事実を、私たちは真剣に受け入れなければならない。私は堅く信じたいのです。
イエス・キリストは、人の暴力に刃を向けて対抗するというよりは、むしろそれに耐えて、決して暴力的にことをなすのではなく、神の平和というものを完璧にまで実践されました。ここにこそ、私たちが目指すべき平和のモデルというものがあるのです。暴力のない世界こそ、私たちが心から愛する神の平和に対する価値観であることを、今いちど心に刻みたいと私は心から願わされます。
暴力なき闘いというものがあることを、私は信じたいのです。その時にどうしても必要なのは、「神が守ってくださる」ということへの深い信頼の念であって、そのことをキリストの視点から、日々の営みに活かそうとする私の判断と決断なのだと。一週間の終わりにあたって、そのような思いを抱きつつ、来週の歩みへと進んでいきたい。これが私が今日の聖句を通して受け止めたいと思ったことでした。
この世界に平和が訪れますように。そのために、まずは私自身の心が、平和な思いへと神が導いてくださいますように。その導きに従って、今日も健やかに歩むことができますように。そんなことを心から祈りつつ過ごしたいと思います。皆さんの一日にも、平和の主なる神がともにいてくださいますように!
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