くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書8章21~22節
娘であるわが民の傷のゆえに
私も傷つき、嘆き、恐怖が私を締めつけた。
ギルアドには香油がないのか。
そこには医者がいないのか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章9~10節
イエスはザアカイに言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて44日目を迎えました。そしてペンテコステまであと6日となりました。今日もローズンゲンに示されたふたつの御言葉から黙想を得たいと思います。
癒しようのないほどに深い傷を負うことがあるのだ。今日の旧約聖書・エレミヤによる預言の言葉は、まさにそのことを示していると私は受け止めました。エレミヤが言う傷ついた民とは、まさに神の民であるイスラエルの民のことを指します。神の民なのにどうして傷を受けなければならないのか。それは神がいるのにどうしてこの世から災いが消え去らないのかという問いに相通じるような気がします。効き目のない神に、人々は嘆きと悲しみをともないながら、その傷が癒えないのをうめき、叫ぶのです。
傷を癒す軟膏も、それを診てくれる医者もいない。このエレミヤの言葉に、私は癒しというものがどういうところから起きてくるのだろうかということをじっくりと考えてみました。そこでやはり考えるのは、自分自身の姿というものをじっくりと眺めた時に、何が見えてくるのかをいかに大切にできるだろうかということです。
つまり、最初から神はご自分の民を大切にするし、傷を癒す力をお持ちだし、医者のごとく私たちをケアしてくださる御方なのです。しかし、当の私たちがそれを認めない、分からない、受けとめられない。そんな時にやり場のない思いが神に責任を転嫁するかのような働きをしてしまうのではないかと私は思ったのです。本当は私自身が神に向くことにどれだけひたむきであるかを見つめ直さなければならないのに、そのことを棚上げして神はいない、助けがないとついつい言ってしまう私たちの現実の姿を見つめることなく。。。
今日の新約聖書の言葉は、イエスに出会った徴税人ザアカイがこれまでの生き方を見つめ直した結果、本人がこれまで、あえて嫌われるようなことをしてまで自部自身を傷つけてきた傷が癒されて、イエスこそ自分にとっての癒し主であることに気付かされた彼に神の救いが訪れたのだとイエスが語られた言葉です。ザアカイの生い立ちについてはいろいろ推測できるわけですが、分かっていることは彼もその人生で傷つき、また傷つけていたひとりであったということです。しかし、神は彼をそのままには決してなさいませんでした。ギレアデの香油をもって彼を癒されたのでした。こうして、新しい人生の日々を歩むことができたのでした。
私の傷を癒してくださる方は必ずおられる。そんなことを希望の糧として、今日も歩んでまいりたいと願わされました。皆さんにとっても癒し主である神が、今日もすべてにともなってくださいますように。お祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿