くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記18章14節
主にとって不可能なことがあろうか。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書16章14節
その後、十一人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して神の御声に耳と心を傾けてまいりたいと思います。今日、私が黙想を通して受け止めたいと思ったのは「神のなさることにどれだけ素直になれるか」というものでした。
今日の聖句は旧約・新約どちらとも、神のなされたことをなかなか受け止められない信仰者の姿が描き出されています。すでに年老いたアブラハムとサラの夫婦、そしてあるじを失った11人の使徒たちです。そして、受け入れられないこととは、老夫婦のあいだに子が宿されて新たな命が芽生えるということ、死んでしまったイエスが復活の命を得たということです。
神は私たち人間に命の息吹を与えられた方であるという、天地創造の最後の仕事として人間をお造りになられたという出来事が、今日まで脈々と継承されているという神のコンセプトが首尾一貫されているというところに、私たちは注目することができますし、それが結果として私たちが生きる「希望」へとつながっているのだという私たちの確信こそが、私たち一人ひとりにつねに問われているのだと私は思います。
それは、たとえ絶望を経験し、自分の命や生活には限界があるのだという私たちの自意識のなかにも、神は私たちとともに生きてくださるなかで、その意識を変革させてくださる力をお持ちであるということに直結します。「もう無理」と思うことは私たちには往々にしてあるでしょう。そうです。確かに「自力」には限界があるのです。その限界を知るのは何も悪いことではありません。限界を自覚するところにこそ、では、私たちは何によって自分の命をどのように用いることができるのかという「次のステージ」へ、自分自身の意識を持っていくことが可能になるのですから。
それが「神のなさること」なのだと、私は受け止めたいのです。それは、私たちが完全無欠のスーパーマンになることでは決してありません。限界のなかにも生きる喜びを与え、自暴自棄になることなく、困難とともに生きる覚悟を抱き、困難をすべてご存知である神がその課題をともに担ってくださり、乗り越えてくださる勇気と知恵、心の平安を私たちに与えてくださるのですから、私たちは与えられた現実に介入される神に心からの信頼をもって、未来を見据えることが可能となるのでしょう。
いのちの誕生や復活という「芽生え」を受け入れられない私たちがあります。自分自身の限定された思考や感情がそれをシャットアウトしてしまうこともあります。そんな私たちの隠すことのできない姿を神である主は今日も理解してくださったうえで、今日も私たちとともに生きてくださることに心を寄せつつ、与えられた命の喜びを謳歌することができますように。皆さんの一日も、神がゆたかに臨んでくださいますように。心からお祈りします。
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