くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章9~10節
六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書3章4節
イエスは人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。昨日はローズンゲン黙想をお届けすることができず、楽しみにしてくださっている皆さまへは大変失礼しました。心を新たにして、今日与えられた御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「本質を問う」ということです。物事の本質を問い続けることが、形骸化から離れて生きることにつながる。そんな思いを大切にしたいと思ったのです。
今日の旧約・新約聖書の言葉を貫くキーワードは「安息日」です。週の最終日である七日目は、労働で疲れた心と体を休ませることが安息日の本来の目的であって、それは神が私たち人間を慈しんでおられることへの紛れもない証左であると言えるでしょう。神も天地創造ののちに休息を取られました。休むことでいろいろ振り返ることが可能となるのです。私たち人間に神は「休むことによる幸い」というものを教えてくださっているのだと私は思います。
しかし、安息日の意味も時代が過ぎるとともに「労働してはならない日」という意味合いが強くなったのでしょう。神の祝福という本質よりも、禁忌という側面が強調されることによって、人間を縛り付ける要素のほうが強くなり、人間はそれを必死に守ることに躍起になってしまうのです。もちろん私たちは、何らかの強制力をともなうことによってそれが習慣化されるうちに本質を見い出せることもあります。しかし、強制力が強制力のままに受け止められ続けて行くのであれば、それはまさに本末転倒なことなのです。
日曜日の礼拝は厳守!と、教会ではよく言われていました。それだけ安息日を大切にしようとする人の気持ちというものが表れるがゆえの言葉なのでしょう。実際に私もそのように言われて育ちました。日曜日をそのように用いるようになってから(カルト教団時代も含めて)もう40年近くになります。しかし、誰から何かを言われたからということではなく、強制だからということでもなく、自分自身の判断と決断によって、安息日に礼拝するということが、本当にリフレッシュの時なのだという「本質」に心から気づくことができたのは、誤解を恐れず申し上げればごくごく最近のことなのではないだろうかとも思ってしまったりもします。
特に、礼拝を司るという務めに就いてから、いかに安息日が神から与えられた祝福なのかということを心からにじみ出るように感じ、それを共有することができるだろうかということは、自分自身の牧師という職を担うにあたって、もっとも大切な営みのひとつのように感じるのです。牧師になって20年を迎えようとしている今、そのことを会得したなどとはまったく思わないのですが、だからこそ、つねに神が与える言葉と行いの本質というものに眼を向け続けたいと願わされるのです。
神が与えられたひとつひとつの出来事を、神の善、神が与えられた命の喜びにつながるような私自身の生き方ということに心を寄せつつ、新しい一日を歩みたいと心から願いつつ、皆さんの一日にも神である主の喜びが豊かにあふれますように。心からお祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿