24/06/2025

2025.6.24(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言3章5~6節
心を尽くして主に信頼し
自分の分別には頼るな。
どのような道を歩むときにも主を知れ。
主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書21章18節
よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたい所へ行っていた。しかし、年を取ると、両手を広げ、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉を通して、私が受け止めたいと思ったのは「人は自分の思い通りにはいかない」ということです。そのなかで、私たちが見つけることができるものとはいったい何かについて、あらためて黙想したいと思いました。
 
私は昨日から、日本基督教団新任教師オリエンテーションで研修のときを過ごしております。二十数名の新任教師の皆さんがこの研修を受けられるのをともに過ごしつつ、私も19年前にこの研修を受けていたことを思い出しておりました。今回、私は主催者側の立場から新任教師の皆さんへのお手伝いをさせてもらっています。
 
キリストを伝えていくという務めと営みは喜びが多いが悲しみも多い。決して順風満帆とは言えない時だって経験することがある。礼拝メッセージや講演を伺っていますと、私よりもさらに経験のある先輩牧師たちからそのようなお話を伺います。しかし、同時にそのどなたも語られるのは、自分自身の力で成し得ようとすると必ずと言ってよいほど無理が生じるということでした。私も20年になろうとしている牧師としての歩みのなかで、そのことを痛感し、また心から実感させられることを思います。
 
伝道とは自分の所業ではなく、神の御業そのものなのだと。実際に働くのは私自身かもしれませんが、その背後には神である主の大きな働きのなかで私という人物が神の御心を自分の思いとしていただいて宣教をした結果としての神の御業なのだと。まさに今日の旧約聖書の言葉である、箴言3章の言わんとしていることなのだと私は受け止めました。
 
自分の思い通りにならない。このことは牧師として実感させられる大変必要な感覚かもしれません。なんでもかんでも自分の思い通りにいったら、私自身が何によって生きているのかということにおいて、大いなる勘違いをしてしまうかもしれないからです。もしかしたら、神の御業を賛美する前に、自分自身の手柄に酔いしれてしまうかもしれないのです。そこに鼻っ柱の強さを感じる自分自身など発見することができないのが、私たち人間の偽らざる姿なのでしょう。
 
若い者が若い時になんでもできたのに、歳をとればとるほど周りの助けなしには生きていけないということが、実は大きな祝福なのだということを、今日の新約聖書の言葉は私たちに知らせています。イエスがご自分の弟子であるペトロに対して語った言葉です。主イエスの弟子としてこれからも生きていくために無くてはならないこと。それは主の御業に助けられつつ生きていくことで得られる幸いというものをいかに大切にできるかということなのでしょう。自分自身の能力に頼ることではないのだと。
 
そんなことを思いつつ、主の御業に生きる幸いを今日も味わってまいりたいと思います。皆さんの一日に、神の御業が親しく臨んでくださいますように。心からお祈りします。

23/06/2025

2025.6.23(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編145編9節
主はすべてのものに恵み深く
その憐れみは造られたものすべての上に及ぶ。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ローマの信徒への手紙8章21節
被造物自身も滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入ります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの場で主の日の礼拝を楽しむことができたのではないかと思います。新しい一週間を生きるために神から押し出されて、今日からウィークデイの日々が始まります。皆さんの平日に、神が豊かに臨んでくださいますように。そんな願いとともに、今日の御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、「つくられた者」としての人間の姿というものを思わされます。皆さんもご存知のように、聖書にはすべてのものは神によって創造されたことが記されています。進化論が生物起源の主流とされているなかで、神がすべてをつくられたという考え方は科学的にどうなのだという議論もしばしば起きています。しかし、科学的に正しいか間違いかということを問う以前に、「神によって私たちはつくられた」という意識は、私たち人間をかたちづくるうえで、絶対に欠かせないことなのだと私は考えていますし、そういう考えが一人でも多くの方々と共有できれば、この世界は平和になるのだと信じたいのです。
 
神が人間に対して願っておられることは、有無も言わせず束縛され、何者かによって隷属されて生きることではありません。人間が神に従うことも隷属や束縛なのではないかという意見もあるでしょう。しかし、私はもしそのことが世の中でそのように感じるとするならば、それは神をゆがんだ支配のために利用・悪用する人間によってつくりあげたシステムなのだと思っています。本来神は人間に対して、互いに妨げ合わない関係性のなかで、神からいただいた自由というものを、世界のなかで喜び合えることを心から望んでおられるのだと信じたい。今日の聖書の言葉は、そのことを私たちに伝えようとしているのです。
 
そのようなコンセプトをもって、私たちが神によって「つくられた」という意識を抱くことの大切さは、そういうところから起きるものなのだとしっかりと受け止めながら、このウィークデイの日々を歩みたいのです。互いに神の慈しみと憐れみに生かされていることを喜び合うことができますようにと祈ります。

21/06/2025

2025.6.21(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編136編3~4節
主の中の主に感謝せよ。
ただひとり大いなる奇しき業を行う方に。慈しみはとこしえに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録8章6,8節
群衆は、フィリポの行った数々のしるしを見て、こぞってその話に耳を傾けた。町の人々は大変喜んだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。この7日間の歩みを振り返るなかで、私自身の生活にゆとりや安心感が欠けていたことを想い起こします。そのようななかで、一つ一つの出来事を通して、確かに神である私たちの主は明らかに生きて働いてくださった。そんなことに感謝できるような聖句を、今日ローズンゲンに示されたふたつの聖句は私に感じさせてくれた。そんなことを受け取りたいと思ったのです。
 
今日のふたつの聖句を貫くテーマは「奇しき業」です。神が与えてくださる不思議な業が、私たちの想像をはるかに超えた喜びを与えてくださるということを、私は素直に受け入れることができたのでした。
 
昨日は、私が責任の一端を担う日本基督教団東北教区の常置委員会(いわゆる役員会)でした。先月から書記の務めをいただいていますが、膨大な資料作成やそのための準備に追われていたなかで臨んだ会議でしたが、無事に乗り越えることができて本当に感謝でした。その日の夕方からは、私が勤務している「東北教区センター・エマオ」で毎月行われている「オープンスペースぽかぽか」が行われました。私はいつも食事をつくる担当なのですが、一日中かかる会議のあとでしたので、いつものように食事の準備をすることができません。どうしようかと悩んでおりました。
 
しかし、エマオのスタッフさんやいつも一緒にぽかぽかを運営している皆さんが、心から協力してくださいました。そしていつものように、いやそれ以上に盛況にこの時を過ごすことができました。そこには喜びがあふれているのを実感して、心から安心感を得ることができました。疲れが癒されていくのを明らかに実感したのです。
 
ぽかぽかが終わるころ、とても嬉しいお客様がいらっしゃいました。今日教会でライブをしてくださるサル―キ=ご一行さまです。実はこのライブのエージェントを担っていたのですが、あまり準備をすることができなかったので、とても申し訳ない気持ちでいっぱいだったのです。それでも久々の再会にとても嬉しくさせられました。
 
一緒に夕食を楽しんだのですが、ここで私の心に神の喜びが明らかに入り込んでいったひと時がありました。その詳細は控えるとして、今まで自分が抱いていた不安は何だったのだろうかというような思いにあふれたのです。神がすべてを導き、喜びへと変えさせてくださる。私は神のそのようなまなざしがあることをどこか忘れていたのではないか。そんなことを思って神に感謝しました。そしてそれを分かち合うことができました。
 
そんななかで、一本の電話がさらに私の心を喜びに満たしました。敬愛する大嶋重徳牧師とひょんとしたことから電話で話した数分間、どれだけ励ましと慰めを得たことか。神はいろいろな方法でまさに「奇しき業」を見せてくださったのだ。そんなことを心にいっぱいに満たして家路に着くことができたのでした。そんななかで、明くる朝に開いたローズンゲンの御言葉に心から「アーメン!」とうなりたくなったのです。今自分に必要な御言葉が与えられる。これぞ神の「奇しき業」なのだと。
 
今日も一日が神の与えてくださる喜びに満たされながら、主とともに歩みたいと思います。皆さんにとっての週の最終日もまた、そのような喜びに満ちあふれたものとなりますように。心からお祈りします。

20/06/2025

2025.6.20(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編25編16節
御顔を向けて、私に恵みを与えてください。
私は独り、苦しんでいます。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章47節
ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
おととい昨日と、ローズンゲン黙想をお届けできず、申し訳ありませんでした。しなければならないことが立て込んでおりました。しかし、そういう時にこそ、御言葉に向き合う時間を第一に確保しなければと反省するばかりです。それが結果として、私自身の安心した生活を営むことができるからです。思いを新たに、今日ローズンゲンに与えられた御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思いました。
 
今日のローズンゲンに示された御言葉を通して私が受け止めたいと思ったのは、私をいつも見ていてくださる神がおられるということに、私自身気づく者でありたい。私は決して孤独ではないのだから、というものでした。自分のなかで忙しさが続くと、ついつい意固地になってしまう自分自身を発見してしまうのです。自分が孤独のヒーローのように感じてしまうのです。そして、他からの良いものを受け付けることなくはねのけてしまう自分自身があったりするのです。
 
そのなかで、私は思うのです。もっとも大切であり、そして私につねに良いものを与えてくださる方である神のまなざしまで受け入れず、はねのけてしまいそうな自分自身が時に顔を出してしまうということをです。そして、誰からも見守られない、私のことなど分かってくれないと孤独のヒーローのように自分自身が振る舞ってしまうのです。実際にそういうシーンを私たちは多少なりとも経験します。今日のふたつの聖句に共通するのは、誰からも手を差し伸べられないと思い、それゆえに苦しんだ人たちが、神に助けを求めているシーンです。
 
しかし、神はどのような状況であれ、私たちにご自身の御顔を向けてくださっているのです。問題なのは、私自身がそのまなざしがあることを自分の眼のかすみゆえに見ることができないという状態にあるということなのだと私は受け止めました。神が見てくださらないのではなく、私たちの神を見ることができないということなのです。それを、私たちは神のせいにしていないだろうか。そんなことを自戒を込めつつ思わされたのでした。
 
私たちには神の御言葉が聖書を通して与えられています。この言葉によって、私たちは励みや慰めを十分に受けることができるのです。聖霊なる神の助けが、私たちを守ってくださいます。聖霊の導きこそ、心で神を見つめるためになくてはならない働きであり、神は私たちのことを見つめつつ、聖霊の助けをもって私たちが孤独に感じないようにいつも助けてくださるということなのだと。私は自分自身の忙しさを言い訳にして、この大切なことを忘れかけていたことを神の御前に思い直したいと思います。決して孤独ではないのです。孤独ではないのです。
 
今日も自分自身に務めが与えられています。私を見つめてくださっている神に信頼しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神のまなざしが皆さんを豊かにしてくださる実感があふれんばかりにありますように。お祈りします。

17/06/2025

2025.6.17(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記46章3~4節
私は神、あなたの父の神である。私はあなたと共にエジプトへ下り、また必ずあなたを導き上る。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書18章28~30節
ペトロが、「このとおり、私たちは自分の物を捨てて、あなたに従って参りました」と言った。イエスは言われた。「よく言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者は誰でもこの世でその何倍もの報いを受け、来るべき世で永遠の命を受ける。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神は私たちの不安を不安のままにはしておかれない」というものでした。そのことについて黙想をつづってみたいと思います。
 
今日の新約聖書の言葉は、読み方に注意を払いたいと私がいつも思っている聖句です。誠実に日々を生きていたある者がイエスに、永遠の命を得るには何をしたらよいかを尋ねました。その人は律法の言葉を言葉通りに守っていたことをイエスに告白しますが、イエスはその人にとってチャレンジとなることを提示します。自分の財産を経済的に困窮している人のためにすべて用いなさいというものでした。
 
その結果、その議員はその場を去ってしまいます。チャレンジとされていることを自分のものとすることができませんでした。そのようなやり取りのあとで、神の国の価値観に生きることの難しさを告げたのち、今日の聖書の言葉に示されたことを弟子たちに告げたのでした。
 
私はこの聖書の言葉に聴くときに、聖書の言葉をその言葉の通りに読み、それを受け入れ、それを自分自身の生き方とする場合、それを文字面だけでとらえるのではなく、やはりその言葉に示された「本質」というものに、いかに自分自身の心や目、耳というものを傾けることができるのかというところにこそ、御言葉を神の御言葉として受け入れられる絶対不可欠のものと考えています。つまり「なぜを問う」という営みを大切にすることです。
 
心のともなわない言葉は、言葉だけが独り歩きします。その言葉が武器や凶器となることだってあるのです。私がこのルカ福音書の聖句に注意を払いたいと言ったのは、この言葉を用いてささげることを強要し、多くの金銭的被害をもたらしたキリスト教系宗教団体、また教会の存在が後を絶たないことを知っているからです。私は思うのです。なぜを問い、神との深い対話を何にも邪魔されずにおこなった結論として、自分自身に対する神からのチャレンジを受け入れたところにこそ、はじめて祝福というものを味わえるのだと。
 
誰かから宗教的なアプローチを経て、その意味を考えることなく行動を行うというところには、多くの危険が伴います。まさに不安を抱えたままその不安に対する神へのまことなる信頼が失われたまま、私たちは誤導させられることがあるということを考えたいのです。この誠実な議員はそのことが足りなかったのでした。
 
私たちの不安を不安のままにしておかれない神が、他の何者もの介入の邪魔を許さず、私たち一人ひとりをご自分の道へと導いてくださるのです。そのためにも、私たちは神が語り掛ける御声というものを、聖書と聖霊という両輪の助けを通して、その本質を問い続けて、神に信頼を置くいしずえとしたいと心から願いつつ今日という日を歩みたい。これが私の得た黙想でした。皆さんを必ず祝福してくださる神が、今日も私たちにチャレンジを与えてくださる。そのことに心を寄せつつ生きることができますように。皆さんの主にある祝福が豊かにありますように。お祈りします。

16/06/2025

2025.6.16(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
箴言15章1節
柔らかな受け答えは憤りを鎮め
傷つける言葉は怒りをあおる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二1章13節
キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
昨日はそれぞれの教会や集会で、主の日の礼拝を通していのちの祝福を味わう機会が与えられたのではないかと思います。私も午前は近隣の教会で、午後は代務牧師を務める教会で、それぞれ喜びをいただくことができました。ここのところ身体は疲れていますが、健全な心が宿るところには健全な選択と行動ができることを心から信じ、神の喜びとともに歩むウィークデイでありたいと心から願うばかりです。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったのは「健全な言葉」についてです。父・子・聖霊なる三位一体の神が、私たちひとりひとりの人生の日々を守り、祝福されるときに、私たちの口から発する言葉も神の御心にふさわしい健全な言葉を紡ぐことができるのだということを、今日の聖句は私たちに伝えているような気がしてなりません。
 
昔から、いわゆる「信仰に熱い」方々がご自分の信仰をあらゆる方法を通して表現することがあるのを、皆さんはよくご存知であると思います。最近ではSNS界隈でそのような表現がなされることが多いわけですが、インターネットを介したそのような自己表現は、私たちがまったく会ったこともない人間であったとしても、その存在がぐんと身近になっているような気がしています。もちろんそのような表現として、従来の書籍や雑誌、テレビやラジオなどの媒体が今でも用いられているわけですが、インターネット媒体は、より多くの情報をより簡単に入手できる手段としてひろく用いられているのは、皆さんもご存知の通りかと思います。
 
しかし、どのような媒体を用いてもそうなのですが、そこには必ず「倫理」がともなうということを、私たちは決して忘れてはならないのだと感じています。私は常々感じていることなのではあるのですが、インターネットが市民権を得て、誰もが利用したり自己表現ができているなかで、意外にも「インターネットの倫理」について学び、理解する機会が少ないとということをあらためて思わされるのです。特に、キリスト者が自分自身の信仰観をもってインターネットを用いて自己表現する時に、今日のローズンゲンに示されているような言葉に裏打ちされた倫理観というものを大切にしているのだろうか。そんなことを自戒を込めつつ、考えさせられるのです。
 
あまりにも挑発的かつ挑戦的な発言や、事実に基づかない話題、他者を貶めるような発言というものを、自分の信仰観にもとづいてインターネットという公器に載せて広げようとするならば、それは本当に神がお望みなことなのだろうかと、その御心を問い直すことも必要なのだと私は感じています。もし対面では控えているようなことを、インターネットでは平気に行っているならば、それは器の用い方の誤用としか言いようがないのだと私は感じます。何をするにしても、私たちは聖書の一部分だけを取り出しては自分自身を正当化することのないように、今日の聖書の言葉を通して、神と対話しつつ自己省察したいものです。
 
私たちの発する言葉が、神の栄光を指し示し、イエス・キリストにある信仰と愛が満ちあふれるものとなりますように。そのことが私たちの生活を豊かなものとしますように。祈りつつ今日の残りの時間も過ごしてまいりたいと思います。皆さんのことをも想いつつ、心よりお祈りします。

15/06/2025

2025.6.15(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ゼカリヤ書7章9節
真実の裁きを行い
互いに慈しみ、憐れみ合え。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
テモテへの手紙二2章24~25節
主の僕たる者は争わず、すべての人に優しくし、教えることができ、よく忍び、反対する者を柔和な心で教え導かねばなりません。もしかすると、神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれません。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
新しい一週間を迎えました。今日、世界中の教会や集会でおこなわれる主の日の祝祭が豊かなものでありますように。心からそのことを願い、祈りつつ、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に聴いてまいりたいと思います。
 
今日示されたふたつの聖句を通して受け止めたいと思ったことは「私たちを敵と思う人がいたとしても、私が敵と思う必要はない」ということです。そのことを、今日の新約聖書である「テモテへの手紙」の一節は私たちに伝えています。
 
テモテへの手紙は、使徒パウロが年若き伝道者であるテモテに対して、自分の持っている大切なことを伝えようとのコンセプトで書かれたものです。パウロによる真筆かどうかという議論はありますが、今日はその話題は置いておいて、この時代にイエスを救い主として伝えることがどういった状況のなかでなされていたのかということを知るうえで、この手紙は私たちに理解を与えるのです。
 
では、どのような状況かと言えば、パウロやテモテのような伝道者を「敵」とみなす人々が多かった、ということです。イエスに対しても彼を敵と思っている人がいたように、神による真実の言葉を伝え分かち合うというのは、常にチャレンジが求められているのだとつくづく思わされます。そのようななかでパウロは、歳若く将来性のある同労者テモテに対して、伝道者の心構えについて知らせようとするのです。
 
自分を敵と思っている相手に対して、こちらが敵と思う必要はないのです。今日の聖句に示されているエッセンスとはこのような姿勢なのです。神を敵と思う悪魔サタンによって人々はその餌食にされている。実は敵と思ってもおかしくないような自分へ憎悪の念を抱いている人たちもまた「犠牲者」であることを、私たちは忘れてはいけないのです。
 
だからこそ、神が私たちに教え、伝え、示されたことによって芽生えた「愛と平和」をもって、まず私たち自身が生きることが大切なのです。敵に向き合うことに己を集中させると、もちろん成果はあるかもしれませんが、心により一層の疲労をもたらすかもしれません。まず自分自身が神によって喜びをいただいていることで、私たちは心が安心感を抱くようになり、この安心から来る穏やかさをもって、どんな人にも接してくことが最終的に神の良いものがいわゆる敵の人生をも変えていくのだということを、パウロはテモテに伝えたかったのでしょう。
 
もちろん、そうすることで自分の身に危険が及ぶこともあります。その時には柔和な心をもって神にとりなしの祈りをすれば良いのだと私は考えています。それがどのような行動に至ろうとも、大切なのは敵視に敵視をもって応答しないという姿勢を神の導きと助けによって得るということなのです。これが「主の慈しみに生きる姿勢」であり、私自身も福音を宣べ伝える者として、このことを大切にしつつ、新しい一週間を歩みたいと心から願わされました。
 
どうぞ、皆さんの新しい一週間とその先駆けとなる今日の一日が、主の慈しみを存分に受ける時となりますように。心からお祈りします。

14/06/2025

2025.6.14(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記3章6節
女が見ると、その木は食べるに良く、目には美しく、また、賢くなるというその木は好ましく思われた。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの手紙一2章17節
世も、世の欲も、過ぎ去ります。しかし、神の御心を行う者は、永遠にとどまります。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今週も最終日を迎えました。今週の日々の歩みを振り返りつつ、明日への備えとして、今日もローズンゲンに示されたふたつの御言葉を通して黙想を得たいと思います。
 
私は、今日の聖句を通して、特に新約聖書・ヨハネの手紙に記された「神の御心を行う者」について黙想を深めていきたいと思わされました。そのことを踏まえると、今日の旧約聖書の言葉である創世記に記されていることが、いかに私たち人間の根底に流れている思いだろうと思わされたのでした。
 
創世記3章に描かれていることは、神によって食べることを禁じられていた「善悪と知識の木の実」をめぐって、人間と蛇に扮した悪魔サタンとのやり取りについてです。神の御心はこの実を食べないという選択を人間がすることでした。しかし、蛇のそそのかしによって人間の心は揺れ動きます。蛇のアプローチは神の告げていたこととは真逆でした。「食べるに良く、目には美しく、また、賢くなる」という情報を、人間は得ていたのです。
 
この情報は、人間の心を魅了させます。そして「好ましく思えた」と聖書はそのときの人間の思いを書き記しています。これは誰にとって好ましいことなのか。それは明らかに人間自身にとってでした。私にとって好ましいこととはいったい何か。この選択が人間に迫られていたのですが、しかし感情には逆らえない人間の姿というものが率直に書き記されているのです。
 
感情には逆らえない。
私たちが日常の生活のなかで、ごく普通に経験することでしょう。神によって「互いに愛し合いなさい」と言われても、どうしても許せない、愛せない、自分のうちから起こる憎悪の念がふつふつと沸き起こるということが、私たちの人間関係に起きてくることはないでしょうか。理性ではそれではいけないのだということが分かっていても、憎しみという感情には逆らえない。私も正直に申し上げれば、そういうことがしばしば起きてくることがあります。そういう時にこそ、私自身のうちに神と同調していないという自分自身を見つけては、そのことに嫌気がさしてしまうということがあるのです。
 
だからこそ、そういった思いをすべてご存知である神にどうやって向き合っていけばよいのだろうかということに、自分の思いを募り、神に自分自身を申し開き、打ち明けては自分自身の感情と理性のはざまで揺れ動く自分自身というものを実感するのかもしれません。いわゆる「罪の深さ」というものに落ち込んでみたり、いや、自分自身の正しさを貫きたいと思うこともあるでしょう。これが人間自身の偽らざる現実と姿なのだと私は思うのです。
 
私たちにとって大切なのは、明らかに神の御心にともなわないであろう自分の感情を神の御心にすり替えて、それをさも神が自分の感情を是認しているのだということは、やはり神の御心ではない、という認識であると私は受け止め続けたいのです。それが、今日の新約聖書で語られている「世も世の欲も」という言葉の真意なのでしょう。欲なのです。私自身の欲求なのです。善悪の知識の木の実を食べることで「神のようになれる」とは、まさに自分の感情を神の御心とするすり替えによって起きることを、私たちは忘れてはいけないのだと思うのです。
 
だからこそ、神の御心とは何かということを丹念に、謙虚な思いをもって見つめていくことの大切さを想わされるのです。神の御心を行うというのは、行動が先にありきなのではなく、そもそも神の御心と自分の感情を比べながら、そこにそもそものズレはないだろうかということを黙想を通して、神と対話するところから始まるのでしょう。神に与えられる永遠のいのちとは、そういう神との健全かつ濃厚なつながりを自覚することによって、自分自身に与えられているのだという幸いと喜びへと導かれる。そんなことを受け止めたいと思わされたのでした。
 
そんな一週間の最終日が幸いに包まれますように。明日への備えの一日を心からお祈りします。

13/06/2025

2025.6.13(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
創世記18章14節
主にとって不可能なことがあろうか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書16章14節
その後、十一人が食事の席に着いているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して神の御声に耳と心を傾けてまいりたいと思います。今日、私が黙想を通して受け止めたいと思ったのは「神のなさることにどれだけ素直になれるか」というものでした。
 
今日の聖句は旧約・新約どちらとも、神のなされたことをなかなか受け止められない信仰者の姿が描き出されています。すでに年老いたアブラハムとサラの夫婦、そしてあるじを失った11人の使徒たちです。そして、受け入れられないこととは、老夫婦のあいだに子が宿されて新たな命が芽生えるということ、死んでしまったイエスが復活の命を得たということです。
 
神は私たち人間に命の息吹を与えられた方であるという、天地創造の最後の仕事として人間をお造りになられたという出来事が、今日まで脈々と継承されているという神のコンセプトが首尾一貫されているというところに、私たちは注目することができますし、それが結果として私たちが生きる「希望」へとつながっているのだという私たちの確信こそが、私たち一人ひとりにつねに問われているのだと私は思います。
 
それは、たとえ絶望を経験し、自分の命や生活には限界があるのだという私たちの自意識のなかにも、神は私たちとともに生きてくださるなかで、その意識を変革させてくださる力をお持ちであるということに直結します。「もう無理」と思うことは私たちには往々にしてあるでしょう。そうです。確かに「自力」には限界があるのです。その限界を知るのは何も悪いことではありません。限界を自覚するところにこそ、では、私たちは何によって自分の命をどのように用いることができるのかという「次のステージ」へ、自分自身の意識を持っていくことが可能になるのですから。
 
それが「神のなさること」なのだと、私は受け止めたいのです。それは、私たちが完全無欠のスーパーマンになることでは決してありません。限界のなかにも生きる喜びを与え、自暴自棄になることなく、困難とともに生きる覚悟を抱き、困難をすべてご存知である神がその課題をともに担ってくださり、乗り越えてくださる勇気と知恵、心の平安を私たちに与えてくださるのですから、私たちは与えられた現実に介入される神に心からの信頼をもって、未来を見据えることが可能となるのでしょう。
 
いのちの誕生や復活という「芽生え」を受け入れられない私たちがあります。自分自身の限定された思考や感情がそれをシャットアウトしてしまうこともあります。そんな私たちの隠すことのできない姿を神である主は今日も理解してくださったうえで、今日も私たちとともに生きてくださることに心を寄せつつ、与えられた命の喜びを謳歌することができますように。皆さんの一日も、神がゆたかに臨んでくださいますように。心からお祈りします。

12/06/2025

2025.6.12(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
申命記13章5節
あなたがたはあなたがたの神、主に従って歩み、主を畏れ、その戒めを守り、その声を聞いて、主に仕え、主に付き従わなければならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
フィリピの信徒への手紙2章15~16節
あなたがたはこの世で星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して、私が受け止めたいと思ったことは「神の御声に聴くことこそ、光り輝く人生を喜ぶことができる」というものです。そのことについて黙想したいと思います。
 
今日の旧約聖書の言葉は、申命記の一節でした。40年間にわたる荒野のさまよう旅を続けたイスラエルの民に対して、指導者モーセが遺言として語ったのが申命記です。神がイスラエルの民に対して何を思い、何を願い期待されたかを、モーセは今一度民たちの心に置こうとしています。ですから、今日の旧約聖書の言葉における「主に従い、主とともに歩む」ことの大切さは、モーセがこれまでの人生のなかで自分自身の実感として「これだけは伝えたい」と思ったことだったのでしょう。
 
しかし、私たちはこのことを「~しなければならない」という命令だからそうするのでしょうか。もちろん、命令にはそれなりの拘束力がありますし、命令に従うことでそれを自分自身の習慣とすることもできるでしょう。しかし、モーセ亡きあとのイスラエルの歴史がそうであったように、人間は命令に100%従えるような存在ではないというのは、これまた私たちの経験から来る実感によって明らかにされていると私は考えます。だからこそ、神はイエスをキリストとしてこの世に、私たちのために遣わされたのではなかったでしょうか。
 
私たちは、命の救い主であるイエス・キリストが「いのちのことば」となられることによって、私たちのうちにその言葉が授けられるときに、主とともに生きる幸いに包まれるように神様がしてくださいました。そのいのちのことばが私たちの魂に浸みこんで、それがしっかりとホールドされるときにこそ、神の栄光によって生きることがゆるされるのです。神の栄光が私たちの行く道を光り輝かせてくださるというのです。
 
だからこそ、私たちは今日も「いのちのことば」が与えられ、そのことばには輝きがあることを喜ぶ者でありますようにと祈りたいと思います。皆さんの生活に主とともにあるうるおいと幸いが豊かにありますように。お祈りします。

11/06/2025

2025.6.11(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
出エジプト記20章9~10節
六日間は働いて、あなたのすべての仕事をしなさい。しかし、七日目はあなたの神、主の安息日であるから、どのような仕事もしてはならない。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書3章4節
イエスは人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。昨日はローズンゲン黙想をお届けすることができず、楽しみにしてくださっている皆さまへは大変失礼しました。心を新たにして、今日与えられた御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思います。
 
今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「本質を問う」ということです。物事の本質を問い続けることが、形骸化から離れて生きることにつながる。そんな思いを大切にしたいと思ったのです。
 
今日の旧約・新約聖書の言葉を貫くキーワードは「安息日」です。週の最終日である七日目は、労働で疲れた心と体を休ませることが安息日の本来の目的であって、それは神が私たち人間を慈しんでおられることへの紛れもない証左であると言えるでしょう。神も天地創造ののちに休息を取られました。休むことでいろいろ振り返ることが可能となるのです。私たち人間に神は「休むことによる幸い」というものを教えてくださっているのだと私は思います。
 
しかし、安息日の意味も時代が過ぎるとともに「労働してはならない日」という意味合いが強くなったのでしょう。神の祝福という本質よりも、禁忌という側面が強調されることによって、人間を縛り付ける要素のほうが強くなり、人間はそれを必死に守ることに躍起になってしまうのです。もちろん私たちは、何らかの強制力をともなうことによってそれが習慣化されるうちに本質を見い出せることもあります。しかし、強制力が強制力のままに受け止められ続けて行くのであれば、それはまさに本末転倒なことなのです。
 
日曜日の礼拝は厳守!と、教会ではよく言われていました。それだけ安息日を大切にしようとする人の気持ちというものが表れるがゆえの言葉なのでしょう。実際に私もそのように言われて育ちました。日曜日をそのように用いるようになってから(カルト教団時代も含めて)もう40年近くになります。しかし、誰から何かを言われたからということではなく、強制だからということでもなく、自分自身の判断と決断によって、安息日に礼拝するということが、本当にリフレッシュの時なのだという「本質」に心から気づくことができたのは、誤解を恐れず申し上げればごくごく最近のことなのではないだろうかとも思ってしまったりもします。
 
特に、礼拝を司るという務めに就いてから、いかに安息日が神から与えられた祝福なのかということを心からにじみ出るように感じ、それを共有することができるだろうかということは、自分自身の牧師という職を担うにあたって、もっとも大切な営みのひとつのように感じるのです。牧師になって20年を迎えようとしている今、そのことを会得したなどとはまったく思わないのですが、だからこそ、つねに神が与える言葉と行いの本質というものに眼を向け続けたいと願わされるのです。
 
神が与えられたひとつひとつの出来事を、神の善、神が与えられた命の喜びにつながるような私自身の生き方ということに心を寄せつつ、新しい一日を歩みたいと心から願いつつ、皆さんの一日にも神である主の喜びが豊かにあふれますように。心からお祈りします。

09/06/2025

2025.6.9(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編34編20節
正しき者に災いは多いが
主はそのすべてから助け出してくださる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書13章11節
あなたがたが連れて行かれ、引き渡されたとき、何を言おうかと心配してはならない。その時には、あなたがたに示されることを話せばよい。話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。昨日は聖霊降臨を記念するペンテコステの礼拝を、世界中の教会や集会で祝うことができました。聖霊降臨とは私たちにとって何を意味するのだろうか。そんなことに思いを寄せることができたのではないでしょうか。
 
誤解を恐れず申し上げれば、クリスマスやイースターの有名さに隠れて、ペンテコステがある「ようにも」見えるかもしれません。しかし、現実の世の中で生きる私たちにとって、実はペンテコステこそがクリスマスやイースターに引けを取らぬ、いや実は一番重要なのではないかと言っても過言ではないのではないかとも思わされます。ペンテコステには、父なる神も、子なるキリストも、クリスマスもイースターも、そのすべての「結晶体」なのだと私は受け止めています。聖霊のお働きなしに、私たちは何も知ることができないのだと。だからこそ、ペンテコステの祭りはやはり重要なのだと思わされるのです。
 
今日の聖書の言葉です。私は今日の旧約聖書の言葉である詩編の一節に触れて「正直者は馬鹿を見る」という言葉が思い浮かびました。正直者というか、神の愛や誠実さに触れて、私もその誠実さをもって生きようと自分の思いをさらけ出す人ほど、順風満帆どころか逆風の嵐に翻弄されるのだと。これが「正しい人は災いは多い」の意味なのだと私は受け止めました。神の御心に生き、神を神として生きるということは、自分自身を神とする力によって災いに遭うのです。
 
しかし、やられっ放しではありません。神が守ってくださると続いてこの詩編は歌っています。この作者はイスラエル王ダビデですが、ダビデ自身も民の指導者として生きる時に、神の御心に生きようとすればするほど、その抵抗力に苦しんだことは聖書に書かれている通りです。しかし、そんな時にこそ神が私を守ってくださるという経験と実感があったことも確かでしょう。だからこそ、ダビデはこのような詩を歌うことができたのだと思うのです。
 
この守りこそ、「弁護者」という名のついた聖霊の働きに他なりません。父なる神と子なるキリストが私たちを守るために遣わしてくださった聖霊は、あくまで神の御心に聴き、そのことに応答して生きようとする私たちの心に豊かに臨んでくださるのです。御自身の愛と平和をもって私たちを守るときに、それが表面的には災いに見えたとしても、内側からあふれてくる平安が私たちを支配してくださる。ここにこそ、聖霊降臨の幸いがあるのだとあらためて受け止めたいと思いました。
 
どうか今日の一日もまた、聖霊の導きが皆さんの生活を内側から豊かにさせてくださいますように。お祈りします。

08/06/2025

2025.6.8(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
ネヘミヤ記9章6節
主よ、
あなたはそれらすべてを生かしておられます。
天の軍勢はあなたを礼拝しています。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
使徒言行録4章31節
彼らの祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。聖霊降臨の祝福を記念するペンテコステの祭りが私たちのもとにやってきました。聖霊の豊かな恵みが皆さんともにありますように!そして、今日世界中の教会や集会で行われる礼拝や祝祭のすべてに、神からの祝福がありますことをお祈りします。
 
聖霊が与え、私たちにもたらされた恵みは、いろいろな側面で私たちを守り、慰め、励ます力があります。神が私たちを守るために与え、注がれた聖霊にはさまざまな働きや側面がありますが、今日のローズンゲンの言葉を通して私たちの知ることができる聖霊の恵みは「神の言葉が語り出され、私たちの礼拝が神の喜びで満たされる」ことであると私は受け止めました。
 
神の言葉は聖書を通して私たちは知ることができるわけですが、それは単に聖書の言葉を知識として吸収したからすべてが分かるものではないと私は思っています。もちろん学ぶことはとても大切な営みですが、それがただの文献ではなく「神の言葉」として受け入れるには、無くてはならない神の助けを私たちは必要とするのです。これこそ聖霊の働きに他なりません。
 
今日の新約聖書の言葉は、聖霊降臨がイエスの弟子たちに及んだ時に、早速さまざまなドラマがあったことを想い起こすひとつのエピソードです。神の言葉があらゆる言語で語り出されたときに、そこにはイエスが重罪人ではなく世界の救世主であることが明らかにされました。そのことを受け入れ、信仰告白をする者が大勢与えられました。それを良しと思わない人たちによって、語るのをやめさせようする動きもありました。
 
しかし、神の言葉はとどまるところを知りませんでした。人間がいくら抑えようとしても、神の言葉は聖霊の働きによってますます広がっていったのです。それから2000年が経ち、私たちの教会にも継承されて、今日、そのことを想い起こすことで聖霊のお働きを礼拝において喜べるのは、本当に嬉しいことなのだと私は思わされます。この思いをもって、今日という一日を過ごしてまいりたいと思います。
 
皆さんにとってのペンテコステが、そのような神の喜びに満たされたものでありますように。心からお祈りします。

07/06/2025

2025.6.7(土)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
歴代誌下20章6節
主よ。あなたの御手には勢いと力があり、あなたに立ちはだかる者は誰もいません。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書4章29~30節
彼らはイエスをナザレの町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。いよいよ明日は、聖霊が私たちのもとに降られたことを祝うペンテコステの祭りを迎えます。聖霊が私たちの命を活かし、教会や集会、神を主とあがめる信仰共同体を祝福してくださる源となることを今一度思いにとめながら、今日のローズンゲンに示された御言葉に耳と心を高向けてまいりたいと思います。
 
今日与えられた二つの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「神はいかなる抗力をも乗り越えさせる力をお持ちである」ということでした。究極的に、神は善悪の関わりなしにすべての者を治められる力をお持ちであるのは間違いないことですが、そのもとに命を与えられて、日々の生活を営む私たちは、つねに神を神とすることへの抵抗力に向き合いながら生きている存在であると言えるでしょう。自分自身の内にある問題、他者との関わりのなかで起きてくる問題、世のなかのことなど、どれをとっても、私たちは神を自分の神として生きていくことを難しくさせる状況というものは存在するのだと思えてならないのです。
 
これはいつの時代でもそうでした。いわゆる信仰者の列伝として聖書に収められているような人物でも、すべてが順風満帆に物事が進み、万事うまくいったかと言えば、そんなことはまったく無いのであって、多かれ少なかれ、私たちはいろいろな問題にぶつかり、それにさらされながら日々を歩まなければならないのです。そんななかで、神とともに歩みたいという切なる願いがあれば、神は必ず大切なことを私たちに気付かせてくださることによって、その問題を神に乗り越えさせていただくための知恵と力というものが実際的に与えられるのだと私は確信しています。
 
イエスが故郷ナザレで宣教をしていた時に、イエスの言動に反感を覚えた町の人々がイエスを崖から突き落とそうとしたことがありました。イエスを知る者たちの固定観念が、イエスの姿を通して浮かび上がる神の本質というものを見えなくさせてしまっていたのです。だから、イエスを無き者としようとする力がこの場にあふれたのでした。しかし、イエスは知っていました。神がこの状況を問題なく乗り越えさせてくださるということをです。ですから、イエスはそれらの反感や憎悪というものを自分の身に受けることはありませんでした。
 
どんなに大切なことを阻む力が働いたとしても、神の力はすべてを平和へと導かれる。このことを胸にしつつ、今日の一日を過ごすことができますように。皆さんの主にある平安を心からお祈りします。

06/06/2025

2025.6.6(金)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編125編2節
エルサレムを山々が囲み
主はその民を囲んでおられる。
今より、とこしえに。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネによる福音書17章15節
私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。今週もなかばを迎えました。そして、聖霊降臨の出来事を祝うペンテコステまであと2日となりました。ペンテコステ礼拝への備えをしている教会も多いことかと思います。どうぞ良き備えの時となりますように。一切に神からの祝福をお祈りします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するテーマは「神である主の守り」であると私は受け止めました。そのことについて綴ってみたいと思います。
 
日々の聖句の原版である「Die Losungen(ローズンゲン)」を発行している「ヘルンフート兄弟団(Herrnhuter Brueder Gemeinde)」は、ドイツ東部のヘルンフート(Herrnhut)という村にあります。実はこのヘルンフートという村の名前には「主の守り」という意味があります。フートは英語でいうハット(hat)であり、頭を守る大切な役割があります。神である主が私たちのことを守ってくださる。多くの迫害から逃れた信仰者たちが、ツィンツェンドルフ伯爵が所有するこの土地に新天地を求めたのでした。
 
神とともに歩もうとする思いを阻み、それをさせまいとする力は、古今東西変わりなくあるものです。それは悪魔サタンが神によってやがて滅ぼされるその時まで、私たち人間の世界に入り込んで、神から引き離そうとする力を存分に働かせるのです。
 
しかし、私たちは決してなされるがままではありません。悪魔が神を上回って抗しがたい勢力が発揮することはありません。なぜなら、悪魔も神の被造物のひとりに過ぎないからです。神は悪魔を最終的に滅ぼす力をお持ちなのです。今は悪魔の反抗と挑戦に対して、その挑戦が実現不可能であることを完膚なきまで痛感させようとする時に過ぎないのです。
 
神は忍耐をもって悪魔にその機会を許しつつ、その悪意に満ちた挑戦によって危険にさらされ、悪魔に翻弄されている私たちを必死に守ろうと働いておられるのです。そのためにある時にはそびえたつ山となって私たちをしっかりと神の御手のなかで守ってくださり、時には救い主イエスが私たちのために祈ってくださった。そして今でも、イエスは私たちのためにともに祈りをあわせてくださるのです。これが「主の守り」そのものなのです。
 
私たちはそのことを深く認識し、神が守ってくださることを自分自身の柱とできるように、神がご自分の言葉を聖書を通して授けてくださいました。そして、聖書の言葉を神の言葉として理解できるように、悪霊の力をも封じ込む聖霊の助けを余すところなく注いでくださるのです。折しも今日の新約聖書の言葉は神へのイエスによる祈りの一節ですが、その前に使徒たちに語られたメッセージには、私たちを守るための聖霊の働きについて話されたばかりでした。そこからイエスの祈りへとストーリーが進められているのは、とても興味深いことと言えるでしょう。
 
神である主は、今日も私たちのことをしっかりと守ってくださいます。私たちに求められるのは、神の私たちに対する信頼に心から答え応じることでしょう。神の信頼に応えることによる幸いが、今日も私たち一人ひとりとともにありますように。主の守りを心よりお祈りします。

05/06/2025

2025.6.5(木)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編50編16~17節
悪しき者に神は言われる。
「何のために、あなたは私の掟を数え上げ
 私の契約を口にするのか。
 あなたは私の諭しを憎み
 私の言葉をないがしろにする。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書7章21節
私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天におられる私の父の御心を行う者が入るのである。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さん、おはようございます。今週もなかばを迎えました。そして、聖霊降臨の出来事を祝うペンテコステまであと3日となりました。時が経つのは本当に早いものです。神に与えられた今日の一日を大切にしつつ、ローズンゲンに示されたふたつの聖書の言葉に今日も聴きたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を貫くテーマは「言行不一致」であると私は受け止めました。言葉では神をたたえ、あがめ、信仰しているという「私の思い込み」はないだろうか。そのことに眼を止めて自分の心のうちにあるものを精査することの大切さが、これらの聖句で言わんとされていることだと思ったのです。
 
自分自身を見つめる作業というのは、簡単なようでとても難しいものであると私は思っています。いつの間にかに自分の思い込みによって本質から乖離してしまっていることになかなか気づけないということが、私もしばしばあると感じさせられます。
 
私は「ジョハリの窓」というものを思い出しました。アメリカ・サンフランシスコ大学で心理学を講じていたふたりの心理学者が1950年代に提唱したものですが、人間にはそれぞれ「4つの窓」があると言われていて、
①自他ともに認める窓(解放の窓)
②自分は気付いていないが他者には気づかれている窓(盲点の窓)
③他者には気づかれていないが自分では気づいている窓(秘密の窓)
④自他ともに気づいていない窓(未知の窓)
の4つであり、自分が何者かに気付き、その気付いたものによって自己を開示することでより良いコミュニケーションを展開することができるといった考え方です。つまり、左の図で言えば、①を広げていくことで②③④が狭まっていけば、そこにあるのは健全なコミュニケーションのかたちであると言えるわけです。
 
私はこのジョハリの窓における「私と他者」を、「私と神の関係」に置き換えて考えてみたいと思いました。究極的には神と私の関係には④の「未知の窓」は存在しません。神はすべてをご存知だからです。今日の聖句における状態は②の「盲点の窓」の側面が強い時に、そのような状態が起きるのかなと思いました。自分で知っているつもりでも実は知らない、気づいていない状態です。しかし、絶対的な他者である神にはすべてを知られているというのです。
 
だからこそ、神との対峙によって自分自身を見つめていく作業というものが本当に大切になっていくのだということをあらためて思わされます。そのために、神が私たちに与えてくださったもの。それが神の言葉と聖霊の助けに他ならないということなのだと私は思います。たったひと言の聖書の言葉で良いのです。その言葉を前にして神と対話をし、思い込みを貫くのではなく、あくまで自分自身が何者かというものを神に気付かせていただく営みというものを、聖霊の助けを得ながら歩むところにこそ、神の平和というものが生み出されていくのだと信じたいのです。
 
神の御心を行う者こそ、天の国にふさわしい。今日の新約聖書に示された主イエスの言葉です。神の価値観が何であるかを知り、それを自分自身のいのちに浸みこませていく作業とは、決して動的なものであるとは限らないと私は思います。地道で地味な営みにも、じっくりと私たちの心に浸透する大切なプロセスであることを思いに留めつつ、今日の一日を主の助けによって生きていきたいと願わされました。
 
皆さんの一日にも、すべてをご存知である主が豊かに臨んでくださいますように。お祈りします。

04/06/2025

2025.6.4(水)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編89編27節
あなたはわが父
わが神、わが救いの岩

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マタイによる福音書6章11節
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さん、おはようございます。今週もなかばを迎えました。そして、聖霊降臨の出来事を祝うペンテコステまであと4日となりました。私たちの弁護者となってくださるために、父なる神と子なるキリストが私たちのもとへ送ってくださった聖霊の恵みを噛みしめながら、今日のローズンゲンに示された御言葉に聴きたいと思います。
 
今日のふたつの聖句を通して私が受け止めたいと思ったのは「日々生きる私たちのいのちを守るものとはいったいなんだろうか」という問いについてです。今日の新約聖書の言葉は、主イエスによって教えられた「主の祈り」の一節です。日ごとの糧を今日お与えくださいという私たちの願いです。
 
今、米の高騰問題や食料品などの物価上昇の問題などがありますが、この日本においては、基本的に「食べることに困らない」環境のなかで生きているというのは、誰もが認めることであると思います。たとえ食べることに事欠く状況が個々人の事情にあったとしても、フードバンクやこども食堂などのヘルプが多くあることを思うと、食べるといういのちをつなぐための取り組みと働きが、そのような事情に対する助けとしてなされていることを私たちはさまざまな場面で知るに至らされているのです。
 
そのなかで、日ごとの糧を与えてくださいという私たちの祈りは、どのように私たちの祈りとして神に向けられるのでしょうか。単なるお題目的なフレーズでこの祈りの言葉を述べているのであれば、私たちはそのことを神に向けて祈る意味というものが失われてしまうのではないか。そんなことをも思わされるのです。もちろん、祈っているうちに時にいろいろなことに気付かされるのもまた事実なのではあるのですが。。。
 
神に与えられたその日いちにちを生きるために、私たちは何を必要としているのでしょうか。もちろん物理的なものもあるでしょう。しかし、それと同等に、精神的な糧というのも決して見逃すことはできないのです。時によっては、そちらの方が私たちが今生きるいのちを保たせるために、無くてはならないものとして大切にしなければならないことだってあるのだと私は思うのです。
 
私たちにとって精神的な支えとなってくださるのは、神が私たちのいのちを慈しんでくださるという、聖書全体を通して一貫して語られている神の私たちに対する思いです。それが私たち一人ひとりに、ご自分の言葉と聖霊の力や助けによって私たちの心に浸みこんでいくときに、間違いなく私たちにとって生きるための「糧」となるのだということを、私たちは実感していきたい。その実感を味わうべく神が動いてくださるのだということを、私たちは心の栄養として積極的に心身に摂取していくならば、そこには守られているという安心感と幸いに包まれていくということは、多かれ少なかれ神とともに歩む人たちが経験しているでしょう。
 
今日の旧約聖書の言葉に「私の救いの岩」と父なる神をほめたたえる歌の一節が収められています。岩という言葉には我が身を危険から守ってくれる避難所のような意味も含まれています。私のいのちをその大きな岩で守られるときの安心感は、神が私たちに糧をくださることで得る安心感に相通じるものがあるのだと私は受け止めました。
 
いろいろな苦難も私たちには訪れますが、そんな時にこそ、私たちのいのちを確実に守られる方がおられるということを胸に抱いて、今日という一日を生きていくことができますように。皆さんの一日に、神からの守りと祝福が豊かにありますように。お祈りします。

03/06/2025

2025.6.3(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書6章3節
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
万軍の主。
その栄光は全地に満ちる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章7節
天使は大声で言った。「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来た。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて45日目を迎えました。そして聖霊降臨の出来事を祝うペンテコステまであと5日となりました。そのような暦のなかで、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日は「礼拝における聖性」ということを中心に考えてみたいと思いました。旧約聖書はイザヤ書6章における「聖なるかな」であり、新約聖書はヨハネ黙示録14章にある「神を礼拝する」という言葉から着想を得たからです。
 
私たちが普段から大切にしている礼拝の中心にあるのは、私たちの神が聖なる方であることが明らかにされるという一点に尽きると思います。そのことをどのように私たちが表現することができるのでしょうか。信仰の先達たちは、そのことを礼拝の構成、所作、建築、音楽、そして私たちの心構えという観点から探り続け、そしてそのことをかたちにしてきたのは私たちもよく知っている通りです。
 
しかし、その表現方法たるや、実に多種多様にわたっていることを思い知らされます。私自身もこれまで、実際に信徒として、そして牧師としていくつかの教会で礼拝を経験してきましたが、どれひとつとっても同じものではなく、しかし、そのどれもが素敵な表現であると実感してまいりました。だからこそ、その真ん中を貫く「神の聖性」というものが何かということをじっくり考えることは、本当に大切なのだと思わされます。
 
旧約聖書の原語であるヘブライ語では「分離された」を意味するカードーシュという言葉の和訳として「聖」という言葉が用いられています。つまり、私たち人間の世俗的な世界とは切り離されたところにこそ、神の聖性というものがあるのだと受け止めることができるわけです。そもそも神殿とはそういう空間を確保したものであって、それはキリスト教の世界でも教会建築に生かされてきた歴史があります。荘厳な空間というものを聖堂(礼拝堂)が大切にしてきたのは、私たちがイメージしやすいところなのではないでしょうか。
 
一方で、礼拝堂という空間は私たちにとっては、人と人との交流の場であったりもするわけです。いわゆる集会所的なイメージを決して否定することはできません。そういったなかで、私たちの交わりというものの中心に、神の聖性というものが貫かれていることが大切なのだと私は思うのです。そして、その聖性が私たちの空間を支配されるときに、それが決して形式的なものではなく、あくまで私たちの世俗世界とは切り離された神の聖性によって、私たちの豊かな人と人との出会いや交わりというものが存在しているのだということを、強く思わされるのです。
 
どんなに荘厳な教会堂や、格調高い礼拝形式が存在していたとしても、私たち相互の信仰者としての生き方や、人との出会いや交わりにおいて、神の聖性というものがあふれていなければ、それは形骸化されたものに堕してしまうのでしょう。だからこそ、切り離された神の世界というものが、私たちの日々の生活のうちにあることを心から意識するのは、本当に大切なことなのだと思わされるのです。決して容易くはないこのことに、心を寄せて、心を込めつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思わされました。
 
神の聖性が、私たちの日々礼拝するすべてに豊かにされることによって、私たちの生活をも豊かにされていきますように。心からお祈りします。

02/06/2025

2025.6.2(月)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
エレミヤ書8章21~22節
娘であるわが民の傷のゆえに
私も傷つき、嘆き、恐怖が私を締めつけた。
ギルアドには香油がないのか。
そこには医者がいないのか。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書19章9~10節
イエスはザアカイに言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて44日目を迎えました。そしてペンテコステまであと6日となりました。今日もローズンゲンに示されたふたつの御言葉から黙想を得たいと思います。
 
癒しようのないほどに深い傷を負うことがあるのだ。今日の旧約聖書・エレミヤによる預言の言葉は、まさにそのことを示していると私は受け止めました。エレミヤが言う傷ついた民とは、まさに神の民であるイスラエルの民のことを指します。神の民なのにどうして傷を受けなければならないのか。それは神がいるのにどうしてこの世から災いが消え去らないのかという問いに相通じるような気がします。効き目のない神に、人々は嘆きと悲しみをともないながら、その傷が癒えないのをうめき、叫ぶのです。
 
傷を癒す軟膏も、それを診てくれる医者もいない。このエレミヤの言葉に、私は癒しというものがどういうところから起きてくるのだろうかということをじっくりと考えてみました。そこでやはり考えるのは、自分自身の姿というものをじっくりと眺めた時に、何が見えてくるのかをいかに大切にできるだろうかということです。
 
つまり、最初から神はご自分の民を大切にするし、傷を癒す力をお持ちだし、医者のごとく私たちをケアしてくださる御方なのです。しかし、当の私たちがそれを認めない、分からない、受けとめられない。そんな時にやり場のない思いが神に責任を転嫁するかのような働きをしてしまうのではないかと私は思ったのです。本当は私自身が神に向くことにどれだけひたむきであるかを見つめ直さなければならないのに、そのことを棚上げして神はいない、助けがないとついつい言ってしまう私たちの現実の姿を見つめることなく。。。
 
今日の新約聖書の言葉は、イエスに出会った徴税人ザアカイがこれまでの生き方を見つめ直した結果、本人がこれまで、あえて嫌われるようなことをしてまで自部自身を傷つけてきた傷が癒されて、イエスこそ自分にとっての癒し主であることに気付かされた彼に神の救いが訪れたのだとイエスが語られた言葉です。ザアカイの生い立ちについてはいろいろ推測できるわけですが、分かっていることは彼もその人生で傷つき、また傷つけていたひとりであったということです。しかし、神は彼をそのままには決してなさいませんでした。ギレアデの香油をもって彼を癒されたのでした。こうして、新しい人生の日々を歩むことができたのでした。
 
私の傷を癒してくださる方は必ずおられる。そんなことを希望の糧として、今日も歩んでまいりたいと願わされました。皆さんにとっても癒し主である神が、今日もすべてにともなってくださいますように。お祈りします。

01/06/2025

2025.6.1(日)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
サムエル記上1章11節
ハンナは言った。「万軍の主よ、どうかあなたの仕え女の苦しみを御覧ください。この仕え女を心に留めてお忘れにならず、男の子を賜りますならば、その子を一生主にお献げします。」

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ルカによる福音書1章57~58節
月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。近所の人々や親類は、主が彼女を大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

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皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて43日目を迎えました。そして、イースターから数えて7回目の日曜日を迎えました。いよいよ来週日曜は、聖霊降臨を祝う「ペンテコステ」の祭りを迎えます。イエスが天に昇られた代わりに、私たちの日々を見守り導かれる聖霊を想う備えの時として、今日からの一週間を過ごしてまいりたいと思います。
 
5月は半分くらいしかローズンゲン黙想をお届けすることができませんでした。楽しみにしてくださっている皆さまへは、本当に申し訳ありませんでした。私自身、自分のライフスタイルを整えなければならないと感じることがあり、ここ数日間、そのための整理をしておりました。今日から始まる6月より、新しいルーティーンで毎日を過ごしていきたいと思いますが、ローズンゲン黙想はその基礎となればと私自身願っておりますので、引き続きのお付き合いのほど、よろしくお願いいたします。
 
さて、今日のローズンゲンに示されたふたつの聖句に共通するのは、長く子が与えられなかった女性の話です。のちにイスラエルの指導者として立てられたサムエルの母ハンナと、イエスに洗礼を授けることとなる洗礼者ヨハネの母エリザベトです。このふたりの女性に共通するのは、長く子が与えられることを望んでいたのにもかかわらず、それが叶わなかった人生を歩んできたということです。神の御前に誠実に生きているのに、どうして私に喜びを与えてくださらないのか。これは、私たちならば誰でも大なり小なり経験することであるかもしれません。
 
神は私たちの願いを無視される御方なのでしょうか。神はなんでもかんでも私たちの要求をそのままに叶えられるような方ではありません。神にとってその人の幸せとはなにかをすべてご存知なうえで、ベストのタイミングをもってその人に必要なことを与えてくださるというのが、聖書が物語る人への扱われ方なのです。ですから、このふたりの女性に子が与えられるというのも、神がそれがふさわしいことと思われたら、最も良いときにそのことを叶える力と知恵というものをお持ちなのでしょう。
 
ハンナはもし子が与えられるならば、その子を神にささげることを誓いました。その結果男の子が与えられて、その子は何かに無理やり強制させられることなく神の導きによって、神の民イスラエルの指導者としての人生を送ることになりました。そうすることで、神はご自分のこの地に対する意志というものを表されました。それは、洗礼者ヨハネとて同様です。非常に不思議な神の力が、すでに老女となっていたエリサベトに働かれました。そして、救い主イエスの先駆者としての人生というものを歩む役割が、その子である洗礼者ヨハネに与えられたのでした。
 
神の目的にかなったものであれば、その願いは必ず果たされることになる。そのことに私たち一人ひとりの生き方というものを問いながら、整えながら新しい日々を歩んで行きたい。そう願わされました。今日の一日もまた、新しい一週間の始まりとしてその良いスタートを切ることができますようにと祈りつつ、礼拝をはじめとするその時を過ごしてまいりたいと思います。皆さんの新しい一週間に、神の導きと平安がともに豊かにありますように。お祈りします。