03/06/2025

2025.6.3(火)#日々の聖句 #ローズンゲン 聖書のことば

くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
イザヤ書6章3節
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな
万軍の主。
その栄光は全地に満ちる。

旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
ヨハネの黙示録14章7節
天使は大声で言った。「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来た。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」
『聖書 聖書協会共同訳』より引用

******
 
皆さんおはようございます。救い主イエスの復活を祝うイースターから数えて45日目を迎えました。そして聖霊降臨の出来事を祝うペンテコステまであと5日となりました。そのような暦のなかで、今日もローズンゲンに示されたふたつの聖句から黙想を得たいと思います。
 
今日は「礼拝における聖性」ということを中心に考えてみたいと思いました。旧約聖書はイザヤ書6章における「聖なるかな」であり、新約聖書はヨハネ黙示録14章にある「神を礼拝する」という言葉から着想を得たからです。
 
私たちが普段から大切にしている礼拝の中心にあるのは、私たちの神が聖なる方であることが明らかにされるという一点に尽きると思います。そのことをどのように私たちが表現することができるのでしょうか。信仰の先達たちは、そのことを礼拝の構成、所作、建築、音楽、そして私たちの心構えという観点から探り続け、そしてそのことをかたちにしてきたのは私たちもよく知っている通りです。
 
しかし、その表現方法たるや、実に多種多様にわたっていることを思い知らされます。私自身もこれまで、実際に信徒として、そして牧師としていくつかの教会で礼拝を経験してきましたが、どれひとつとっても同じものではなく、しかし、そのどれもが素敵な表現であると実感してまいりました。だからこそ、その真ん中を貫く「神の聖性」というものが何かということをじっくり考えることは、本当に大切なのだと思わされます。
 
旧約聖書の原語であるヘブライ語では「分離された」を意味するカードーシュという言葉の和訳として「聖」という言葉が用いられています。つまり、私たち人間の世俗的な世界とは切り離されたところにこそ、神の聖性というものがあるのだと受け止めることができるわけです。そもそも神殿とはそういう空間を確保したものであって、それはキリスト教の世界でも教会建築に生かされてきた歴史があります。荘厳な空間というものを聖堂(礼拝堂)が大切にしてきたのは、私たちがイメージしやすいところなのではないでしょうか。
 
一方で、礼拝堂という空間は私たちにとっては、人と人との交流の場であったりもするわけです。いわゆる集会所的なイメージを決して否定することはできません。そういったなかで、私たちの交わりというものの中心に、神の聖性というものが貫かれていることが大切なのだと私は思うのです。そして、その聖性が私たちの空間を支配されるときに、それが決して形式的なものではなく、あくまで私たちの世俗世界とは切り離された神の聖性によって、私たちの豊かな人と人との出会いや交わりというものが存在しているのだということを、強く思わされるのです。
 
どんなに荘厳な教会堂や、格調高い礼拝形式が存在していたとしても、私たち相互の信仰者としての生き方や、人との出会いや交わりにおいて、神の聖性というものがあふれていなければ、それは形骸化されたものに堕してしまうのでしょう。だからこそ、切り離された神の世界というものが、私たちの日々の生活のうちにあることを心から意識するのは、本当に大切なことなのだと思わされるのです。決して容易くはないこのことに、心を寄せて、心を込めつつ、今日の一日を過ごしてまいりたいと思わされました。
 
神の聖性が、私たちの日々礼拝するすべてに豊かにされることによって、私たちの生活をも豊かにされていきますように。心からお祈りします。

0 件のコメント:

コメントを投稿