くじによって選ばれた今日の旧約聖書のことば
詩編25編16節
御顔を向けて、私に恵みを与えてください。
私は独り、苦しんでいます。
旧約聖書に応じて選ばれた今日の新約聖書のことば
マルコによる福音書10章47節
ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください。
『聖書 聖書協会共同訳』より引用
******
皆さん、おはようございます。
おととい昨日と、ローズンゲン黙想をお届けできず、申し訳ありませんでした。しなければならないことが立て込んでおりました。しかし、そういう時にこそ、御言葉に向き合う時間を第一に確保しなければと反省するばかりです。それが結果として、私自身の安心した生活を営むことができるからです。思いを新たに、今日ローズンゲンに与えられた御言葉に耳と心を傾けてまいりたいと思いました。
今日のローズンゲンに示された御言葉を通して私が受け止めたいと思ったのは、私をいつも見ていてくださる神がおられるということに、私自身気づく者でありたい。私は決して孤独ではないのだから、というものでした。自分のなかで忙しさが続くと、ついつい意固地になってしまう自分自身を発見してしまうのです。自分が孤独のヒーローのように感じてしまうのです。そして、他からの良いものを受け付けることなくはねのけてしまう自分自身があったりするのです。
そのなかで、私は思うのです。もっとも大切であり、そして私につねに良いものを与えてくださる方である神のまなざしまで受け入れず、はねのけてしまいそうな自分自身が時に顔を出してしまうということをです。そして、誰からも見守られない、私のことなど分かってくれないと孤独のヒーローのように自分自身が振る舞ってしまうのです。実際にそういうシーンを私たちは多少なりとも経験します。今日のふたつの聖句に共通するのは、誰からも手を差し伸べられないと思い、それゆえに苦しんだ人たちが、神に助けを求めているシーンです。
しかし、神はどのような状況であれ、私たちにご自身の御顔を向けてくださっているのです。問題なのは、私自身がそのまなざしがあることを自分の眼のかすみゆえに見ることができないという状態にあるということなのだと私は受け止めました。神が見てくださらないのではなく、私たちの神を見ることができないということなのです。それを、私たちは神のせいにしていないだろうか。そんなことを自戒を込めつつ思わされたのでした。
私たちには神の御言葉が聖書を通して与えられています。この言葉によって、私たちは励みや慰めを十分に受けることができるのです。聖霊なる神の助けが、私たちを守ってくださいます。聖霊の導きこそ、心で神を見つめるためになくてはならない働きであり、神は私たちのことを見つめつつ、聖霊の助けをもって私たちが孤独に感じないようにいつも助けてくださるということなのだと。私は自分自身の忙しさを言い訳にして、この大切なことを忘れかけていたことを神の御前に思い直したいと思います。決して孤独ではないのです。孤独ではないのです。
今日も自分自身に務めが与えられています。私を見つめてくださっている神に信頼しつつ、今日の一日を歩んでまいりたいと思います。皆さんの一日にも、神のまなざしが皆さんを豊かにしてくださる実感があふれんばかりにありますように。お祈りします。
0 件のコメント:
コメントを投稿